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軋む音とともに、扉がゆっくりと開く。
空気が揺れた。外とはまったく異なる密度の気配が、息苦しいほどに流れ出す。
中は真っ暗だった。
まるで、光そのものが拒絶されているかのように、黒が塗り重ねられている。
だが、ベルの瞳はその闇に怯まない。
闇など、とっくの昔に見慣れている。
それが何を隠していようと、今さら恐れる理由などない。
ベル「行きましょう」
ベルが一歩を踏み出す。
ノクスとナヴィも、わずかに警戒を強めながらその後に続いた。
扉は静かに、しかし確実に背後で閉じる。
音ひとつ立てず、まるで意志を持っていたかのように。
その瞬間、外の世界は完全に遮断された。
音も、光も、風すらもここには届かない。
「勝手に入ってくるなんて、失礼な連中だねぇ……」
老婆の声が闇の奥から響く。
それは乾いた笑みを含む。
暗闇に目が慣れると、ゆっくりと部屋の輪郭が浮かび上がる。
暗い色のカーテンが天井から垂れ下がり、ところどころが黒く焦げたように変色している。
壁は本棚で覆われているが、その中身は書物ではなく、乾燥した骨や奇妙な形の瓶。
小さな灯火が、魔術の刻印を描いたランタンから燐光を放ち、部屋の中央を照らしていた。
「まあ、私が招いたんだがね」
柔らかくもどこか嘲るような声が響いた。
その声の主は、部屋の奥——
積み上げられた色褪せた枕と布団の山の上に、まるで王座にでも腰かけるようにして座っていた。
ひとりの老婆だった。
痩せ細った体は骨と皮ばかりで、白くぼさぼさに乱れた髪が肩に垂れている。
深い皺がその顔に幾重にも刻まれ、特に目元の皺は時の重さを物語っていた。
右目には、宝石のような光を鈍く放つ――魔晶石が深く埋め込まれている。
ノクス「魔晶石……」
ノクスが小さく呟く。
その目に宿る異質な輝きに、彼の表情はかすかに強張った。
ノクス「魔晶石は、呪いを視る力を持ち……見る者に幻を見せる、と聞いたことがある」
ノクスの声には、知識としての確信と、少しの警戒が滲んでいた。
「半分は正解だね」
老婆は唇の端を吊り上げ、にやりと笑った。
「この目はもう昔ほどの力はないよ。ただ、呪いの気配をかすかに読み取る程度さ」
呪いを見る力。
その言葉に、三人は確信する。
先ほど街角に響いたあの声、ベルを「紅く黒い呪いの糸」と評したのは、この老婆だ。
ナヴィが小さく息を呑み、ベルを一瞥する。
ノクスも無言のまま、老婆とベルを交互に見た。
だがベルは表情を変えず、まっすぐに老婆を見据えていた。
ベル「あなたが、あの声の主……?」
ベルの声は静かに、だが確かな響きをもって空間に落ちた。
その問いに、老婆はくつくつと笑い、肩をすくめる。
答えの代わりに、部屋の空気がかすかに揺らぐ。
老婆のすぐ傍らに、白い影がふっと現れた。
まるで霧が静かに形を成すように、そこに彼は立っていた。
白磁のような肌。薄灰色の髪と瞳。
年の頃は十歳ほどか。しかし、その顔に子どもらしい感情の起伏はない。
まるで人形のように静かで、冷たく、どこか現実から切り離されたような儚さを湛えていた。
その少年は、無言でマルベラのそばに立ち尽くしていたが――
やがて小さく唇を動かす。
「……マルベラ」
闇を割るように、か細くもはっきりとした声。
その中には、微かな不安が滲んでいた。
無表情の仮面の奥に、ほんのかすかな心の揺らぎが見え隠れする。
老婆、マルベラはちらりと少年に目を向ける。
その目元に、ほんのわずかだが優しさが宿ったように見えた。
少年その声には、微かな不安がにじんでいた。
それは、無表情という仮面の奥にかすかに揺れる心の光を、辛うじて浮かび上がらせるような、かすかな震えだった。
ちらりと少年を振り返り、やわらかく頷く。
マルベラ「大丈夫さ、トーノ。怖い人たちじゃないよ。……たぶんね」
その言葉に少年はわずかに瞬きをし、再び静かに立ち尽くす。
マルベラはベルたちへ視線を戻し、ふうと一息ついた。
マルベラ「さっきの声はこの子のものさ。私のこの目は、トーノの目を借りて外を見ていた。もう、あまり遠くまで歩ける身体じゃないからね」
マルベラは小さく息をつき、背筋を軽く伸ばすと、改めて言葉を紡いだ。
マルベラ「名乗っておこうか。私はマルベラ、呪術士をしているよ。」
マルベラ隣に立つ白い影へ視線をやる。
マルベラ「この子はトーノ。うちの小間使いのようなものさ。まあ、手足の代わりってところかね」
少年は、それを否定も肯定もせず、ただじっとマルベラの横に立ったまま、目を伏せていた。
彼の存在はまるで空気のように薄く、それでいて目を離せない、奇妙な存在感を放っている。
マルベラは、皺の刻まれた手を軽くひらひらと振りながら、ゆるりと続けた。
マルベラ「外の通りがどうにも騒がしくてね。久しぶりに人の流れがざわついてる。だから、トーノの目を借りて覗いてみたのさ」
ベルたちは視線を交わす。
気配を隠していたはずの自分たちを、どうやって――そう思った矢先、マルベラの言葉が続く。
マルベラ「そしたらね、いたんだよ。何か古く重い気配を纏った子たちが。……そう、あんたたちさ」
マルベラの魔晶石の目が、不気味な光を揺らす。
マルベラ「古い時代の呪い……その気配が、あんたたちの周りにちらついてた。ちょっと気になっちまってね」
ふふっと、喉の奥で笑うその声音は、まるで遊び心を隠しきれない老狐のようだ。
マルベラ「だから、この家へと通じる“道”をつくったのさ。あんたたちが歩いた路地、それも私の導きだよ」
そう言って、マルベラは枕に埋もれるようにして、気楽そうに微笑んだ。
トーノは変わらず沈黙のまま、ベルたちをじっと見つめていた。その瞳の奥には、何かを測るような、澄んだ静謐が宿っていた。