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3-43

住人の視線は、狂気そのものだった。


ベルが通りを歩くだけで、熱病のように沸き立つ男たちの視線が彼女を追う。


舌なめずりすら隠そうとしない者もいた。興奮に歪んだ顔、爛々と光る瞳。

まるで獣が獲物を見つけた時のそれだ。

ベルの白い肌、覗いた手首、フードの隙間から細く揺れる髪の毛。そのすべてに、いやらしい欲望が貼りついて離れない。


一方で、女たちの表情には怒りにも似た感情が渦巻いていた。


「なんなの、あの子……」


「生意気そうな顔」


「気持ち悪い髪」


視線は嫉妬に爛れてそう呟きながらも、じっと彼女の姿に釘付けになっている。


ナヴィは、一歩後ろからそれらの視線を感じ取っていた。

その不気味な空気に、喉奥がじくりと痛む。

そして、ある言葉が胸の奥からせり上がってくる。


『……周囲の人間が彼女に向ける、説明のつかない渇望。』


それは、エラヴィアがかつて語った警告だった。


ナヴィの目に、今の光景がその言葉とぴたりと重なった。

理性が剥がれ落ちたような欲望。

まるで人ではないものが、ベルの存在そのものに惹かれているかのようだった。


ナヴィの手のひらに、無意識のうちに魔力が集まる。

冷気を帯びた拳が、じりじりと空気を凍らせ始めた。温度が下がり、視界の端に霧のような白い吐息が立つ。


ベル「ナヴィ、抑えて……彼らはただの無力な住人よ」


ベルの手が、静かにその拳を包み込んだ。

その手の温もりに、ナヴィの魔力がわずかに引いた。


ナヴィ「だが……不快だ」


ナヴィは低く吐き捨てるように言った。


ナヴィ「一度、ここを離れよう」


ノクスは周囲を警戒しながらうなずき、三人は浅層へ戻る道を辿り始めた。

だが、次の角を曲がった瞬間、道は歪んでいた。

どこかで見たはずの石畳が違う表情をして、まるでベルを閉じ込めるように変貌している。


ベル「大丈夫。焦りや怒りを鎮めて。この街はそういうものが好きなのよ」


ベルの声は不思議なほど静かで、凪いでいた。

彼女の言葉に、ナヴィとノクスはわずかに呼吸を整える。


その時――


「……紅く、黒い呪いの糸」


誰かの呟きが耳元をかすめた。


二人が周囲を振り返ったときには、すでにその声の主は見えなくなっていた。

けれど確かに、言葉は存在していた。

ナヴィがベルを一瞥すると、彼女はただ無言で前を見据えていた。


まるで独り言のように囁かれたその声は、ベルの足を止めさせた。

視線を巡らせるも、発した人物は見つからない。

だが、その一言は確かに、ベルを縛る“セラフの呪い”を見ている者の言葉だった。


ナヴィとノクスも異変に気づき、ベルの傍へと寄る。


ノクス「今の……誰の声だ?」


ノクスが周囲を見渡しながら低く呟く。


だが視線の合間、狂気の住人たちの目線の隙間、

そこに立っていたはずの誰かの姿は、もうなかった。


ノクス「いったいどこから……?」


ノクスが低く問いかけた。

その声には警戒と苛立ちがにじんでいる。


ナヴィ「紅く黒い呪いの糸……誰かが、見えていた」


ナヴィの目が険しく細められる。

周囲をぐるりと見渡せば、なおも住人たちの視線が、粘りつくようにベルへと注がれていた。



ノクス「……追うべきか?」


ノクスが問うた声には、葛藤が滲んでいた。

声の主が重要な手がかりである可能性は高い――だが、このままこの狂気に満ちた視線の中で、ベルを晒し続けてよいのか。


ノクス「俺は……もう、彼女をこんな風に見られ続けるのが耐えられない」


ノクスの言葉に、ナヴィも短く頷く。


ナヴィ「同感だ。あの目は、理性のある人間のものじゃない。まるで、獣だ」


だが、ベルは立ち止まり、そっとフードを押さえながら、落ち着いた声で告げる。


ベル「でも、次はないかもしれない」


その言葉は、どこまでも冷静だった。


ベル「この街は、迷宮みたいなもの。次に誰かが私の呪いに気づくとは限らない。……私は慣れてる、だから平気よ」


その“慣れている”という言葉に、ナヴィもノクスも一瞬、返す言葉を失う。

それがどれほど長くどれほど多く、彼女がこうした視線の中を生きてきたかを思い知らされた。


ナヴィ「……わかった。だが、少しでも危険を感じたら、すぐに引く」


ナヴィが言い、ノクスも頷く。


三人は、声の聞こえた方角へと足を向ける。

その方向だけが、唯一の道標だった。


道は、まるで彼らを試すかのように入り組んでいた。

左右の建物は歪み、影が蠢いている。

視線はなおも背後から追いかけ、時折、何かを囁くようなざわめきが耳に触れる。


ノクス「ほんとうに、この先に……誰かいるのか」


ノクスがぼそりと呟く。

不安が三人の間に沈黙として落ちた。


しかしベルだけは、変わらぬ足取りで進み続ける。

入り組んだ路地の裏手、湿気を含んだ石畳に足音を残しながら、三人は角を曲がる。


視線が途切れた。


まるで誰かの呪縛から解き放たれたように、ノクスが立ち止まる。そして懐から、細かく砕かれた乾燥薬草を取り出し、風に向かって手のひらを振った。


ふわり、と香りが舞った。


ベル「……この匂いは」


ベルが呟く。どこか懐かしげに。


ノクス「エラヴィアの隠れ家で使われていた薬草だ。気配を散らす作用がある。ミィナが用意してくれた」


ノクスが答えると、すぐにナヴィも匂いに気づいたように鼻をひくつかせる。


ナヴィ「……ああ、あの猫の娘か。確かに、あれほどの薬師はそういない。あいつがいれば毒も幻も帳に過ぎない」


珍しく素直な賞賛の言葉だった。

淡い煙のように広がる薬草の粉は、静かに三人の気配を包み込み、外界へと溶かしていくようだった。


この街では、魔力が本来のようには扱えないことがある。

流れは鈍く、意思の通りに力が発動しない。

目には見えない歪みが空間に充満し、術者の集中を削り取るかのようだった。

その不安定な環境を見越し、ミィナは魔術に頼らずに済むよう、慎重に薬草を選び準備してくれたのだろう。


三人は短く視線を交わすと、身を低くして慎重に進み始める。


風も通らぬような静けさの中、やがて、朽ちた木材と錆びた鉄でできた一軒の建物が、路地の終わりに姿を現す。


人の気配はない。にもかかわらず、三人の足は自然とその扉の前で止まった。

確信のようなものがあった。


ノクスが手をかけ、ベルとナヴィが警戒を保ったままうなずく。

ギィ……と、古びた蝶番が軋む音を立て、扉が静かに開かれた。



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