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3-42

翌朝、濃い霧が街の隅々にまで染みわたる中、三人は宿を出た。

街の外縁、いわゆる浅層から少し奥まった通りへと、ゆっくりと足を進める。


頭痛や吐き気はない。

ノクスは自ら作った魔導具の効果を確認するように、何度か深呼吸をした。

ナヴィもまた静かに周囲を観察していたが、その表情からも苦しげな色は消えている。


ノクス「……これで、少しは負担が減るな」


そう呟きながら、ノクスは前を歩くベルの後ろ姿に目を向けた。

淡い紫の髪を深く被ったフードに隠している。

彼女の歩調は変わらぬままだが、昨日よりもその背が少しだけ小さく見えた。

ベルに感じるのは疲労というより、消耗。


通常、結界魔法は術者がその場を離れて保つようなものではない。

ベルは街の異常な魔力を遮断する程の結界を宿の部屋へ展開し、自身は平然と行動していた。

どれほどの集中と魔力量が必要なのか、ノクスには想像もつかない。

だからこそ、この魔導具が彼女を少しでも解放できたことに、僅かに安堵を覚える。


だが、それも束の間。

ノクスの鼻先をかすめるように、ぬめりのある臭気が漂ってきた。


ノクス「……この感じは……」


呪術、禁忌の印、毒草を腐らせたような匂い。

通りの両脇には、言葉では説明できない品々を並べた露店が立ち並んでいる。

鱗と肉の中間のような質感の布。

黒く炭化したような本――だが中身は生きているかのように、時折ぴくりと動く。

赤錆のような匂いを放つ香炉からは、骨のようなものが煙に包まれ揺れていた。


「呪いの欠片はいらんかねぇ……精の病には特に効くよ……」


歯の欠けた老人が、擦れた声で客に声をかける。

その目は空洞のようで、誰を見ているのか分からなかった。


通りの端では、老女が布に包まれた小さな瓶をいくつも並べていた。

中に浮かぶのは、胎児のような、虫のような、しかし人の目玉にも似た何か。

「運命を変える薬」「過去の音を聞く香」「死の瞬間を封じた酒」


ノクスはその品々を見て、一歩立ち止まった。

知らない知識の断片――その可能性に、彼の胸はかすかに高鳴った。


ノクス「……!」


ベル「気持ちはわかるけれど、不用意な興味は向けないほうがいいわ」


ノクスの傍らに、いつの間にかベルが立っていた。

声は穏やかだったが、その声音には明確な警告の色があった。

彼女のラベンダーの瞳は、街全体を見据えるように鋭く光っていた。


ベル「ここからは、定住者が多く住む区域よ」


ベルは足を止め、石畳の上に立ち尽くす。


ノクスはゆっくりと周囲を見渡した。

確かに、通りを歩く者たちの目つきが変わっている。

浅層にいたような、何かに怯える浮遊者ではない。

この街の気配に染まり、自らそれを受け入れた者たちの目だ。


ノクス「情報を集めるなら、この辺りを探るべき……ということか」


ノクスは昨夜のナヴィとの会話を思い返す。


ベル「この街で生きる人間は、みんな何かを探してる。知識だったり、力だったり、自分自身だったり――でもその“答え”はどこかおかしい」


ベルは何も言わず、再び歩き出す。

だがその足取りには、明らかに警戒が滲んでいた。


ノクスは少しだけ眉をひそめた。

彼女は確かにこの街を知っている。

宿へ向かう道を迷わなかったのも、地図を必要としなかったのも納得がいく。

だが――


なぜ、ここまで強く警戒している?

まるで、何かを隠しているかのように。


ノクスの中に、答えのない疑念がゆっくりと芽を出す。

彼はベルの背をじっと見つめながら、その沈黙の意味を探ろうとしていた。


通りを彷徨うようにして、三人は「正気を保っているように見える者たち」を選び、言葉を投げかけた。


「呪いについて、詳しい者を探している」――その問いに、返ってくる声はほとんどなかった。


「呪いを? ああ、みんな呪われてるのさ。だからここにいるんだよ」


血色の悪い女が、乾いた笑いとともに答える。

その眼は虚ろで、まるで既に何かを諦めているようだった。


また別の男は、露店からこちらを睨みつけ、歯の欠けた口で囁く。


「あんたたちも呪われてる。……死にたくなけりゃこれを買え」


並べられた品々は、獣の爪に人の骨、黒ずんだ血が染み込んだ布切れ――見た目だけでも十分に禍々しい。


ベルが無言で視線を逸らし、ナヴィが露骨にその場を離れようとしたときだった。


――さらり、と衣擦れの音。

それはあまりに小さな気配だった。


ノクス「……?」


ノクスが気づくより早く、小さな影がベルに近づいていた。

ローブの裾を掴み、ぐっと引かれる。次の瞬間――


するり、とフードが外れる。


風もないのに、不思議とその動作は滑らかで、どこか演出めいてすらあった。


そして、現れたのは、淡い紫の髪。

月の光をそのまま糸にしたような、透明感を伴う光沢。


この街の暗く淀んだ空気の中で、その髪だけが異質な存在として際立つ。

見る者の意識を惹きつけて離さない、得体の知れぬ輝き。

それは美しさと同時に、どこか異様さを孕んでいた。


「……きれい」


その子どもが呟き、その髪に手を伸ばしかけた、その時。


ナヴィ「やめろ」


低く鋭い声が空気を裂く。

ナヴィがその手首を掴んでいた。


「ッ……!」


子どもはびくりと震えるが、泣きもせず、不自然な笑みを浮かべる。


ノクスが一歩前に出て小さく呟く。


ノクス「ナヴィ……あんな小さな子どもに」


しかし、ナヴィの返答は冷たく、怒気を孕んでいた。


ノクス「お前はもう少し警戒しろ」


そのまま子どもを突き放すように手を離し、睨みつける。


ナヴィ「“あれ”が子どもに見えるか?……俺には、魔法で成長を止めた老人にしか見えない」


ぎくりとしてノクスが振り返る。

その瞬間――


さっきの“子ども”が、にたりと、いびつな笑みを浮かべていた。


目だけが笑っておらず、肌の下で何かが蠢いているような、異様な“顔”。

そして、まるで合図のように。


周囲の空気が変わった。


ノクス「……っ」


ノクスは気づく。

この街の住人たち。通りを歩く者、露店の陰に潜んでいた者たちの視線が、一斉にこちらへと向いていた。


粘つくように、無遠慮に。

だがその視線のほとんどが、ノクスたちではなく――


ベル、ただ一人に注がれている。


その瞳には興味と好奇心、そして、ごくわずかに値踏みするような色も混じっていた。

あたかも、彼女の存在がこの街にとって、何か“特別な用途”のために選び取られるべき品であるかのように。



ノクスの背筋を、冷たい何かが這い上がる。



ノクス(……何だ、この空気は)



隣に立つベルは、気配に気づいているはずなのに、表情を変えない。

だが、わずかにその肩が震えているように見えた。


そして――静かに口を開く。



ベル「……行きましょう。長くここにいるべきじゃない」



淡い紫の髪が露わになった瞬間、通りの空気がぴたりと変わった。

風すら息を潜めたような静寂の中――目だけが、ぞろぞろとベルに向いた。


ベルは何も言わずに、ゆっくりとフードを深く被り直した。

その仕草には、疲れと倦怠と、諦めのようなものが滲んでいた。


だが、視線は逸れない。

それどころか、ますます増えていく。

通りの両脇、建物の陰、二階の窓の奥、屋根の上から。

どこからともなく現れた住人たちが、まるで何かの合図にでも従ったかのように、次々とベルを見つめ始める。


その視線は、ただの興味ではなかった。

舐めるように、這うように、いやらしく、じっとりと。

紫の髪から、首筋、肩、腰、足元へと順を追って身体をなぞるような感触があった。

触れられていないのに、触れられているような圧。

まるで肌に、視線そのものが染み込んでくるかのような。


ノクスが自然と歩調を早め、ナヴィは無言のままベルの隣に割って入った。

まるで見えない敵から彼女を庇うように、二人の肩がベルを挟む。


ノクス「……嫌な空気だな」


ノクスが低く呟くと、ナヴィは吐き捨てるように答える。


ナヴィ「気味の悪いやつらだ」


すると、どこからともなく声が降ってきた。



「ねぇ、綺麗な髪だね。どうしてそんなにうつくしいの?」


「もっと近くで顔を見せてよ、お嬢さん」


「痛いの、取ってあげるよ……優しくするからさ」



甘ったるい、気味の悪い囁き。

そのどれもが、表面だけは「優しさ」を装っている。

けれどその裏にある意図は――あまりにも透けて見えていた。


男たちの視線が熱を帯び始める。

欲望と執着、狂気の入り混じった眼差しが、露骨にベルを舐めまわす。


「なあ、あの子、連れて帰れねえかな」


「売ったらいい金になるぜ」


「いや、壊す前に遊びたいな……あの肌の白さ、最高だ」


耳に入ってきた会話に、ナヴィの眉がひくついた。

口元が歪み、拳が知らぬ間に握られていた。

ノクスもその場の空気に血の気が引いていくのを感じる。


だが、ベルは何も言わなかった。

まるで、何かを知っているような瞳で、ただ前を向いて歩いていた。


その瞳の奥には、恐れではなく……かすかな「諦め」と「冷たい理解」があった。



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