3-41
結界が張られた室内は、さっきまでの重苦しい空気が嘘のようだった。
ノクスの顔から蒼白さが消え、ようやく安らかな寝息を立て始める。
ナヴィもまた、指先から痺れが引いていくのを感じていた。魔力が体内に正しく流れる。まるで詰まりの取れた水路のように。
ナヴィ「……これが、ベルの魔法か」
ナヴィは低く呟いた。
まるで小さな世界を切り取ったようなこの空間。街の魔力を遮断し、外の異様さから彼らを守っていた。
ベル「しばらくはこの中で休ませてあげて。街の影響はすぐには抜けない」
ベルはそう言うと、結界の縁をそっと指先でなぞった。
ノクスの眠りを見届け、ナヴィはベルと共に宿を出る。
ふたたび街の空気が肌に貼りつく。ベルの結界の温もりが、もう遠い過去のように思えた。
ベル「この街での食事は、期待しないほうがいいわ」
ベルは外套のフードを目深に被り、ナヴィの隣を歩く。声の調子はいつもと変わらない。
ベル「そもそも、食べることを忘れてる人すらいるもの。意志が薄いの。ここでは、生きることへさえも」
彼女の言葉はまるで、この街そのものを語るようだった。
そしてどこか自分自身に重ねているようでもあった。
街灯はなく、ただ青白い石の光だけが道を照らしていた。
舗装された石畳は滑らかで、だが微かにざらついている。それは石というより、何かの骨に近い感触だった。
ベル「浅層には旅の商人もよく訪れるわ。今日もいればいいのだけど」
そう言いながら、ベルは路地の影に腰を下ろす人影に視線を投げる。
その人物は、何かの乾いた皮を敷物にして座り込み、前には錆びついた金属片や、形を成していない水晶のようなものを並べている。
目は焦点が合っておらず、しかしこちらを見ている気配だけがある。
ナヴィ「なあ、ベル……」
ナヴィは遠慮がちに声をかけた。
足取りはもう問題ないが、声にはまだ弱さが残っている。
ナヴィ「この街に……来たことがあるのか?」
沈黙。
ベルの足は止まらない。ただ、少しだけ、視線が遠くに向いた。
ベル「昔、何度か」
手短に、まるで切り取るように答える。
その一言には、多くの記憶が圧縮されていた。
そして、それ以上を語らせない何かがあった。
ナヴィ「この街は……病んではいるけど、たくさんの知識が眠っている。それを求めて集まる人は多いのよ」
彼女の声は平坦だったが、言葉の奥には警告めいたものがあった。
ナヴィはそれ以上は聞かなかった。
だが、彼の目には疑問が浮かんでいた。
ベルがこの街に何を求め、何を見たのか。
そんなことを考えているうちに、奇妙な破裂音が響いた。
ナヴィが視線を向けたその先。
さきほど道端に腰を下ろしていた住人が、手を叩いていた。
ぱん、ぱん。
無音に近い街の中に、不気味なほど乾いた音だけが響く。
口は、動いていない。
目も、どこか虚ろなままだ。
だが――何かが、確かに“反応”している。
視線の奥にある何かが、ナヴィたちに気づいた。
そんな直感が背骨を這い、肩の辺りで冷たいものが落ちるような錯覚を起こす。
ベル「見ては駄目」
ベルの声がすぐ隣から聞こえた。
低く、しかし鋭く突き刺さるような声だった。
ベル「見慣れない訪問者に、興味があるだけよ」
彼女はゆっくりと、何事もなかったかのように足を進める。
ナヴィも遅れて歩を合わせながら、そっと問いかけた。
ナヴィ「……あいつ、なんなんだ? 呼んでたように見えた」
ベル「そうね、誰かを呼んでいたのかも」
ベルは視線を動かさないまま言う。
ベル「最近では、竜人族の素材は希少だから」
それは、あまりにもさらりとした言葉だった。
ナヴィ「……え?」
ナヴィは思わず足を止め、ベルを見た。
だがベルは正面だけを見ていた。その横顔に、冗談めいた表情は一切ない。
ナヴィ「……冗談じゃないのか」
小さく、ナヴィが呟いた。
彼女は答えない。ただ歩き続ける。
足元を照らす青い光が、ますます寒々しく感じられた。
街の浅いエリアの外れで、旅の商人の小さな屋台が、かろうじて開かれていた。
売られていたのは、保存された干し肉と、硬い黒パン、それにほんの少しの果実酒。
どれも割高で、しかも味については期待できそうになかったが、贅沢は言えなかった。
商人の顔に生気はなく、一刻も早くこの街を離れたいように見えた。
それでも取引は成立し、ナヴィは安堵の息を漏らす。
ナヴィ「……とりあえず、飢え死にはしなさそうだな」
ナヴィが袋を肩にかけながら呟く。
ベル「ええ、今日はね」
ベルがそう返す。
それは、安心させる言葉ではなかった。
二人は、静かな宿の道を、ふたたび戻っていく。
背後では、誰かがまだ、手を叩いている音が続いていた。
宿に戻ると、室内の空気は静かに張り詰めていた。
木の床に置かれたランタンがゆらゆらと灯る中、ノクスは既に目を覚ましていた。
床に広げられた荷物の中には、金属片や結晶の破片、魔力を封じた封蝋が並び、彼の指先はまるで演奏家のようにそれらの部材を選び、組み合わせ、魔導具を組み上げていく。
小さな錬金用の魔方陣が床に描かれ、部材の上で淡く光を放っていた。
ナヴィ「……よくそんなに動けるな。さっきまで寝てたやつとは思えないぞ」
ナヴィの声に、ノクスはようやく顔を上げた。
ノクスの深い緑碧のその目は、現実の湿った空気とは無関係に、透徹とした知の光を湛えている。
ノクス「この結界の中にいる限り、街の影響は全くない」
無表情に、だがどこか満足げにノクスは答えた。
その口調に、ナヴィの皮肉はまるで通じていなかった。
ナヴィは、苦笑をこぼす。
だがその目は、ノクスの目に宿った“何か”に僅かに緊張していた。
あの外界と分断されたような結界の内側に身を置くことで、ノクスの魔力は完全に澄んでいた。
外の呪的な歪みを一切感じさせない、まるで実験室のような静けさ。
ノクス「ベルの結界、本質的に魔力の質が普通とは違うから……完璧に再現はできなかったけど」
ノクスはそう言いながら、机の上に置いてあった小さな銀の腕輪を手に取った。
淡い魔力が脈打つそれを、ナヴィの方へ差し出す。
ノクス「これで、街の影響を和らげられるはずだ」
ナヴィは無言でそれを受け取り、そっと腕にはめる。
腕輪の内側に刻まれた幾何学模様が、ナヴィの中にある氷の魔力と共鳴するように、鈍く光った。
ひやりとする感触と共に、肩から余分な重さが抜け落ちていく。
魔力の流れが正常に戻る感覚に、ナヴィは感心したように腕輪を見つめた。
ナヴィ「……この短時間でよく作れるな。錬金術師ってのは本当にすごいもんだ」
その言葉に、ノクスは一瞬だけ表情を曇らせた。
だがすぐに、その感情を飲み込んで、顔を伏せる。
ノクス「すごい……か」
ナヴィには届かないほど低く、ノクスが呟く。
この腕輪の設計図――
それは、かつて蛇の法衣で研究していた“魔力を封じ込める魔道具”の応用だった。
本来は、対象者の魔力を封じ、捕らえるための拘束具。
……その“対象”とは、ベルだった。
ベルを捕えるために編み出した理論。
今、その延長線上で、彼女の結界に守られながら、彼女を助けるために道具を作っている。
矛盾とも皮肉ともつかない感情が、ノクスの胸の奥でくすぶる。
けれど、指は止まらない。
ノクスは黙ったまま、新たな装置の部材を手に取った。
その背に灯るランタンの光は、奇妙なほど冷たく、透明だった。