3-40
それから幾日か、ただ歩き続けた。
風の音と、草木のざわめきと、靴音だけが旅路を彩る。
途中に町も村もなく、食糧も尽きかけていたところを、偶然通りがかった一人の旅商人が救ってくれた。彼は簡素な荷車を引きながら、乾いた笑みを浮かべていた。
「ここから先へは……行かない方がいい。あの街は、人が踏み入る場所じゃない」
それは忠告だった。
しかし三人は迷わなかった。
それぞれの理由と、背負うものを胸に、言葉少なに道を進み続けた。
そして、ついに。
霧が薄れ、黒く捻れた岩の尾根を越えたその先――
彼らの前に、不気味な静けさを湛えた“街”が姿を現した。
青白く光る石畳が、まるで生きているかのように揺らめいている。
どこからともなく漂う魔力の残滓が、空気をぬるりと濁らせ、鼻腔の奥を甘く痺れさせた。
中心には、崩れかけの巨塔「観星塔」が、歪な影を落としている。
その塔から蜘蛛の巣のように四方へ伸びる街路。
屋根も壁も水晶のような石でできており、時間の経過で黒ずんだ箇所すら仄かに光を放っている。
どこか、夢と現の狭間にあるかのような――幻惑的な景色。
ノクス「……あれが、“エン=ザライア”か」
ノクスが、まるで吐息のような声で呟く。
ベル「気をつけて。あの光……魔力酔いを誘うわ」
ベルが目を細めながら囁いた。
魔術に精通した者ほど、この空気に含まれる“何か”に感応してしまう。
不自然な酩酊感。意識が薄皮一枚向こうへとずれていくような、危うい感覚。
ナヴィは一歩前に出て、街の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
竜人の血が警告のように騒ぐ。ここは異常だ、と。
視界の端に、ぼろ布をまとった男が見えた。
巡礼者だろうか。目の焦点は定まらず、何かをぶつぶつと唱えながら通りをさまよっている。
他にも、目深にフードを被った女や、背中に古い呪文を刻んだ板を背負う老爺。
誰もがどこか怯え、警戒し、他人を避けるような足取りで、この街を歩いていた。
ナヴィ「……何か、不気味だな」
ナヴィの声に、ベルは答えず、ただ観星塔の影をじっと見つめていた。
その眼差しは、懐かしさとも、嫌悪ともつかない、複雑な色を帯びていた。
やがてベルはゆっくりと歩き出す。
導かれるように、静かに。
崩れかけた塔の向こうに、彼女だけが見ているものがあるのかもしれない。
ノクスとナヴィがその後を追う。
エン=ザライアの青白い光が、三人の影をゆらゆらと歪ませながら――沈黙の街へと、彼らを飲み込んでいった。
崩れかけた門をくぐった瞬間――空気が変わった。
乾いた土の匂いは消え、代わりに鼻を突くのは鉄と焦げの混じったような微かな臭気。
風は止み、肌にまとわりつくような重い空気が、三人の身体を包み込む。
ここは、エン=ザライアの“浅層”と呼ばれる区域。
まだ外から訪れた人の姿もちらほらと見える。
風変わりな巡礼者、屈託のない商人、どこか諦めたような旅の者たち。
だが、誰一人として笑わず、言葉も交わさず、まるで目に見えない罠を避けるように、細い路地をそろりそろりと歩いていた。
街路は、水晶を砕いて練り固めたかのような、透き通る石材で舗装されていた。
その表面は淡く、静かに脈動するように光を放つ。
青白い明かりが壁や天井に反射し、まるで街全体が静かに呼吸しているかのようだ。
普段なら、こういった魔術的建築に目を輝かせるノクスが、今日は違った。
足取りは重く、顔色は灰のように青ざめている。唇は乾き、額にはうっすらと汗。
ナヴィ「ノクス、どうしたんだ」
ナヴィが心配そうに問いかけると、ノクスはかすかに首を振った。
ノクス「あの門をくぐってから……なにか、おかしくて……。気分が……悪い」
呼吸が浅く、言葉の端にも力がなかった。
ベル「魔力酔いよ」
ベルが静かに答える。
ベル「この街に慣れるまでは仕方ないわ。特に、魔力に敏感な者はね」
事実、ノクスは三人の中でもっとも魔力の感知に長けている。
その分、この街に漂う“魔の残滓”に体が過敏に反応してしまったのだろう。
ナヴィもまた、目の奥にわずかな疲労をにじませていたが、しっかりとノクスに肩を貸し、歩みを支える。
それでも、どこか油断なく、視線だけは絶えず周囲を巡らせていた。
ベルはただ、黙って先を歩く。
まるで既知の場所であるかのように、迷わず足を進めていく。
光の揺らめきに照らされた彼女の背は、どこか――記憶の向こう側を歩いているようだった。
それを見て、ノクスはふと、問いかけたくなった。
ノクス「ベル……もしかして、この街を――」
だが、その言葉は口の中で止まった。
ベルの背に宿る、どこか懐かしくも、どこか“古い”気配。
問いを投げるには、それがあまりに重く思えた。
ベルの案内で、三人は通りを一本外れた裏路地に入った。
そこに建つ建物は、外から見てもただの廃屋のように見えた。だが、ベルは迷いもなくその扉を押す。
軋む音とともに開いた扉の向こうには、寒さと湿気の混じった空気が広がっていた。
宿と呼ばれるにはあまりに寂れたその場所には、炉もなく、灯火のひとつも見当たらない。
受付にいたのは、皺だらけの皮膚を持つ老婆だった。目は虚ろで、口は動いていても声が出ていないかのような錯覚に陥る。
それでも何かを確認するようにベルと目を合わせ、小さく頷いた。部屋の鍵が無言で差し出される。
ナヴィ「……歓迎されてる感じは、ないな」
ナヴィがぽつりと呟いた。
廊下もまた静かだった。足音が吸い込まれるように響かず、ただ青白い光を発する石が壁に規則的に埋め込まれているだけ。
まるで、生者のための場所ではないような、異様な静寂が支配していた。
部屋に入ると、わずかな家具と石のベッドがあるだけだった。木の床は軋みを上げ、空気はひどく冷たかった。
ナヴィ「……まるで誰かの墓の中みたいだな」
ナヴィが天井を見上げ、苦笑した。
その横でノクスは、まるで糸が切れたようにベッドへ崩れ落ちる。
しばらくして、ノックの音が静けさを破る。
ベルが現れる。
隣の部屋から来たようで、変わらぬ冷静な表情。だが、その視線はノクスの顔色をしっかりと確認していた。
ナヴィ「無理はしないで。まだ身体がこの街の空気に慣れてない」
ベルはそう言うと、ノクスの枕元に膝をつき、静かに魔法を発動する。
指先に灯る淡い光が空中に紋様を描き、それが霧のようにこの部屋に満ちる。
ナヴィ「……これ、は?」
ナヴィが驚いたように目を瞬かせる。
ベル「この街の魔力と、その影響だけを吸い上げて無効化する結界。けっこう消耗するけど……今は必要でしょ」
ベルはさらりと答える。
たしかに、二人の身体がふっと軽くなるのを感じた。重かった胸の内も、圧し掛かっていた見えない重石も消えていく。
ベル「このままじゃ外にも出られない。しばらくは……少しずつ動いて、慣れていくしかないわ」
ベルの声は淡々としていたが、どこか街の事情をすでに知っているような響きを帯びていた。
ベルのその目が、どこか懐かしさすら含んだまなざしで宿の外――その先の街を見ているようだった。