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3-38

夜が深まり、森の空気はしんと冷え始めていた。

焚き火の赤い光が揺らめき、小さな泉の水面にちらちらと映っては消える。虫の声はすでに途絶え、木々は夜の静寂に沈んでいた。


ナヴィ「ベルはもう、休ませてやったのか?」


泉から汲んだ水を置きながら、ナヴィがノクスに問う。

ノクスは焚き火に木の枝を足しながら、小さく頷いた。


ノクス「ああ、少し冷えるから毛布を渡しておいた」


ふと、ナヴィはテントの布越しに視線を向けた。

その中で眠っている少女は、静かに、穏やかに息をしていた。

まるで、どこにでもいる年若い旅人のように見える。


だがナヴィの胸に、過去の言葉が蘇る。


――あの子は、自分の形を保つために、人としての生活を演じている。食べることも、眠ることも、そのすべてが、祈りのようなものよ。


かつて、ナヴィがエラヴィアから聞いた言葉。

その意味を、今になってようやく理解し始めている気がした。


ノクス「俺が今夜の見張りをするよ。テントの中がよく見える場所だし、火のそばなら眠気もどうにかなる」



言うと、ナヴィはその肩に手を置いた。



ナヴィ「それなら俺がやる。ノクス、お前が一番休むべきだ。」


ノクスは目を伏せたまま、わずかに苦笑する。

それは何も言い返せないことを自覚しているからだ。

ベルは人の身を持ちながら、不死という異質の存在だ。

ナヴィは竜人族の血により、人間よりも強靭な肉体と精神を備えている。


そんなふたりの間で、自分だけが何も持たず、足りないような気がしていた。


だがナヴィは、そんなノクスの沈黙を否定するように、低く、静かに言葉を継いだ。



ナヴィ「ノクス。お前には、お前にしかできないことがある。それは、この旅にとって、何よりも大切な役目だ」


ノクスは、ほんの少しだけ戸惑いを見せた。


ノクス「……俺にしかできないこと?」


ナヴィは焚き火の炎を見つめながら、低く続けた。


ナヴィ「ベルの人間性……その日常を、守ることだ。

祈るように生きている彼女に、温かいものを渡し、穏やかな夜を与える。

それは、俺にはできない。……だがお前なら、できる」


ノクスは、少し目を見開き、そして静かに頷いた。

ナヴィは最後に言葉を添える。


ナヴィ「俺は剣を振るう。お前は、灯を守れ。……それで、いいんじゃないか?」


その言葉に焚き火の火がぱちりと音を立て、二人の影を大きく揺らした。


しばし沈黙が流れた。焚き火のはぜる音が、夜の深さを強調するように響く。


ノクス「……ありがとう、ナヴィ」



ノクスの声は小さく、けれど確かだった。

彼は立ち上がり、テントへと向かいながら、そっと振り返る。


ノクス「じゃあ、頼むよ。……ベルのことも、夜の森も」


ナヴィは頷き、そして再び焚き火に視線を戻した。

風が、木の葉をわずかに揺らす。


その音に、どこか遠い記憶が呼び起こされる。


エラヴィアが語っていた、あの少女。

傷つけられ、壊されそうになって、それでも形を保つために必死で「人間」を続けている存在。


――そんなの、まるで昔の俺じゃないか。


種族を失い、孤独に彷徨い、己の心が何者かも分からぬまま、それでも立ち止まらずに歩き続けた。

エラヴィアに出会い、ようやく生きる意味を与えられ、「生きていていい」と思えるようになった自分。



その痛みを、寂しさを、どこかベルの姿に見てしまう。


ナヴィは焚き火の灯りを背に、静かに森の奥へと視線を向けていた。

冷たい夜気が肌を撫で、草のさざめきや木々の軋む音がかすかに耳をくすぐる。

張り詰めたような静寂の中、焚き火の小さな爆ぜる音だけが、現実と夢の境を確かに繋ぎ止めていた。


そのとき――


視界の端で、淡い紫の揺らぎがふっと揺れた。

振り返ると、テントの入り口にベルが立っていた。


月明かりに照らされた白い肌、少し乱れた髪。

その瞳は眠りから覚めたばかりとは思えぬほどに澄んでいて、夜の冷たさを拒むような静かな意志が込められていた。



ベル「見張りを変わるわ。貴方も休んで」


彼女の声は穏やかだったが、そこに宿るのは一片の揺るぎもない決意だった。


ナヴィは小さく首を横に振った。

焚き火に薪をくべながら、低く、けれどどこか優しさを滲ませて言う。


ナヴィ「遠慮しておくよ。そんなことをさせたら……エラヴィア様に叱られる」


エラヴィアの名を聞いて、ベルの口元がわずかに緩む。

そのささやかな変化に気づきながらも、ナヴィはそっと視線を逸らした。


彼女の姿が――いや、「存在」そのものが、妙に儚く見えて仕方なかった。

まるで、目を離した瞬間に霧のように掻き消えてしまいそうで。


夜の霧に溶けるような、その輪郭。

こうして立っていることさえ、どこか現実味がなく、幻のようにも思えた。

ほんの少しでも何かが違っていれば、彼女はとっくにこの世界から消えていたのかもしれない――


実際、昨日がそうだった。

滅びた村の光景が、ふいに脳裏をよぎった。


そこに残されていたのは、異形の魔物たちの無惨な残骸。

すべて、真夜中に目を覚ましたベルの手によって屠られていた。


怒りも、憎しみも、何ひとつ感じられない殺し方だった。

ただ命の終わりを静かに告げるように、冷たく、確実に――まるで“災厄”そのものがひとり歩きして、そこを通ったかのような風景だった。


それを思い出すたびに、ナヴィは思う。

あの少女を、今はただの少女のように見せているもの。

ささやかな日常、眠ること、笑うこと、誰かと焚き火を囲むこと。

そのすべてを、守ってやらなければならないのだと。

心のどこか、深い場所で、強く、確かに。


ベル「エラヴィアの話を聞かせて」


ナヴィがそう口にしたとき、ベルの瞳がわずかに揺れた。


けれどその瞳の奥にあった感情は、あまりにも遠くて、掴みきれなかった。

夜風が吹き抜け、彼女の淡い髪をさらりと撫でる。


ベルは何も答えずに、ただ静かに焚き火のそばへ歩み寄ると、ゆっくりと腰を下ろした。

その仕草には、拒絶も、同意もなかった。ただ――黙って、ナヴィの隣にいることを選んだのだ。


二人の間に、しばし静寂が流れる。


黒々とした森を、月が静かに照らしていた。


焚き火のはぜる音が、夜の静寂を彩っている。

ベルは炎を見つめていた。


ナヴィは少し迷ったあと、口を開く。


ナヴィ「……魔法ギルドでのエラヴィア様は、本当に手のかかる方で……」


少し呆れたような、けれど誇らしげな声だった。


ナヴィ「“千年の知を讃える魔導師”なんて肩書きがついていたが、実際はいつも誰かのために奔走していてな。

自分の身のことなんて、二の次三の次。魔力の過剰消費で倒れたのを何度見たことか。

それをたしなめるのが、俺の役目だった」


ベルの頬が、ふっと緩んだ。


ベル「……あの子は、昔からそういう子だったわ。誰かが困っていると、黙っていられないの。

助けを求める声に、耳を塞げない優しい子」



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