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3-37

朝靄がまだ地を這う頃、三人は静かに道を進んでいた。

草を踏む音と、遠く鳥の囀りだけが、世界に命の気配を残している。


ナヴィは先頭を歩きながら、時折背後を盗み見る。

目立った異変はない――けれど、気配は確かに違っていた。


ベルは、静かだった。


ふいに視線を向けると、目が合う。けれど、彼女の瞳はまるで深い霧の底にあるようで、何も映していないようにも思えた。

それなのに、不思議だった。


どこか、妙に――心の奥が引っ掻かれるような疼きを感じる。


ナヴィは感情に無頓着なほうではない。けれど、この感覚は形容しがたかった。

慈悲でも憐れみでもなく、かといって警戒でもない。


もっと本能的な、獣じみた衝動。

触れてはいけないとわかっているものに、どうしようもなく手を伸ばしたくなるような――

あるいは、砕きたくなるような。


ナヴィ(……これが、あの話か)


ナヴィの脳裏に、エラヴィアの言葉が蘇る。


──彼女の中には、時折、人の中の何かを揺さぶるものがある。


──それはときに所有欲となり、あるいは破壊欲にすり替わる。


──それで彼女は、ずっと傷つけられてきたの。


あのとき、ナヴィはそれを、どこか遠い出来事のように聞いていた。

けれど、いま理解する。

目の前のこの少女に対して感じるものが、エラヴィアが語った“それ”なのだと。


ベルという存在は、静かに人の奥底を掻き乱す。

まるで、懐かしくも忌まわしい何かを呼び覚ますように。


ノクスが気を遣うように、何かを探るように、ベルに声をかけている。

けれど、ベルは答えない。

首をほんのわずかに動かすだけで、まるですべてをやり過ごそうとするかのように。


それが不自然でないのも、またおかしい。

この少女には、傷も、無関心も、沈黙も――全てが、最初からあるべきもののように見えるのだ。


ナヴィは眉を寄せた。

自分の内に生まれた衝動を否定するでも肯定するでもなく、ただ静かに観察しながら歩を進める。

彼女がエラヴィアの友である限り、自分は守ると決めている。


そんなときだった。


低く唸るような音が、草を撫でる風に混じって届いた。


ナヴィ「……止まれ」


ナヴィが低く呟き、手を挙げて二人を制止する。

森の中から、気配がにじみ出てくる。生ぬるい獣臭と、ぬかるんだ地を踏みしめる音。


やがて、茂みを掻き分けて姿を現したのは、よく見る――しかし油断ならない獣型の魔物だった。


黒褐色の毛並みに、骨のような外殻が局所的に浮かび上がっている。

頭部は狼に似ていたが、目は爛々と血のように赤く、異様に伸びた前肢の爪は地を擦るたび、土を抉る。


ナヴィが背中から刃を抜き、重心を落とす。

その動きに呼応するように、魔物が咆哮を上げた。


静寂は、次の瞬間にはもう消え去っていた。


ナヴィ「こいつは……見逃してもいい相手だ」


ナヴィは足を止め、唇をわずかに歪めた。

茂みから現れた獣型の魔物は、喉を鳴らしながら低く構え、地面を引っ掻くようにして距離を詰めようとしている。


ナヴィ「だが……稀に仲間を呼ぶ。そうなると、面倒だ」


言葉の最後には、かすかに殺気が混じった。

ベルとノクスが下がったのを確認し、ナヴィは懐から細身の剣を引き抜く。

細く鋭い刃は光を吸い込むような色合いで、鞘から抜けた瞬間、空気が一段冷え込んだような錯覚を覚える。


誰にも聞こえないほどの小さな詠唱が、ナヴィの口から零れ落ちる。

瞬間、剣に淡く白い霧がまとわりつき、音もなく冷気が舞い始めた。


獣が咆哮とともに跳ねた、その刹那。


一歩踏み込むと同時に振るわれた一閃。

それはまさに鮮やかと呼ぶにふさわしい、無駄のない一撃だった。


剣が魔物の胴をなぞった瞬間、冷気が爆ぜるように広がり、魔物の動きが止まった。


そして、まるで時間を置いて凍結が浸透していくかのように――魔物の体が音もなく凍りついた。


その目は驚愕を残したまま、ぴたりと動かなくなる。

次の瞬間、霜がきしむような音と共に、内側から砕けるように倒れた。

血は、一滴も流れなかった。



ナヴィ「……終わりだ」


ナヴィは淡々と剣を振り払うと、無言で鞘に戻す。

その背を見つめながら、ノクスは言葉もなく息を呑んだ。


見事な技だった。

戦いの間にまるで無駄がなかった。動きも、力の配分も、すべてが理に適っていた。



ノクス(……俺には、無理だ)


自分でも呆れるほど自然に、そんな考えが浮かんでいた。

ベルを守りたいと思っていた。けれど、それに足るだけの力が自分にあるだろうか。



日が傾き、森の木々が長い影を落とし始めた頃――彼らは小さな泉のほとりに足を止めた。


柔らかく草が茂り、木々に囲まれたその場所は風も穏やかで、野営には申し分ない。

ノクスは手慣れた動きで焚き火の準備を始め、枯れ枝を集め、火を点ける。

細やかな手際で簡易テントを張ると、泉のそばに仕掛けをほどこし、魚を釣り始めた。


ナヴィ「随分、慣れてるんだな」


周囲を警戒し、見回りに出かけていたナヴィが、焚き火のそばで煙を扇ぐノクスに声をかける。

ナヴィが声をかけると、ノクスはわずかに肩をすくめ、曖昧な笑みを浮かべた。


ノクス「昔、商隊の護衛に紛れて歩いたことがあるんだ。……あんまりいい給料じゃなかったけど、寝る場所や食事はどうにかなる術を覚えた」


言いながら、ノクスは目線を火に落としたままだった。


ナヴィは黙ってその姿を観察する。

言葉に嘘は混じっている――そう確信する。

けれどそれを追及するつもりはなかった。誰にだって触れられたくない過去の一つや二つはある。


ノクス「……そうか。俺も人の世に紛れて久しいが、釣りまでは覚えなかったな、更に俺の魔力では火は起こせない」


ナヴィは焚き火のそばに腰を下ろし、ゆるやかに笑う。


ベルは焚き火から少し離れた、火の粉の飛ばない位置に敷かれたマントの上に静かに座っていた。

手には、ノクスが差し出した小さな木の器。中にはミィナが持たせてくれたハーブティーが湯気を立てていた。

彼女はその香りを深く吸い込むと、まるで空気の温度を確かめるように、目を細める。


その瞬間だけ、普段の張り詰めた空気がふわりと解ける。

ノクスの目にも、それが映ったのか、ほっとしたような微笑が浮かんだ。


ナヴィ「……あの人といると、少しだけ緊張する」


ナヴィは小声で呟いた。それはノクスに向けたというより、焚き火に向けた独り言に近かった。


ノクス「緊張?」


ナヴィ「何かを試されてるような気がする。目の奥で……こちらの奥底を覗かれているような、そんな感覚だ」


ノクスはふと、焚き火の揺れる光の向こう、黙ってハーブティーを啜るベルを見やった。


ノクス「……俺も、似たようなことを思うことがあるよ」


ナヴィは再びベルに視線を戻す。

目の前にいるのはただ焚き火に手をかざす、物静かな少女に見える。


だが、胸の奥に走るざらついた疼きは、その外見にそぐわない「何か」を鋭く訴えかけてくる。

引っかくような痛み。焼けるような衝動。

そしてエラヴィアが語ったひとつの記憶――

彼女の中にある何かが、人の所有欲と破壊欲を強く刺激し、その衝動によって傷つけられてきた、という話を思い出す。


ナヴィ「……不思議な人だ」


その言葉に誰も返事をしなかった。ナヴィもそれを求めていたわけでもない。


夜が降りてくる。焚き火の赤が、徐々に闇に溶けてゆく。


ベル「……あたたかい」


ベルはぽつりと呟き、ほんの少しだけ表情を緩めた。

火のゆらめきがその頬に影を落とし、儚げな横顔にかすかな安堵の色が差す。


ナヴィはその様子をちらりと見やり、目を細める。


ナヴィ(エラヴィアが、彼女を守ってやってほしいと言った理由が、少しわかった気がする)


人の心に不意に触れるような、あの少女の存在感。

遠くから見ていると、どこか夢の中の光景のように感じられるのだった。


夜風が木の葉を揺らし、火の粉がふわりと空へ舞う。

静かな夜が、少しずつ、彼らを包み込んでいく。

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