表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
126/193

3-36

混乱したベルを眠らせ、ただ見守るように傍にいたはずだった。

それなのに、気づけば彼女の姿は音もなく消えていた。

ノクスは血の気が引くのを感じながら、慌てて廃村の中を駆け回った。


瓦礫と死の匂いが支配する村の道筋に、まるで何かを辿るかのように横たわる異形の魔物の骸。

その一つひとつを通るたびに、胸を締めつけるような不安が強くなっていく。

その道は教会へと続いていた。


壁の一部が崩れ、かつて扉だった空間から夜の冷気が流れ込んでくる。

瓦礫の隙間を縫うように、微かな足音が静かに響いた。


その音はベルにも聞こえていた。

だが彼女は足元を見つめたまま動かない。


瓦礫を踏みしめながら、ノクスは崩れかけた聖堂の内へと足を踏み入れた。

かつては荘厳な入り口だったはずの場所。今では、ただの石と鉄くずの山にすぎない。

彼は、そこをまるで今も神聖な敷居であるかのように、慎重に越えてきた。


夜の闇に浮かぶラベンダー色の髪が、月光を受けて静かに揺れる。

胸の奥を支配していた焦りと恐れが、ベルの姿を目にした瞬間、言葉にならない安堵と入り混じる。


床に崩れ落ちた異形の魔物の骸。

その傍らに、ただ静かに佇む少女。


血の匂いと崩れた教会。

不吉な光景の中にあっても、ノクスの目には――彼女は、ただ痛ましいほど美しく映った。


ノクス「いったい、何を……」


言葉が途切れる。

ノクスは、もう一歩だけ教会の奥へと足を踏み入れた。


ノクス「……ベル?」


ノクスの声に、ベルはゆっくりと振り返った。

しかし彼の顔を見ることはなく、ただ虚空をなぞるように視線を滑らせた。


ベル「どのくらい前のことだったか、ここで……」


その声は、まるで遠い夢を語るように淡かった。


ベル「彼に会ったの。初めて……セラフに」


夜風が吹き抜ける。割れたステンドグラスの残骸がかすかに鈴のような音を立て、月光の中で静かに瞬いた。


ベル「ほんの偶然。けれど、出会ってしまったあの瞬間に……何かが動き出していたのよ」


ベルはゆっくりと歩み出る。

足元には魔物の骸、砕けた聖堂の柱。

すべてが壊れ、失われたはずの空間で、彼女だけが時の向こうを見ていた。


ベル「私が……彼に、きっかけを与えたの」


言葉はまっすぐだったが、そこにあるのは告白ではなく、呪詛のような悔悟だった。


ベル「彼の目に、私が灯をともした。だから――全部、私のせい」


ノクスが目を見開く。ベルは微笑んだ。どこか壊れた人形のように、感情を込めきれない笑みだった。


ベル「呪いの糸も、セラフの執着も……全部。関係ないあなたたちを巻き込みたくない」


ノクスは静かに息を吸い、慎重に、言葉を選んで話し出した。

昼間には答えられなかった考えが一つの言葉になる。


ノクス「違う。俺は……俺の意志で、ここにいる」


ベル「……どうして?」


たったそれだけの言葉が、こんなにも重い。


ノクスは答えを探すように視線を彷徨わせた。

言いたいことはある――けれど、形にならない。

彼女を助けたいと思った。それは嘘じゃない。

けれど、それだけじゃない。


ベルを初めて目にしたあの瞬間。

自分の中にあった何かが、音もなく崩れた感覚。


観察者としての冷静さは消え去り、ただ彼女を目で追うことしかできなかった。

その後に知った、ルーヴェリスと共にある彼女の姿――完璧で、どこにも入り込めない、閉じた世界。


手を伸ばしても届かない光。

触れようとすれば、焼けるような痛みを感じる存在。


それでも、どうしようもなく惹かれた。


そんな感情の名を、彼はまだ知らない。

それでも、確かにそこにある。

言葉にならないまま、胸の奥に澱のように積もっていく。


ノクス「……それに、約束したからだ」


ベル「――誰と?」


ベルの声が、驚くほど静かだった。

けれど、その静けさが鋭い刃のように、ノクスの心を貫く。


答えなければ。そう思う。

だが、口を開いた瞬間――喉元に熱が集まり、鋭い痛みが走った。


ルーヴェリス。


その名が心の奥で浮かび上がると同時に、何かが喉を締め上げる。

声帯が灼かれたように、言葉が形を持てなくなる。


ノクスは苦しげに顔をしかめた。

声にならない。どうしても、言えない。

自分の意思ではない何かが、それを禁じている。


理解できない、けれど確かに存在する“枷”。

彼はゆっくりと目を伏せた。


ベルは何も言わず、ただじっとノクスを見ていた。

まるで、すべてを知っている者のように。

あるいは知っていた上で、なお黙っている者のように。



沈黙が落ちる。

夜の闇よりも濃く、触れれば切れそうなほどに張りつめた沈黙。


その緊張を裂くように、瓦礫を踏みしめる足音が静かに近づいてくる。


夜を裂く足音が、瓦礫を踏みしめて近づいてくる。

現れたのはナヴィだった。

ノクスとは別の方向から、ベルを探していたのだろう。


月光を受けて揺れる蒼銀の髪は、まるで竜の鱗のように光を反射していた。

彼はそのまま歩み寄り、冷ややかな眼差しで二人を見渡す。



ナヴィ「盗み聞きってのは趣味じゃないが……俺にも言わせてもらいたい」


皮肉を一滴だけ垂らすように、ナヴィは言った。

そして軽く肩をすくめ、息を吐く。


ナヴィ「“関係ない”だの、“巻き込みたくない”だの――ずいぶんと勝手な物言いだな」


その声に怒気はなかった。

けれど、冷たく鋭い静けさが、言葉の端々に滲んでいた。


ナヴィ「なら、こちらも勝手にやらせてもらう」


淡々とした語調。

だが、その奥には確かな意志が込められている。


ナヴィ「エラヴィア様のために、貴方を守る。それが俺の選んだ道だ」


その瞳は、夜の海のように深く静かで、揺るぎなかった。

言葉の裏にある感情を読み取るには、あまりにも表情が整いすぎている。


ノクスは、すべてを迷いなく言い切れるナヴィの姿を、どこか羨ましく思った。


夜が、ゆっくりと終わりを告げようとしていた。

砕けた瓦礫の隙間に、白んだ空の気配が滲みはじめる。


ナヴィの言葉の余韻がまだ空気に残るなか、ノクスが静かに口を開いた。


ノクス「……俺も、放っておけないんだ」


声は抑えられていたが、その奥には熱があった。

躊躇い、迷い、けれど確かに積み重ねられてきた想いが、そこにあった。


ノクス「今のベルは……まるで、落ちかけているように見える。俺の気のせいじゃない」


ベルの肩が、わずかに動いた。


ノクス「一人にしたくない。……一人に、させたくない」


ノクスは真っ直ぐに言い切った。


ベルはゆっくりと顔を上げた。

その瞳に感情は浮かんでいない。けれど、それでも――



ベル「……ありがとう」


その声はかすれていたが、確かに耳に届いた。


ベル「助けてくれて、探してくれて」



その言葉に、ノクスは少しだけ目を見開く。

ナヴィは何も言わず、ただわずかに目を細めた。


ベルは俯いたまま、しばらく沈黙する。


――夢が、頭の奥でまだ渦を巻いていた。


ベルの視線は地面の一点に落ちていた。

その瞳に浮かぶのは、今ではない。



ベル(……あれは夢だった)


けれど、肌に残るあの感触は、現実と寸分違わなかった。


暗く静かな水の中を沈んでいくような心地。

最初は安らかだったはずのその夢の中に、ふいに“何か”が触れてきた感覚。


細く、ぬるりとした糸のようなものが、腕に、背に、足に。

それはただの異物ではない。愛撫するように、衣服の隙間から忍び込み、優しく、だが逃げられないほどに絡みついてきた。


まるで生きているように、四肢を縛り上げるその糸。

喉、胸の先端、足首、内腿……全てを確かに「触れられた」と思わせる、その粘りつく感触。

最後に、それは容赦なく――


ベルは、無意識に肩をすくめていた。

心の奥で、まだその糸が蠢いているような錯覚すら残っている。



ベル「……ここに、いたくない」


ぽつりと、ベルは言った。


ベル「……セラフと出会ったこの場所に」


夢の内容を語ることはできなかった。

あれを言葉にした瞬間、自分の中で何かが崩れ落ちてしまう気がした。


聖騎士であったセラフ、彼を壊したこの場所。


ノクスはただ静かに頷いた。

ベルの言葉を多くは問わず、けれどその苦悩を感じ取っていた。


ナヴィもまた何も言わず、しかしその視線は鋭く、どこか見えないものを警戒しているかのようだった。


空がほんのりと青みを増してゆく中、三人はゆっくりと歩き出す。

かつて神がいた場所、祈りが満ちていたはずのこの礼拝堂を背にして。


朝の風が、ベルの髪を優しく撫でて通り過ぎた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ