3-36
混乱したベルを眠らせ、ただ見守るように傍にいたはずだった。
それなのに、気づけば彼女の姿は音もなく消えていた。
ノクスは血の気が引くのを感じながら、慌てて廃村の中を駆け回った。
瓦礫と死の匂いが支配する村の道筋に、まるで何かを辿るかのように横たわる異形の魔物の骸。
その一つひとつを通るたびに、胸を締めつけるような不安が強くなっていく。
その道は教会へと続いていた。
壁の一部が崩れ、かつて扉だった空間から夜の冷気が流れ込んでくる。
瓦礫の隙間を縫うように、微かな足音が静かに響いた。
その音はベルにも聞こえていた。
だが彼女は足元を見つめたまま動かない。
瓦礫を踏みしめながら、ノクスは崩れかけた聖堂の内へと足を踏み入れた。
かつては荘厳な入り口だったはずの場所。今では、ただの石と鉄くずの山にすぎない。
彼は、そこをまるで今も神聖な敷居であるかのように、慎重に越えてきた。
夜の闇に浮かぶラベンダー色の髪が、月光を受けて静かに揺れる。
胸の奥を支配していた焦りと恐れが、ベルの姿を目にした瞬間、言葉にならない安堵と入り混じる。
床に崩れ落ちた異形の魔物の骸。
その傍らに、ただ静かに佇む少女。
血の匂いと崩れた教会。
不吉な光景の中にあっても、ノクスの目には――彼女は、ただ痛ましいほど美しく映った。
ノクス「いったい、何を……」
言葉が途切れる。
ノクスは、もう一歩だけ教会の奥へと足を踏み入れた。
ノクス「……ベル?」
ノクスの声に、ベルはゆっくりと振り返った。
しかし彼の顔を見ることはなく、ただ虚空をなぞるように視線を滑らせた。
ベル「どのくらい前のことだったか、ここで……」
その声は、まるで遠い夢を語るように淡かった。
ベル「彼に会ったの。初めて……セラフに」
夜風が吹き抜ける。割れたステンドグラスの残骸がかすかに鈴のような音を立て、月光の中で静かに瞬いた。
ベル「ほんの偶然。けれど、出会ってしまったあの瞬間に……何かが動き出していたのよ」
ベルはゆっくりと歩み出る。
足元には魔物の骸、砕けた聖堂の柱。
すべてが壊れ、失われたはずの空間で、彼女だけが時の向こうを見ていた。
ベル「私が……彼に、きっかけを与えたの」
言葉はまっすぐだったが、そこにあるのは告白ではなく、呪詛のような悔悟だった。
ベル「彼の目に、私が灯をともした。だから――全部、私のせい」
ノクスが目を見開く。ベルは微笑んだ。どこか壊れた人形のように、感情を込めきれない笑みだった。
ベル「呪いの糸も、セラフの執着も……全部。関係ないあなたたちを巻き込みたくない」
ノクスは静かに息を吸い、慎重に、言葉を選んで話し出した。
昼間には答えられなかった考えが一つの言葉になる。
ノクス「違う。俺は……俺の意志で、ここにいる」
ベル「……どうして?」
たったそれだけの言葉が、こんなにも重い。
ノクスは答えを探すように視線を彷徨わせた。
言いたいことはある――けれど、形にならない。
彼女を助けたいと思った。それは嘘じゃない。
けれど、それだけじゃない。
ベルを初めて目にしたあの瞬間。
自分の中にあった何かが、音もなく崩れた感覚。
観察者としての冷静さは消え去り、ただ彼女を目で追うことしかできなかった。
その後に知った、ルーヴェリスと共にある彼女の姿――完璧で、どこにも入り込めない、閉じた世界。
手を伸ばしても届かない光。
触れようとすれば、焼けるような痛みを感じる存在。
それでも、どうしようもなく惹かれた。
そんな感情の名を、彼はまだ知らない。
それでも、確かにそこにある。
言葉にならないまま、胸の奥に澱のように積もっていく。
ノクス「……それに、約束したからだ」
ベル「――誰と?」
ベルの声が、驚くほど静かだった。
けれど、その静けさが鋭い刃のように、ノクスの心を貫く。
答えなければ。そう思う。
だが、口を開いた瞬間――喉元に熱が集まり、鋭い痛みが走った。
ルーヴェリス。
その名が心の奥で浮かび上がると同時に、何かが喉を締め上げる。
声帯が灼かれたように、言葉が形を持てなくなる。
ノクスは苦しげに顔をしかめた。
声にならない。どうしても、言えない。
自分の意思ではない何かが、それを禁じている。
理解できない、けれど確かに存在する“枷”。
彼はゆっくりと目を伏せた。
ベルは何も言わず、ただじっとノクスを見ていた。
まるで、すべてを知っている者のように。
あるいは知っていた上で、なお黙っている者のように。
沈黙が落ちる。
夜の闇よりも濃く、触れれば切れそうなほどに張りつめた沈黙。
その緊張を裂くように、瓦礫を踏みしめる足音が静かに近づいてくる。
夜を裂く足音が、瓦礫を踏みしめて近づいてくる。
現れたのはナヴィだった。
ノクスとは別の方向から、ベルを探していたのだろう。
月光を受けて揺れる蒼銀の髪は、まるで竜の鱗のように光を反射していた。
彼はそのまま歩み寄り、冷ややかな眼差しで二人を見渡す。
ナヴィ「盗み聞きってのは趣味じゃないが……俺にも言わせてもらいたい」
皮肉を一滴だけ垂らすように、ナヴィは言った。
そして軽く肩をすくめ、息を吐く。
ナヴィ「“関係ない”だの、“巻き込みたくない”だの――ずいぶんと勝手な物言いだな」
その声に怒気はなかった。
けれど、冷たく鋭い静けさが、言葉の端々に滲んでいた。
ナヴィ「なら、こちらも勝手にやらせてもらう」
淡々とした語調。
だが、その奥には確かな意志が込められている。
ナヴィ「エラヴィア様のために、貴方を守る。それが俺の選んだ道だ」
その瞳は、夜の海のように深く静かで、揺るぎなかった。
言葉の裏にある感情を読み取るには、あまりにも表情が整いすぎている。
ノクスは、すべてを迷いなく言い切れるナヴィの姿を、どこか羨ましく思った。
夜が、ゆっくりと終わりを告げようとしていた。
砕けた瓦礫の隙間に、白んだ空の気配が滲みはじめる。
ナヴィの言葉の余韻がまだ空気に残るなか、ノクスが静かに口を開いた。
ノクス「……俺も、放っておけないんだ」
声は抑えられていたが、その奥には熱があった。
躊躇い、迷い、けれど確かに積み重ねられてきた想いが、そこにあった。
ノクス「今のベルは……まるで、落ちかけているように見える。俺の気のせいじゃない」
ベルの肩が、わずかに動いた。
ノクス「一人にしたくない。……一人に、させたくない」
ノクスは真っ直ぐに言い切った。
ベルはゆっくりと顔を上げた。
その瞳に感情は浮かんでいない。けれど、それでも――
ベル「……ありがとう」
その声はかすれていたが、確かに耳に届いた。
ベル「助けてくれて、探してくれて」
その言葉に、ノクスは少しだけ目を見開く。
ナヴィは何も言わず、ただわずかに目を細めた。
ベルは俯いたまま、しばらく沈黙する。
――夢が、頭の奥でまだ渦を巻いていた。
ベルの視線は地面の一点に落ちていた。
その瞳に浮かぶのは、今ではない。
ベル(……あれは夢だった)
けれど、肌に残るあの感触は、現実と寸分違わなかった。
暗く静かな水の中を沈んでいくような心地。
最初は安らかだったはずのその夢の中に、ふいに“何か”が触れてきた感覚。
細く、ぬるりとした糸のようなものが、腕に、背に、足に。
それはただの異物ではない。愛撫するように、衣服の隙間から忍び込み、優しく、だが逃げられないほどに絡みついてきた。
まるで生きているように、四肢を縛り上げるその糸。
喉、胸の先端、足首、内腿……全てを確かに「触れられた」と思わせる、その粘りつく感触。
最後に、それは容赦なく――
ベルは、無意識に肩をすくめていた。
心の奥で、まだその糸が蠢いているような錯覚すら残っている。
ベル「……ここに、いたくない」
ぽつりと、ベルは言った。
ベル「……セラフと出会ったこの場所に」
夢の内容を語ることはできなかった。
あれを言葉にした瞬間、自分の中で何かが崩れ落ちてしまう気がした。
聖騎士であったセラフ、彼を壊したこの場所。
ノクスはただ静かに頷いた。
ベルの言葉を多くは問わず、けれどその苦悩を感じ取っていた。
ナヴィもまた何も言わず、しかしその視線は鋭く、どこか見えないものを警戒しているかのようだった。
空がほんのりと青みを増してゆく中、三人はゆっくりと歩き出す。
かつて神がいた場所、祈りが満ちていたはずのこの礼拝堂を背にして。
朝の風が、ベルの髪を優しく撫でて通り過ぎた。