3-35
記憶の底。
遥か昔。いや、ほんの数年前かもしれない。
——日が沈みかけた頃だった。
夜を越すための場所を探していたベルは、ある村を通りかかった。
村はすでに、異形の魔物に包囲されていた。
燃え上がる家屋。血のにおい。
崩れ落ちる悲鳴と、怒号。
だがその村には、既に助けようとする者がいた。
白銀の鎧を纏った者たち。
秩序と信念を掲げる、とある騎士団だった。
ベル「……正しさを掲げた者たち」
その戦いは、もはや戦ではなかった。
生き延びた村人の救出。
守るには遅すぎた村。
それを見ていたベルの目は、どこまでも冷たかった。
ベル(私には関係ない)
そう言い聞かせていた。
ただの通過点。眠る場所さえ見つけられれば、それでよかった。
だが、彼女の視線はふとある一点で止まった。
がれきの間を縫って駆けていく、小さな影。
——ひとりの子どもだった。
火の粉が舞う中、無我夢中で走るその子は、廃れかけた教会へと向かっていた。
ベル(なぜ、教会へ?)
ベルの中に、わずかな疑問が生まれる。
子どもの影がゆらりと炎の海を駆け抜ける。
ベルは、ただその後ろ姿を目で追っていた。
誰も気づかない。
怒号と金属のぶつかり合う音があまりにも大きすぎて、小さな足音など掻き消される。
数歩遅れて、ベルは教会の扉を押し開けた。
焼け焦げた木の匂い、煤けた聖堂の空気。
そこには、母親と思われる亡骸にすがりつき、泣き崩れる子どもの姿があった。
小さな肩が震えている。何もかもが壊れてしまった世界で、唯一残ったものにしがみつくように。
その静けさを裂くように、奥から異形の気配が現れる。
唸り声。
ねっとりと這うような音。
ベルは、反射のように魔法を呼んだ。
刹那、光の刃が閃き、魔物の咆哮を断ち切る。
切り裂かれた肉塊が崩れ落ちる音が響いた。
子どもが驚いて顔を上げ、ベルを見た。
その瞳は、恐怖と、混乱と、理解しきれぬ絶望の混合だった。
ベルに向けられた視線は、さっきまで魔物に向けていたそれとまったく同じものだった。
ベルは低く、乾いた声で言った。
ベル「……早く、逃げなさい」
子どもは一瞬迷ったように立ち尽くしたが、やがて静かに頷き、ふらつく足取りで去っていった。
残された教会に、また静寂が戻る。
炎の外とは切り離されたような静けさ。
ベルはしばし、何もせず、何も言わず、佇んでいた。
不意に、教会の外から近づく足音が聞こえた。
重く、硬質な音。鎧の――それも、軍靴のものだ。
隠れる理由などないはずだった。
けれど、面倒ごとに巻き込まれるのは望まない。
ベルは、習慣のように影へと身を潜めた。
扉が軋み、白い鎧の聖騎士が姿を現す。
剣を腰に、盾を背に。顔には疲労と焦燥、そして諦めにも似た表情が浮かんでいた。
おそらく、生存者を探し、残された魔物を狩っていたのだろう。
そのとき――ベルは気づいた。
彼の死角、背後の崩れかけた柱の影に、一体の異形の魔物が潜んでいる。
咆哮。
鋭く、耳を裂くような声が空気を切り裂いた。
騎士は反射的に剣を構える――が、遅い。
ベル(目の前で死なれると、気分が悪い)
ベルは考えるより早く、飛び出していた。
魔力を纏わせた刃が、魔物の体を横一文字に切り裂く。
血でも肉でもない、不浄の何かが空中に散った。
異形が崩れ落ちると同時に、騎士とベルの目が合う。
見開かれたその目は、赤褐色。
後ろに束ねられた黒い髪が、戦場の煤けた空気に揺れていた。
ベルの胸の奥が、微かにざわめいた。
まるで深い霧の中から、ひとつの輪郭が立ち上がるように。
ベル(あれは、セラフだった)
その記憶が、音もなく胸の奥に沈んでいた鈍色の水面を揺らす。
記憶の中、目の前の聖騎士は、息を呑んだまま動けずにいる。
驚愕、困惑、そしてほんのわずかに――畏怖。
けれどベルが見ていたのは、彼の瞳の奥に一瞬きらめいた、別の光だった。
赤褐色。
燃え尽きたようで、なお残る熱。
戦火の中で消えかけた命を、それでも拾い上げようとするような目。
ベル(あの時出会った聖騎士……彼が、セラフ)
現実の空気が、教会の破れた窓から吹き込む。
目の前の鎧の魔物を見つめ、彼女は静かに刃を振るった。
あの時と同じように、確実に、迷いなく。
鈍く腐食した金属音が響き、魔物は断たれ、崩れ落ちる。
ベル(あの日彼が堕ちてゆく先に、最初の段を置いたのは、私だった……)