3-33
ベルはノクスの魔法に導かれ、深い眠りに落ちていた。
夢も見ないはずの、ただ意識を沈めるだけの穏やかな眠り。
……そのはずだった。
暗く静かな水の中に沈んでいくような感覚。
温かく、何も考えずにいられる安らぎの中で、ふいに“何か”が触れる。
細く、ぬるりとした感触が、腕に、背に、足に――ゆっくりと絡みついていく。
それは単なる異物ではなかった。まるで意思を持つかのように、服の隙間をすり抜け、優しく肌を撫でながら、じわじわとベルの身体を覆っていく。
ベル「……っ」
ベルの眉がわずかに寄る。
心地よいはずの眠りが、生ぬるく濁り始めていた。
何かが、いる。
これは夢じゃない。悪夢ですらない。
もっと深く、もっと根源的な、“侵入”だった。
糸はまるで愛撫するように、首筋から鎖骨、胸のあたりを滑り降り、腹を這い、やがて内腿へと移動していく。
それは熱にも冷たさにも似た、どこか人の指に似た動きで、じわりと粘りつくように肌を辿る。
そのたびに、ベルの全身にぞわりとした戦慄が走り、無意識に身体が強張った。
けれど逃げられない。
閉じようとした足は肌に食い込む糸によってゆるやかに開かれ、払いのけようとした腕は頭上で静かに、しかし確実に押さえつけられていく。
柔らかく、それでいて逃げ場のない拘束。糸はまるで生き物のように、ベルの四肢を優しく、だが執拗に絡め取り、縛り上げていく。
そして、緩やかな動きのあとの沈黙。
次の瞬間――突如として糸は締まった。
手首を、足首を、喉元を、胸を。
まるで「ここにいる」と強く、強く主張するかのように。
その締め付けは容赦なく、痛みを伴いながらベルの感覚を引き裂いていく。
ベルの呼吸が止まりかける。
意識の底で、息苦しさが鋭い痛みに変わっていく。
ベル「……やめて、っ……」
声にならない声が、心の奥でひび割れたように零れる。
だが糸は止まらなかった。
それどころか、ベルの震えと拒絶に応えるかのように、その動きはさらに深く、濃密に、そして執拗さを増していく。
唇を押し開け、言葉を奪うように――まるでベルの声を求めるかのように、口内へとぬるりと侵入する。
束ねられた糸は指のように、ベルの身体を這い、探り、擦り上げる。
その動きはどこまでも緩やかで、どこまでも確実。
ぬめるような感触を軌跡として残しながら、今度はゆっくりと――しかし確実に、体の奥へと入り込んでいった。
その瞬間、ベルははっきりと感じた。
糸が“彼”を思わせる動きをしていることを。
あの、セラフの指先と同じ動き――静かで、残酷な慈しみ。
そして次の瞬間、侵入していた糸が、ベルの中の“何か”を引きずり出す。
それは彼女の最も深くに押し込められ、封じられていた、脆弱で幼い何か。
形のない“傷”が暴かれたような痛みに、ベルの口から、幼子のような泣き声が漏れた。
ベル「いや……いやぁ……っ……!」
まるで幼い少女のような泣き声が、ベルの喉の奥から漏れた。
か細く、震え、懇願するように。
魂の奥底で、かつて誰かに助けを求めた“あの時”の声が、夢の底から響いていた。
ベルの叫ぶ声は闇に消え、羞恥は終わらなかった。
肌を濡らすものが汗か体液か、それともその境すらもう曖昧になった今では、判別する意味すら薄れている。
ぬるりと肌を這う糸が、それを拭うように動くたび、ベルはただ静かに震えた。
体の表面と内側の境界が、糸の動きによって壊れていく。
まるでその律動を知っているかのように、触れて、探り、なぞる。
そして、確かに――そこに“セラフ”を感じた。
蘇るのは、あの夜。
無理やり押さえつけられた腕と、逃げようとする腰を容赦なく打ち付ける衝動。
痛みと、恐怖と、屈辱で意識が濁りきった中で、熱だけが焼きついていた。
乱暴に抱きしめられたのではない、押し潰され、犯されたのだ。
ベル「……ちがう……あれは、わたしじゃ……っ」
喉奥から洩れる声は、泣き声にも似ていた。
でも泣いてなどいない。悔しさと、惨めさと、どうしようもない錯覚だけが、ベルの胸を焼いた。
“彼”の名を拒絶しようとしても、指先が、体が、律動を記憶してしまっている。
糸の動きは、まるであのときのように、否応なく、身体を追い詰めていく。
そして、涙が頬を伝えば――それさえも見逃さない。
とろけた糸が、粘膜のように瞼を撫で、眼球を舐め取ろうと這い寄ってくる。
ベル「や、め……やめて……っ」
まぶたを閉じても意味はなかった。
薄く膜のように貼りつく感触が、視界の裏側まで侵食する。
まるで「泣かないで」とでも言いたげに、優しさを装った狂気がベルの涙を貪っていく。
そして、繰り返される。
終わりのない熱。
吐き出され、また注ぎ込まれ、止まることなく満たされる律動。
意識が焼け、白く飛びそうになるそのたびに、糸はそれを許さなかった。
甘やかすように、愛しげに、壊さぬように、それでも深く。
崩れ落ちる寸前の意識を、冷たい指先で引きずり戻してくる。
熱を孕んだ糸が、またひとつ、ベルの中に入り込んでくる。
それはもう、冷たいとも熱いとも区別のつかない感触だった。
ただ、異物であるという確かな事実だけが、ひりつくほど鮮明に突き刺さる。
まるで心臓を模したかのような脈動。
押し込まれるたびに、内壁が無理やり押し広げられ、じわりと染み出すような感覚が広がる。
重さすら感じるそれは、一本であることを拒むように、まるで絡みつく蛇の群れ――次々と押し寄せては、形を変え、執拗に内側を探ってくる。
ベル「……っ、く、う……」
喉から漏れた声すら、自分のものではないようだった。
入り乱れる感覚。
押し込まれる。擦られる。撫でられる。
内側から押し上げられる熱と、肌の表面を這う粘着質な感触。
それはどこまでも濡れていて、生温かく、拒もうとすればするほど絡みついてくる。
幾人ものセラフがいるような錯覚。
優しい声をした“彼ら”が、ベルの中で囁く。
それは言葉ではなかった。
耳を通さず、思考の奥に直接染み入るように流れ込んでくる。
『やっと僕の手の……糸の届くところまで戻ってきてくれた』
『そして今、君は僕たちが初めて出会った場所にいる』
『これは運命。だから、赤い糸をたどって君を迎えに行くよ』
『慈悲深いあの方も言っている――壊れた僕を、君が埋めるのだと』
甘やかで、狂気じみた声の余韻が遠のいていく中で、
琥珀色の光が闇の中に満ち始める。
ベルは――静かに目を開けた。
目覚めた、というよりは、悪夢の延長線上に現実が横たわっているようだった。
視界はぼやけている。
だが、頬に触れる木綿の感触や、微かに聞こえる風の音が
現実であることを告げていた。
部屋は静かだった。
傍らでは、ノクスが椅子に凭れかかって眠っている。
その足元には、ナヴィが毛布に包まり、静かに呼吸を繰り返していた。
ふたりとも、まるで自分が壊れてしまわないよう、寄り添うように眠っている。
ベルはそっと息を吸い込むと、片手を胸の前にかざす。
その指先に、淡く光が灯った。
声もなく、風もなく、
光はまるで月の吐息のように静かに広がり、ベルの全身を包み込んでいく。
温かく、それでいてひどく儚いその光は、瞬くうちに彼女の存在の輪郭を霞ませた。
ベルの気配が、空気からすっと消える。
空間に馴染むように、存在の重みが薄れていく。
ただ、在ることをやめたかのように。
ノクスも、ナヴィも気づかない。
ベルはそのまま、そっとベッドから立ち上がる。
一歩、床板を踏みしめても音はしない。
二歩目には、既に風と同じ。
窓辺に近づくと、夜の森の冷たい空気が彼女の頬を撫でた。
ベルは一瞬、眠るふたりに振り返り、目を伏せる。
そして音もなく扉を開け、夜の外気へと身を滑らせた。