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ナヴィは静かに腰を下ろし、傍らで横たわるベルと、その隣に控えるノクスに視線を向けた。
外では風が荒れた廃村の木造の壁を揺らしているが、この小さな空間には一時の安堵があった。
ナヴィ「改めて名乗ろう。俺はナヴィ・シルヴァイス。竜人族の末裔にして、“蒼風の守り手”の一員だ」
落ち着いた声音でそう告げながら、ナヴィは胸元に下げた紋章を指先で軽く叩いた。風を抱くような竜の意匠が刻まれたそれは、彼が属する組織の証であり、誇りでもある。
“蒼風の守り手”――それは、魔法ギルドを守護する魔法戦士たちで構成された救済部隊である。
ギルドの要請を受けてモンスターを討伐し、各地の紛争や災害に介入して人々を助ける。
彼らの存在は表立って語られることは少ないが、特に〈風の導き手〉エラヴィアのもとに集う者たちは、強い信念と使命を持ってその影に仕えている。
ナヴィ「エラヴィア様の命により、お前たちの旅に同行することになっていた。……本来ならもっと早く合流する予定だったんだ」
口元に苦笑を浮かべながらナヴィは続ける。
ナヴィ「これを用意するために」
ナヴィが懐から取り出したのは本の栞ほどの大きさの紙が数枚。
ベル「これは……転移符?」
ベルが目を細めて呟くと、ナヴィは紙片を指で弾いて見せた。
ナヴィ「……ただし、使い捨て、素材が貴重なんだ」
ナヴィはそう言いながら、紙片を2人に見せるようにかざす。紙の表面には繊細な魔法陣が描かれており、砕かれた魔石の粒子が微かに燐光を放っている。
それをベルに手渡し話を続けた。
ナヴィ「転移符。こいつに触れて魔力を通せば、転移魔法が発動される。行き先はエラヴィア様の隠れ家」
ベルが黙って札を受け取ると、ナヴィは言葉を続ける。
ナヴィ「……昨日一日でこれを用意させるなんて、エラヴィア様は人使いが荒いにもほどがある」
溜息をつく。
しかし、ふっと目元を細め、ナヴィは微笑む。
ナヴィ「どうか大切に使ってほしい。エラヴィア様の優しい願いが込められている」
そしてナヴィはノクスに目を向ける。
ナヴィ「恐らく……彼女の魔力で、この札は発動しない」
ノクスは気がついていた。
ノクスが手に取りかざしたときは魔石の粒子が輝いていたものが、ベルに手渡したその瞬間、光が消えていた。
魔法というものには、いくつかの重要な要素がある。
まず、魔法には術者との相性が存在する。
それは、生まれ持った魔力の質と、発動しようとする魔法との親和性の問題だ。
例えば、風に好まれる魔力を持つ者が風を操るのは容易だが、同じ者が炎を扱おうとすれば、理論上は可能でも、発動の手間も魔力の消費も段違いに増える。
魔法の詠唱とは、数式から答えを導くようなものだ。
自分の魔力がどう形を変え、どのように作用するのかを“イメージ”によって導くための道筋であり、それゆえに流派や個人によって異なる。
風を呼ぶ者ならば、風そのものを思い描けばいい。だが、火の魔力を持つ者が風を起こすなら、「熱が抜けた場所に風が生まれる」という別の理屈からイメージを構築する必要がある。
魔物が詠唱もなく魔法を使えるのは、その“イメージ”を本能で理解しているからだとされている。
また、詠唱を簡略化するための魔法陣や魔法符といった補助具も存在するが、それらも魔力との相性に左右される。根本的な魔力の性質が異なれば、陣や符そのものが起動しないことさえある。さらに、これらは発動準備に時間がかかるため、常用するには不向きだ。
そして「燃費」。
これは、相性と密接に関わる問題だ。
相性の悪い魔法を扱えば、それだけで膨大な魔力を消耗する。
しかも、消費に見合った効果が得られるとは限らない。むしろ威力は落ち、発動が不安定になり、術者に負荷がかかることが多い。
さらに、魔力の性質によっては「絶対に発動不可能な魔法」も存在する。火が水を凍らせられないように、根本から相容れない組み合わせもあるのだ。
ベルの魔力は、そうした分類には少し当てはまらない。
それは「死」の力──奪い、消し去る性質を持った魔力であり、あまりにも彼女に馴染みすぎているがゆえに、詠唱すら不要なほどだ。
だがその特異性の代償として、汎用性は極端に低い。
剣に込めた魔力は、斬撃とともに対象の存在を削ぎ落とす。
放たれた魔法弾は、命や物質の繋がりを断ち切り、形あるものを崩壊させる。
それはあまりに強力で、あまりに限定的な魔力。
だからこそ、彼女の戦い方は他の魔術師とはまるで異なるものになる。
ナヴィ「ノクス、何かあった時にはお前がこの転移符を使うんだ」
ナヴィの声は、刃のように真っ直ぐで重い。転移符を手渡すその仕草には、口数の少ない彼なりの覚悟がにじんでいた。
ナヴィ「……エラヴィア様が、よく言ってたんだ。
“死ねないからこそ、その苦しみには終わりがない”ってな」
ベル「エラヴィアらしいわね」
ベルは穏やかに微笑んだ。長く生きる友の、静かで優しい言葉を思い出しているようだった。
その笑みを見て、ノクスの脳裏には“死神の揺り籠”の中で見たベルの姿がよみがえる。
あれは、ルーヴェリスの部屋の片隅。
痛みに震え、まるで幼い子供のように、怯えながら涙を流していた彼女。
あれもまた、嘘ではない。隠された“本当のベル”の一つだ。
ノクスはその記憶に、胸の奥が軽く軋むのを感じた。
痛みとも、焦がれるような何かともつかぬ感情。