3-29
この世界において、基本的に魔物は決して「異界の存在」ではない。
彼らは大地に生き、空を駆け、時に人を襲う――そう、本能のままに。
魔物とは、単に「生き物」なのだ。
その姿形が異様であれ、魔力を纏っていようと、本質は飢えを満たし、縄張りを守り、己の種を残そうとする存在。
つまり、彼らが牙を剥くとき、それは人を「敵」や「餌」と見なした結果でしかない。
だが裏を返せば、必要のない殺生はしない。人に無関心な魔物も、時には人と共に歩む魔物すらも存在する。
また、呪いや災厄によって生み出された魔物もいる。
かつて人であった者、獣であった者、魔物であった者。
死に彩られた土地、恨みや憎悪の澱が溜まる場所では、元の姿を失い、異形の化け物へと変わり果てるのだ。
その姿は時におぞましく、あるいは神々しさすら伴う。
そうした異形の魔物や知性ある魔物たちは、時にひとりの少女の前に立ち止まる。
その身から漂う「死の匂い」に惹かれ、あるいは畏れ、彼女に牙を向けることなく退く。
その少女の名は、ベル。
死神に不死の祝福を受けし者。
魔物たちは本能でそれを悟るのだ――「自分たちよりも死に近い者」だと。
今、ベルたちの目の前に姿を現したのは、唸り声を上げる狼の魔物たちだった。
森の奥から現れたそれらは数頭の群れを成し、鋭い牙と血走った瞳で二人を睨みつける。
彼らはおそらく、森に残された痕跡を嗅ぎ分け、執拗に追跡してきたのだろう。
そして今、二人を「食料」と見なし、ためらうことなく襲いかかろうとしている。
ノクス「魔物……」
ノクスが低く唸るように言うと、ベルはすっと前に出た。
ベル「……大丈夫。ノクスは此処にいて」
跳ねるような軽やかな動きで、ベルはノクスの前に立ちはだかる。
短剣を逆手に握ると、その刃に紫の魔力が絡みつき、微かな光を灯す。
次の瞬間、狼の一体が吠え声とともに飛びかかってきた。
ベルは一歩も引かず、体を滑らせるように回避し、魔力を乗せた短剣で喉を断ち切った。
肉を裂く鈍い音と共に、魔物が地に崩れ落ちる。
続けて二体、左右から挟み込むように突進してくる。
ベルは地を蹴って跳躍し、宙を舞いながら魔力を足元に展開。
空中で体勢を捻ると、回転と共に一体の頭を切り裂き、着地と同時に背後の一体を蹴り飛ばす。
その間も、短剣はまるで舞うように動き、魔力の軌跡が尾を引いて残る。
まるで時間すら彼女の意思に従っているかのような動きだった。
ベル「まだ……後一匹」
その声と同時に、ベルの身体はわずかに揺れる。
白い肌に浮かぶ、魔物の血と自らの血の赤が溶け合い、紅に染まる。
紫の瞳には魔力の高まりと共に赤みが混じり、まるで異形の輝きを宿していた。
ノクスはその光景を、何もできずにただ見つめていた。
彼女の強さは確かに圧倒的だった。だが、それは同時に――
不死であるがゆえに、痛みや傷を無視して突き進む、自己犠牲と紙一重の強さでもあった。
そしてその時、ノクスは気づいた。
ベルの魔力が、わずかに、しかし確実に“乱れて”いることに。
ベル「な、に……?」
ベルの瞳がかすかに揺れる。瞳から赤い色が抜けた。
それと同時に、彼女の体から放たれていた魔力の気配が、ふっと途絶えた。
ノクス「ベル!」
ノクスは息を呑むと、雷に打たれたような勢いで駆け寄る。
だが、それよりも早く、ベルの膝が折れ、地面に崩れ落ちた。
最後の一頭の魔物――群れの中でもひと際大きな個体が、咆哮をあげながら跳びかかる。
その巨大な爪が、ベルのか細い身体に届こうとした、まさにその瞬間。
雷鳴にも似た風切り音が大気を引き裂く。
同時に、空気が一気に冷え込んだ。
世界が一瞬、止まったような静寂。すべてが凍りつくような、死の静けさ。
ノクス「……っ!?」
魔物の動きが、ぴたりと止まる。
その毛皮に走るのは、青白く輝く、氷のような紋様。
まるで霜が一瞬で広がったように、その模様は魔物の全身を覆い尽くしていく。
苦悶の声をあげる間もなく、魔物は凍り、砕けるようにして崩れ落ちた。
乾いた音とともに、氷の欠片となって、地面に散る。
ノクスの腕の中、かすかに意識を取り戻しかけたベルが、ゆっくりと瞼を開けた。
彼女の視界の先――
そこに立っていたのは、一人の男。
銀の鱗を思わせる光沢を帯びた蒼銀の髪は風に揺れ、瞳は氷のように淡く光っていた。
彼の体を包むのは、古の紋様と実用性を兼ね備えた軽装鎧。
彼は、静かに足を止めると、ゆるやかに首を傾け、ベルとノクスに目を向けた。
その瞳に宿るのは、驚きでも怒りでもない。ただ――深い興味と、どこか神聖さすら感じさせる敬意。
「――もう少し遅ければ、死ぬところだったな、お前」
その声は低く、凍てついた銀の音色のようだった。
耳を打つのではなく、胸の奥を掻きむしるように響き、空気すら震わせる。
突然現れた男。自分たちを知っている――それも、明らかに"名前"を知っている。
ノクスは無意識に一歩、ベルの前に立ちふさがる。
ノクス「誰だ、お前は」
「ナヴィ・シルヴァイス。……エラヴィア様に聞いてなかったのか?」
その言葉に反応する暇もなく、ベルの瞼が静かに閉じられ、彼女は眠りへと落ちた。
銀とも水色ともつかぬ、揺らめくような髪。
月明かりを浴びた氷河のように、光を受けるたびに冷たく輝きを変え、揺れるたびに静かに雪の気配を撒き散らす。
彼の体はすらりと高く、しなやかで、まるで氷で彫られた神像のようだった。
だが、ただの人間ではない。
その肌にはうっすらと鱗のような輝きが浮かび、まとう冷気がノクスの皮膚を刺す。
目の前に立つのは、まるで「冬」そのものが人の姿をとった存在。