3-28
雲が朝日を覆い隠し薄暗い日の出を迎える。
明け方、戻ってきたエラヴィアの表情には疲れが滲んでいた。
隠れ家でベルとともに待つミィナとカイルも眠れぬ夜を過ごした。
エラヴィアがこの森の近くには怪しい者の気配がないと風の精霊からの言葉を伝えてくれてはいたが、ノクスはセラフと対峙した記憶、ミィナも森で見た黒い影の記憶を呼び起こし不安になった。
ミィナ「ベル、そろそろ起きる時間だよ」
ミィナは優しい声で語りかけるように呪文を詠唱する。
彼女は胸の前で両手を組み、小さく囁く。
ミィナ「おはよう、おひさま 目覚めの鈴を ひとつ鳴らして」
香るような光は空気に溶け、やがてベルのまぶたにそっと触れる。
まるで春の草原が、やわらかな風で頬を撫でるように――
ぬくもりとともに、静かな目覚めを運ぶ魔法だった。
眠りについていたベルの瞳がゆっくりと開き、光を受けて瞬く。
ミィナ「おはよう、ベル!」
元気に朝の挨拶をするミィナに目覚めたばかりのベルは戸惑う。
それでも場の雰囲気に気がついたのか、ベルは、何があったのかと尋ねる。
ベル「昨日の夜のことは覚えている?」
エラヴィアの問いかけにベルは、首を振る。
ベル「エラヴィアとノクスと話すうちに……また眠ってしまったのかと」
エラヴィア「ベル……呪いの糸の影響が、思ったよりも深刻なの」
エラヴィアは、昨夜ベルが幼い子どものように泣き、怯えていたことを話した。そして、ノクスの魔法によってようやく眠りについたことも。
ベル「私に……魔法で眠りを……?」
ベルは、自分の異常な振る舞いよりも、これまで一切効かなかった“精神に影響を与える魔法”が効いたという事実に、驚きを隠せなかった。
ベル「魂に絡みつく糸……それを伝って、私の精神にも魔法が届いたということかしら」
エラヴィア「私は、その糸の繋がる先に……あの男の気配を感じてならないの」
ベル「……」
ベルは、まるで見えない糸を探すように、どこか遠くを見つめた。
ノクス「あの男……もしも、奴がまだベルを探しているとしたら……」
ノクスはそう言いながらも、実は確信していた。
死神の揺り籠で眠っていた二人。ルーヴェリスの元で過ごした間に流れた、現実での七年という時の隔たり。
だが、その時間の流れによってセラフの狂気が失われたとは――到底思えなかった。
あの夜のセラフとの戦い。
ノクス……かつてのカイルは確かにベルを救った。
しかしそれは戦いに勝った、というよりは逃げ切ったのだ。
死神ルーヴェリスの爪をベルの元に届け、彼の元へとベルと共に逃げた。
これからの旅はあの時のようには行かないだろう。
ノクス「俺に……ベルは守れるのか」
エラヴィア「そのことに関しては私も考えているわ」
エラヴィアはふと視線を向けると悔しそうに手を握りしめるノクスに気がつく。
エラヴィア「ノクス、けしてあなたを責めている訳ではないわ、あなたの力は探求し、創り上げる力……それがベルを救ってくれた」
エラヴィアの優しい眼差しはかつてノクスに魔法の教えを説いた師としてのものだった。
雲の切れ間から差し込む朝日が一瞬、隠れ家の中に光の道を作る。
エラヴィア「ノクス、これから向かうべき場所を記した地図を渡すわね……目的地は水晶と影の街」
ノクスはエラヴィアから地図を受け取る。
ベル「水晶と影の街……エン=ザライア」
ベルがポツリと呟く。
ノクス「知っているのか?」
ベル「ええ、何度か足を運んだわ……この街が影の街と呼ばれるずっと前にも」
ベルの表情は懐かしいものを思い出すようだ。
エラヴィア「ここは古代の文献と闇の術に携わる者が多く集まるわ、何か手がかりがあるはずよ、それに……呪いの気配が多い場所だから、ベルをあいつの目からごまかせるかもしれない」
エラヴィアの表情は穏やかだ、しかしその目は揺らぐ。
ミィナ「ミィナのお弁当、持っていってね!」
その空気を一変するようなミイナの声。まだ暖かい包みを2人に手渡す。
ミィナ「それと、これはミィナ特製のお薬セット!本当ならすっごく高いんだけど……特別だよ!」
ノクス「ミィナ……ありがとう」
ミィナ「だって二人はミィナにとって特別なんだから!ベルとノクスが眠っている間、エラヴィアと一緒にずっと待ってたんだから……」
ミィナの声が震える。それを誤魔化すようにミィナは二人を抱きしめた。
ミィナ「エラヴィアのことはミィナに任せて!ノクス、ベルを頼むからね、ベル、ノクスを頼むからね」
二人は纏められた旅の荷物を受け取り、隠れ家を後にする。
エラヴィアは優しい風を吹かせ、その背中を見送った。
ベルとノクスはエラヴィアの隠れ家のある森を抜けた。
森の中にはエラヴィアの風が吹き、二人を魔物の目から隠した。
その風が途切れる。
ここからは二人だけで歩む道。
進む先はなだらかではあったが、人の行き来が少ないのか、道と呼べるものはなかった。
見通しの良い丘の上、そこで二人は休憩をとる。
森を抜けた先の、小さな丘の上だった。
風が穏やかに草を揺らし、遠くでは鳥の囀りがこだましている。
その中で、ノクスはゆっくりと腰を下ろし、包みをほどいた。
ミィナが渡してくれた布包み。
彼女が「お腹が空いたら」と笑って手渡してくれたもの。
包みを開いた瞬間、ふわりと広がった甘やかな香り。
中には、丸くて柔らかいパンが二つ。
冷えているはずなのに、手に取るとまだかすかに温もりが残っている気がした。
ひとつを割ると、中にはとろりと煮詰められた果実のジャムが挟まれていた。
森の果実――ミィナが森で摘んだのだろうか。甘さの奥に、微かに酸味がある香りが立ちのぼる。
二人はぽつりぽつりと会話を始める。
ベル「ノクスはまた私を助けてくれるのね、名前を捨てて……私は貴方の時間も奪ってしまったのに」
ノクスは名前を変えた理由を自身が所属していた蛇の法衣からの目を逸らすためだと説明していた。
揺り籠で過ごした七年の時を考えれば既に彼らはノクスが死んだと思っているかもしれない、だが彼らが油断ならない存在なのはノクス自身が一番わかっていた。
ノクス「俺は……」
ノクスは言葉に詰まる。
ベルを助ける理由を問われたとき、それは簡単な一言で語れるものではなかった。
彼の行動の根には、始まりからして矛盾があったのだ。
――最初は、ただの興味だった。
不死という禁忌の力を宿す少女。その存在そのものが、彼の知識欲を刺激し、心を攫った。
だが、知りたい、手に入れたい、壊したい――その感情はやがて、恋慕と所有欲、そして破壊衝動へと変質していった。
彼はベルに惹かれた。
その眼差しも、声も、どこまでも遠く、孤独で、美しかった。
それはかつての師、エラヴィアに向けた敬愛にも似ていた。
いや――ベルを通して、エラヴィアの意志と願いを継ごうとする自分がいた。
そして、ルーヴェリス。
死神の瞳に映る無慈悲な寂寥と、どこかで彼に似た孤独を見出してしまった。
ベルとルーヴェリス。
二人が揃ったとき、そこに生まれる「完璧さ」は、彼にとって理想であり、恐怖であり、どうしようもなく魅力的だった。
失いたくないと願う感情と、手に入れたいと渇く本能。そのどちらもが彼を突き動かしていた。
だからこそ、今も彼は答えを持たない。
助けたいのか、手に入れたいのか、それとも壊したいのか。
ノクス自身にもわからない。
言葉を誤魔化すように彼は荷物の中に視線を逸らす。
そしてその中にある黒鉄の短剣を手に取る。
ノクス「そうだ、ベル……これは君のものだ」
それはベルを探して辿り着いた村で拾った彼女の手がかり。そしてそれに触れたノクスは思い出す。
ノクス「この短剣で君は俺に髪の毛を渡してくれた、それで俺も助けられたんだ」
ベルを逃がしたノクスが、蛇の法衣に彼女の髪の毛を渡したことで得られた評価や報酬は大きかった。
だがそれはベルの出現の確定を彼らに知らせた。
その贖罪、それも理由の一つで嘘ではなかった。
短剣をベルに渡し、束の間の休息を終えようとしているときだった。
ベル「何か来る」
ベルは意識を研ぎ澄まし、先ほど抜けた森のほうを睨む。