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3-27

ベル「旅をするのには慣れているわ。糸の見える呪術士を探すくらい、きっと何とかなる」


ベルの声は静かだったが、その瞳にはかすかに揺れる光が宿っていた。

それは、希望と――恐れにも似た、深い不安だった。


エラヴィアはそっと手を差し伸べ、ベルの手を包み込むように握った。

その手は、小さくて、ひどく冷たかった。


ベル「……それでも、面倒なことになってしまったわね」


ベルの声には、抑えきれない怒りと焦燥が滲んでいた。


エラヴィア「……気をつけて。糸は、ただ縛るだけのものじゃない。

時には、意志を持ったかのように、逆流することもあるの」


まるで誰かが背後で息を潜めているかのような――そんな錯覚が、一瞬、部屋をかすめた。

風が止み、明かりがわずかに揺れる。


ノクスが低く、だが確かな声音で口を開いた。


ノクス「……彼――俺の友人は、呪われたとき、“光と救済の神ルクシア”の力を借りろと……そう言った」


その言葉には、わずかな歪みがあった。

“ルーヴェリス”――その名を口にすることは、今のノクスにはできなかった。

だから彼は、真実に嘘を織り交ぜた言葉を選んだ。


現世へと送り出される直前、死神が告げたもうひとつの名――“ルクシア”。

それは、最初にこの世界に光を灯したとされる、古き女神の名だった。


光と救済の女神ルクシア。

確かに彼女の加護を受けた“呪術師”であれば、ベルの呪いを解けるかもしれない。


ベル「ルクシアを信仰する人は、世界中にとても多いわ」


ベルが静かに口を開いた。


ベル「でも、その力を“真に”扱えるほどの信者となると……果たして出会えるかどうか」


神の力は信仰によって強まり、それを信じる者に恩恵として分け与えられる。

ルクシアは広く崇められている神だが――だからこそ、探すべき信者の数も膨大で、真に力を持つ者を見つけ出すのは難しい。


エラヴィア「それに、ルクシアを信仰している人の多くは、治癒師や医者、あるいは街の善良な住民たち……

呪術とはあまりに縁遠い人々ばかりのはずよ」


“光と救済の神”を信仰しながら、古き呪術に通じる者――

その矛盾した存在は、果たしてこの世にいるのだろうか。


煮詰まりかけた会話の端で、ふと二人の視線がベルに向けられる。


ノクス「……ベル?」


ベルはじっと、左手の薬指を睨みつけていた。

そこに嵌められた黒銀の指輪――それはセラフが彼女に刻んだ呪いの証であり、逃れられぬ楔。

肉体と魂を縛り、やがて意思すらも侵食しようとしている。


ノクスの脳裏に、ベルとセラフの記憶――あの狂気に染まった“結婚式”の光景がよみがえる。

あの日を境に、呪いの糸はベルの内側に根を張り、じわじわと絡みついていった。

時が経つごとにその糸は増え、触れ合い、交わるほどに深く、強く、彼女を蝕んでいったのだ。


ベル「この、外せない指輪……。

まるで見えない糸で縛られて、私の中の何かが、少しずつ囚われていくような感覚……」


ノクスは、そこで言葉を止めた。

脳裏に浮かぶのは、ルーヴェリスの部屋――

無数の糸に繋がれ、まるで操り人形のように囚われたベルの姿。


エラヴィア「……それだけじゃないの。その糸の中には……生命や運命、魂そのものを繋いでしまうものもあるのよ」


声は静かだった。だがその奥には、重く、暗く、深い影が潜んでいた。


ベル「……そういえば、あいつが言ってた。“魂を結ぶ”とか、“永遠に一緒”とか……」


その言葉を口にした瞬間、ベルの表情に影が差す。

それは、憎悪にも似た嫌悪。

そして、かすかに滲む恐怖の色。

決して明けることのない闇に、自分ごと呑み込まれていくことへの、本能的な拒絶だった。


彼女の魂に絡みつく糸は、単なる束縛ではない。

それは、狂気が織り上げた――終わりなき“縁”という名の牢獄。


エラヴィア「これは……ただの呪いじゃない。意図があるの。執着と、狂気と……願いの形をした呪いよ」


ベルの表情が凍りつく。

苦い記憶――あの言葉が、耳の奥で囁かれる。


――魂を結ぶ。永遠に、一緒に。


沈黙が落ちた。

部屋を包む空気はどこか重く、まるで見えない何かが、誰の首に巻きつく順番を見計らっているかのようだった。


元々、血の気の薄い顔立ちをしていたが、

今のベルは、さらにその気配を失っていた。

表情は消え、瞬き一つなく、まるで命の灯を失った人形のように静かに座っている。


エラヴィア「……大丈夫?」


エラヴィアが声をかけ、そっと覗き込むと――

ベルの肩がぴくりと震えた。


ベル「……いや、っ……こわい……」


喉の奥から絞り出すような声は震えていた。

次の瞬間、ベルは耐え切れなかったかのようにエラヴィアの胸元にしがみつく。

その細い腕は頼りなく、それでも必死だった。


――来る。何かが、確かにこちらに向かっている。


遠くから響く名もなき呼び声。

意味を持たぬ音の連なりが、心の奥底をじわじわと侵していく。

それはかつて耳にしたことのある感覚――あの結界の向こう、セラフの領域にいたときの、背筋を這い上がるような呼吸の気配。


ベル(いやだ……やめて……こっち、こないで……)


ベルの心の奥で、幼い悲鳴がこだまする。

理性が追いつかない。思考がまとまらない。


世界の輪郭がぼやけて、現実と記憶と悪夢の境界が溶けていく。


紫に差す赤――

それは、魔法の発動時に現れる彼女特有の色。

だが今、その瞳は不安定に揺れていた。


「こわい……なにか……よんでるの……遠くから、でも、近くて……」


低く呟かれたその言葉は、誰に向けたものでもない。

ただ、彼女の内側からあふれ出た、純粋な恐怖の声だった。

その様子はまるで、今朝見た悪夢にうなされ、冷たい汗に濡れて目覚めたベルそのものだった。


エラヴィアは思わず息を呑み、それからそっとベルの髪に手を伸ばす。

「……大丈夫よ、ベル。ここには誰も来ないから。私がいるわ」

戸惑いながらも、震える少女を落ち着かせるように、優しく頭を撫でる。


その時――

ノクスがそっと歩み寄り、無言のままベルの額に手をかざした。

彼の指先が触れる寸前、わずかに冷たい空気が揺れる。


ノクスは小さく息を吸い、ベルの内に流れるものを探るように、深く静かに目を閉じた。


まるで、誰にも聞かせたくない秘密を囁くように――彼は、言葉を紡ぐ。


ノクス「目を閉じて 痛みを手放し 夢の舟に 身をゆだねて」


その声は静かで、どこか子守唄のようだった。

ノクスの掌から淡い光が流れ出し、ベルのこわばった表情が、ゆっくりとほどけていく。

やがて、穏やかな寝息が静かに部屋に満ちた。


ノクスはほっと安堵の息をついたが、エラヴィアの表情には戸惑いが浮かんでいた。


エラヴィア「ベルには、精神に影響を与える魔法は効かないはずなのに……」


その言葉に、ノクスははっとする。

彼は“見た”のだった。

ベルを捕らえるため、セラフが彼女の内側に自らの魔力を注ぎ込み、精神の深層に魔法を放っていたことを。


ノクス「俺やミィナがベルを魔法で眠らせられたのは、呪いの糸を通じて精神の内側へ魔力を送り込めたから……」


エラヴィア「そうね、私も似たようなことを考えてたわ」


ノクス「そしてそれができるのは、俺たちだけじゃない……」


エラヴィア「ええ、あの男も……。魂が繋がっているのなら、糸を辿ってベルにたどり着くのも時間の問題よ」


エラヴィアの声が低くなる。

この隠れ家がいくら優秀に隠されていたとしても――その“糸”がつながっている限り、彼女は完全に安全ではいられない。


ノクス「つまり、今できるのは、動き続けることですね」


ノクスの言葉に、エラヴィアは静かに頷いた。


エラヴィア「ベルの魔力の揺らぎ……精神の乱れ……やはり糸の先には……」


途中まで言いかけて、彼女は不安を振り払うように首を振る。


エラヴィア「夜明けまでに、旅に必要なものを持ってくるわ」


そう言ってミィナに声をかけると、エラヴィアは転移魔法でその場から姿を消した。

ミィナもすぐに動き出す。頼まれた支度を慌ただしく始めるその手は、普段よりもわずかに震えていた。


ノクス「ミィナ、俺も手伝うよ」


ノクスが声をかけると、ミィナはぱっと顔を上げて笑った。


ミィナ「うん!ありがとうにゃ!」


その声は明るかったが、表情の端には心配と寂しさがにじんでいた。


その場に満ちる空気の中で、唯一、ベルの寝息だけがあまりにも静かで、安らかすぎて、不釣り合いに思えるほどだった。


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