3-25
ノクスとベルの間に、わずかな沈黙が漂っていた。
それを破るように、戸口のほうからバタバタと小走りの足音が響く。
ミィナ「ただいまっ! 今日はいいものがたくさんだったよ!」
明るい声と共に、ミィナが両手いっぱいに籠を抱えて元気よく帰ってきた。
籠の中には朝採れの野菜や香り高いハーブ、森で摘んだらしいきのこがぎっしりと詰まっている。
ミィナ「ノクス、ベル! とびきりの朝ごはん、用意するからね! おなか空いてるでしょ?」
ぱたぱたと台所へ向かいながら、ミィナはさっそく朝食の準備に取りかかる。
その賑やかさに、ノクスは心の中で小さく息をついた。
——今はまだ、さきほどの異変を深く追う勇気も、術も、自分にはない。
ミィナ「ノクス、ちょっと手伝ってにゃ! ……あ、ベルはのんびりしてていいからね。病み上がりなんだから!」
しばらくして、ミィナが最後の仕上げを終えると、ふわりと香ばしい匂いと湯気が部屋に広がった。
ミィナ「さあさあ、元気が出る朝ごはん、召し上がれ!」
ミィナはぱっと眩しい笑顔を浮かべながら、食卓に料理を並べていく。
パンの香ばしい匂いとスープの優しい香りがふわりと部屋を満たす。
ミィナ「ハーブパンはね、今朝摘んだばっかりのローズマリーとタイムを使ってるの。もちろん焼きたて! それから、森のきのこのクリームスープ。毒きのこは入ってないから安心してね!」
楽しそうに料理の説明をしながら、ミィナはくるくると動き回り、手際よく皿に盛りつけていく。
その明るい声と動きが、どこかこわばっていた空気をゆっくりと和らげていく。
ミィナ「ベル、食べられそう? あ、これもあるよ!飲むとすっごくスッキリするやつ。ミントとレモンのハーブティー! レモンはノクスがぎゅーって搾ったんだよ!」
ベルはミィナが差し出したグラスを静かに受け取る。
ベル「……ありがとう、ミィナ」
ふっと表情をゆるめたベルの横で、ノクスも小さく笑う。
温かな朝の光が小さな窓から差し込み、食卓をやわらかく照らしている。
ミィナが切り分けたハーブパンからは湯気が立ちのぼり、ふんわりとローズマリーの香りが広がった。
ベルはパンを小さくちぎりながら、ひとくち、またひとくちと口に運んでいく。
その慎ましい動作にも、昨日までの疲れや緊張が少しずつ和らいでいるのが伝わってくる。
その様子を見て、ミィナは嬉しそうに目を細めた。
ベル「ミィナはすごいわね。あっという間にこんなにたくさん作れるなんて」
ベルが穏やかな微笑みを浮かべながらそう言うと、ミィナはにっこりと胸を張った。
ミィナ「えへへ、旅をしてるとね、いろんなところでいろんなごはんを教えてもらえるの。薬草を探しながら、村の台所にお邪魔して、一緒に煮込んだり焼いたり……知らなかった味に出会うの、すっごく楽しいよ!」
感心したように頷くベルの横で、ノクスはスープの入った器をそっと口元に運ぶ。
温かさが口いっぱいに広がり、ふっと肩の力が抜けるような感覚に思わず小さく息を吐いた。
植物だけでなく、食材や料理にも詳しいその姿に、ノクスは内心で感嘆する。
――やっぱり彼女、見た目よりずっと大人なのかもしれないな。
その考えを読んだかのように、ミィナがくるりとノクスの方を向き、にっこり笑いながら声をかけた。
ミィナ「ノクス、おかわりもあるにゃ! 男の子はもっとたくさん食べなきゃね!」
ノクス「え……ああ、ありがとう」
一瞬面食らったように返事をするノクスだったが、スプーンを置いて笑みを返すと、差し出されたパンを素直に受け取った。
ベルもそのやりとりを眺めながら、ほんのりと頬を緩める。
朝食を終えた後、ベルとノクスは静かに隠れ家の外へ出た。
そこは、巨大な木々の枝が幾重にも絡まり合い、まるで箱庭のように閉ざされた神秘的な空間。枝葉の隙間からは柔らかな木漏れ日が注ぎ込み、静謐な光が森の床をまだらに照らしていた。
この場所は、エラヴィアの緻密な魔力による結界と、ミィナが丹念に育てた薬草たち――魔物避けや気配を覆い隠す香り高い草花――によって守られている。まるで世界から切り離された、ひとときの安らぎの領域だった。
ベルは黙って木漏れ日の中を歩いていく。
その背中を、ノクスは少し離れて見つめていた。
淡い紫の髪が風に揺れ、光を纏うようにして踊っている。彼女の姿は、まるでこの世界に属していない何かのようだった。現実と夢の狭間を歩いているようで、ほんの少しの衝動で消えてしまいそうな――そんな危うさを帯びていた。
ミィナ「冥界の花……それはベルのことなのかな?」
そんな言葉が、不意に背後から投げかけられた。振り返ると、そこにはミィナが立っていた。彼女は木の影から姿を現し、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべてノクスを見上げる。
ミィナ「ノクス・アスフォデルム。君の名前」
夜に咲く冥界の花を守る道標、ミィナが詠み解いた名前の意味。
ノクスは、ミィナの突然の言葉に驚きつつも、反論はしなかった。ただ、静かに目を伏せて頷く。
ノクス「……俺に、守れるんだろうか。導くことなんて、本当に」
弱く吐き出されたその声は、まるで自分自身に問いかけるようだった。
ミィナはそっと微笑んで、言葉を返す。
ミィナ「守って、導いてあげて。少し図々しいくらいがちょうどいいよ。
だって……ベルって、ふわってしてるでしょ。気を抜いたら、すぐどこかへ消えちゃいそうなくらい」
ノクスは黙って、再びベルの背中に視線を向けた。森の光を浴びるその小さな背中は、たしかに儚げで、けれど、どこか抗えないほどの引力を持っていた。
ミィナはノクスの背中を押すようにポンと叩くと、隠れ家の中に消える。
そしてノクスは、どこか遠くを見る彼女の横顔に、ためらいながら言葉をかけた。
ノクス「……昨日、エラヴィアと話したんだ。君にかけられた“糸”のこと。普通の呪いとは違う。すべてが、君を囲うために編まれてる」
ベルはゆっくりと頷いた。あの“糸”の感覚は、誰よりも自分が知っている。
ベル「知ってる。セラフがそうした。心も、命も逃げられないように」
ノクス「……その呪い、一緒に終わらせよう。それを“逃れられないもの”だと信じていても、俺は違う。
誰かが結んだ糸なら、俺がこの手で断ち切る」
ベル「でも、あなたをこれ以上巻き込むわけにはいかないわ」
ノクスはふと、言葉を飲み込んだ。
――『ルーヴェリスに託されたから』なんて、言えるわけがない。
ベルにとってその名は、記憶の深くに埋もれた、決して触れてはならないもの。
けれど、代わりに彼は、一歩だけ前へ出た。
瞳を真っすぐに、彼女の影の奥を射抜くように見据えて。
ノクス「……巻き込まれたんじゃない。選んだんだよ、俺が」
低く、確かな声音だった。嘘は一つもない。
ベルのまつ毛がわずかに揺れた。
ただ、風に吹かれる一輪の花のように、静かにその言葉を受け止めていた。
――そしてその日。
空が茜から藍へと移ろい始めた頃、エラヴィアは静かに戻ってきた。夕と夜のあわいの中、光を抜けて姿を現した。