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3-24

夜明け前、森の空はまだ薄青く、かすかな鳥のさえずりが木々の間に漂い始めていた。

ひんやりとした空気が隠れ家の壁を撫でる頃、静寂を破るように、かすかな声が響いた。


ベル 「……やだ、いたいの……いやっ……」


それは悪夢に囚われたベルの言葉だった。


ノクスはその声に目を覚ました。

火の落ちた暖炉の余熱に包まれながら、すぐそばに横たわるベルの寝台に目をやる。


ベルの眉がかすかに寄せられ、閉じた瞼の奥で何かを必死に追うように揺れていた。小さな呻き声が漏れ、細い指がわずかに震えている。



ノクス「ベル……!」



ノクスは身を起こし、静かにその手を取った。

冷えた指先をそっと包み込むと、ベルの震えがわずかに和らいだように感じられた。



ノクス 「大丈夫……ただの夢だ……あいつはここにはいない」



その声に反応するように、ベルの瞼がわずかに動く。

けれど目を覚ますにはまだ遠く、彼女の意識はまだ夢と現の狭間を彷徨っていた。

その気配に、小さな寝息を立てていたミィナも耳をぴくりと動かし、体を起こしかける。



ミィナ「……どうしたの……?」



まだ眠気の残る目をこすりながら、ミィナも寝台のそばににじり寄った。

心配そうに覗き込むその瞳には、真剣な色が宿っていた。



ノクス「ミィナ、起こしてごめん。でも……ベルが悪夢を見てる」



ミィナ「そっか……」



ミィナはすぐに寝床から抜け出し、ノクスの隣に膝をつく。そしてベルの額にそっと手を当て、心配そうに眉を寄せた。



ミィナ「熱はないみたい。でも……すごくこわい夢を見てる顔……」



しばらく悩んだように瞬きをしたあと、ふっと表情を引き締め、ミィナは小さく拳を握る。



ミィナ「ミィナのおまじない、してあげる!」



そう言って、彼女は両手をベルの額の上に重ねてかざす。

そして静かに、けれど心を込めるように呟いた。



ミィナ「《そよ風よ、森のささやきを運んで、悲しみの夢を遠ざけて》」



彼女の髪と同じ、やわらかな若草色の光が掌から溢れ出し、細い蔓のように揺らめきながらベルの体を包み込む。

それはまるで森の精霊が撫でるような優しさで、静かに光り、そしてふわりと消えていった。



ベルの顔からは苦悶の色が消え、代わりに静かな安らぎが戻ってくる。

寝息はゆっくりと、穏やかなものに変わっていた。



ミィナはふうっと息を吐き、ノクスの方に小さな笑顔を見せる。



ミィナ「もう大丈夫、ベル……今は、やさしい夢を見てるはずだよ」



ミィナ「ミィナは朝のパトロールに行ってくるね!」



ベルの表情が穏やかになったのを確認すると、ミィナは手早く支度を整える。腰に下げた布の袋には、薬草を入れるための小瓶や糸の編み網が見えた。



ミィナ「ノクスはベルのそばにいてあげて。目が覚めたとき、一人だとさみしいよ」



その言葉に、ノクスは軽くうなずく。



ノクス「……うん、行ってらっしゃい」



ミィナはにこりと微笑み、扉を開けてまだ靄の残る森の中へ通じる転移の魔法陣を起動させた。隠れ家には再び静寂が戻る。



ノクスは暖炉の灰の香りがかすかに残る空気の中、ベルの寝顔を見つめた。

まるで今にも壊れてしまいそうな、儚く静かな横顔。



――夢の中で、彼女は何を見ていたんだろう。



ふと、ノクスの脳裏に揺り籠の世界──死神ルーヴェリスの間での出来事がよぎる。

あの世界でのベルは、普段とはまるで別人のように幼く、あどけない仕草を見せていた。


そして先ほど悪夢にうなされていた彼女の姿も、まさにあのときと同じように感じられた。


それが何を意味しているのか、ノクスにはまだ分からない。

だが、その符合は、ただの偶然とは思えなかった。



まるで、何か不吉な“兆し”のように思えてならなかった。



ベル「ん……」



かすかな声とともに、ベルのまぶたがゆっくりと持ち上がる。

その瞳は、魔法を振るうときに見せる深い赤紫ではなく、今は髪と同じ、淡く柔らかな紫色。



ノクス「おはよう、ベル」



ノクスがそっと声をかけると、ベルはわずかに微笑みながら、寝台の上で身を起こす。



ベル「おはよう、ノクス。あなたって……目が覚めたときには、よく私の前にいるのね」

 

その言葉には、どこか諦観をにじませた穏やかさと、長い年月を生きてきた者だけが持つ静かな風格があった。



今のベルは――先ほどとはまた違う。不死の魔女としての面影を、その言葉の端々に滲ませていた。


ノクスは思わず目を伏せる。

掴もうとすれば指の間から零れ落ちるような、形のない疑念が心の奥で燻っていた。




ベル「少しだけ、嫌な夢を見たわ」


ベルは何でもないことのように、淡々とそう口にする。

表情は変わらず、いつもの静かな顔のままだ。

けれど、ノクスの目には、彼女の瞳の奥にほんのかすかに怯えが揺れたように見えた。


――セラフとの、悪夢のような日々。

もしそれを夢に見たのだとしたら。

それを何もなかったように呑み込み、平然と振る舞うには、どれほどの精神力が必要だろう。



ベル「でも、誰かが引き上げてくれたの。温かくて、柔らかい光で……」



そう言って、ベルはふわりと微笑んだ。

その笑みに滲む安堵が、夢の残滓をかき消すように淡く広がる。


ノクスは「それはきっと、ミィナの魔法だろう」と言いかけて、ふと躊躇う。

だがベルは、夢の続きを語りはじめた。



ノクス「その光が消えた後、私は……黒い月が浮かぶ夜にいたの。

星が沈んでいくような、静かな湖みたいな場所。

どうしてだか分からないけれど、すごく……懐かしい気がしたわ」



彼女は首を傾げて、不思議そうに笑った。

その笑顔の裏に、どこか遠くを見つめるようなまなざしが潜む。


ノクスは返す言葉を見つけられなかった。

ただじっと彼女を見つめ、胸の奥に湧き上がる不安を抑え込もうとする。



――それは、夢の話で終わらせられるだろうか。

けれど、ベルが口にした光景は、

彼女がけして知るはずのない、“死神ルーヴェリスの部屋”の記憶そのものだった。



カイル(どうして――あの場所の記憶が)



彼女が「懐かしい」と口にした場所は、揺り籠から目覚めるとベルから消える、記憶にあるはずのない――死神ルーヴェリスの部屋。

だが、それを言葉にすることができない。


「かつて、そこで時を過ごしたからだ」と告げようとするたびに、喉の奥で言葉が凍りつく。



まるで、何かに「口を閉ざされている」ようだった。

それがルーヴェリスの意志なのか何かの裁きなのかすら分からない。

ただ――「告げてはならない」という感覚だけが、鈍く、重たく、胸の奥に沈んでいた。



そんな中で、ベルは無垢な声音で微笑む。



ベル「ノクス……あなたのことも、不思議と懐かしく感じるの。出会って、そんなに時間が経ってるわけでもないのに」


その言葉は、呪文のように柔らかく、心の隙間へと忍び込んでくる。

その笑みの奥に潜んでいるのは、記憶ではない。“何か”の、深く静かな残響。

だが――ベル自身は、まだ気づいていない。


ノクスの指が、そっと拳を握りしめる。

言葉にならない不安が、確かな形でそこにあった。



ベルは、ノクスのわずかな変化には気づかないふりをしたまま、ふと思い出したように言葉を継いだ。



ベル「そういえば……エラヴィアに聞いたの。あなたのこと」



昨夜、古き友との静かな語らいの中で交わされた話。

エラヴィアとノクスが、かつて師と教え子の関係にあったこと。

そして、彼がベルを助けるために呼び声に応じてくれたのだということも。



ベル「……君に助けられたの、二回目ね」



そう告げたベルは、ふっ、と笑みを消す。

その瞳にかすかな陰を宿しながら、ぽつりとこぼす。



ベル「なんだか……前にも、こんなことがあったような気がするの」



ノクスの中で、記憶が静かに重なった。

ルーヴェリスの部屋――

眠りから目覚めたばかりで、まだ幼子のようだった彼女が、カイルだった自分に向けて言った言葉。


――「わたしのこと……2回……助けてくれたよね。ありがとう……」


それはもう、偶然ではなかった。

異変は、確信へと姿を変える。

けれどノクスは、何も言わなかった。ただ、それを静かに飲み込んだ。



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