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3-22

ノクスはエラヴィアのあとを追って、ミィナの部屋を出た。

すぐそばにある簡素な寝台に、ベルが静かに横たわっている。



その寝顔を見た瞬間、ノクスはふと足を止めた。

ルーヴェリスの空間で幾度となく見た眠る姿──だが、今目の前にあるのは確かに「現実」のベルだった。

その寝息、微かなまつ毛の震え、胸元の上下すべてが、彼女が“ここにいる”ことを告げていた。



隣で立ち止まったエラヴィアは、ベルの寝顔に視線を落とすと、ほんの一瞬、表情を曇らせた。

それは誰にも気づかれぬほどわずかで、しかし確かな陰りだった。



エラヴィア「……少し外で話しましょう」



低く、穏やかな声がその場の空気をそっと断ち切る。

ノクスは無言で頷き、エラヴィアのあとに続いて隠れ家の外へ出た。


外はすでに夜の帳が下りていた。

星のまたたく森の中に、ふたりの足音だけが控えめに響く。



ノクス「先生……何か、ありましたか?」



ノクスが問いかけると、エラヴィアはゆっくりと足を止めた。

そして、まるでその心を見透かすように、深く、柔らかく、それでいて決して逃げ場を与えぬ眼差しを向けてくる。



エラヴィア「貴方こそ、何を越えてきたの──ノクス……いいえ、カイル」



その名が夜の静寂に溶けていく。



ノクスは目を見開き、息を詰めた。

凍りついたような沈黙が、ふたりの間に落ちた。


ノクスは、「カイル」というルーヴェリスに預けられた名前を呼ばれた瞬間、まるで決心を固めたかのように口を開いた。



――死神、ルーヴェリス。

セラフに捕らえられたベルを救うために、その力の一端である爪を最初に託されたのは、他ならぬ目の前のエラヴィアだった。

ならば、彼女に話すことはきっと許される。いや、話すべきなのだ。



ノクス「先生が俺に、ベルを探すように頼み、死神の爪を託したあと……」


ノクスは、要点を押さえながら静かに語り始める。



ベルが“黒き観測者”と呼ばれる存在に狙われ、

“慟哭ノ従者”と名乗る男によって、エラヴィアの風も届かない異界の深奥に閉じ込められていたこと。


そして、託された死神の爪が彼女の“揺り籠”を呼び出し、

ノクス自身もベルと共に、封印されたルーヴェリスのもとへと引き込まれたこと。



その地でノクスは、彼女と共に、止まった時間の中にいたのだ。



エラヴィア「死神の元へ……?」



エラヴィアの声は微かに震えていた。

彼女はベルと長き旅を共にした古き仲間であり、友人でもある。

もちろん、“死神の揺り籠”の存在も知っていた。


けれど、それはただの――誰にも干渉されることのない、閉ざされた眠りだと思っていたのだ。



エラヴィア「……揺り籠で眠る間、そんなことが起きていたのね」


そう告げるエラヴィアの声は、夜風にかき消されそうなほどか細く、遠かった。

その声音が空気に溶けきるよりも早く、彼女の口調が鋭く変わる。



エラヴィア「あなたも会ったの?――ベルを、無限の地獄に堕としたあの死神に」



静かな怒りが滲む声だった。

ノクスは、初めて見るエラヴィアの怒気に目を見開く。



ノクス「はい、ですが先生……彼、のことを、誤解しています」



ノクスは、彼の名を呼ぼうとした。

――ルーヴェリス。

だがその名を発そうとした刹那、喉が凍りついたように声が出なかった。音が乗らない。


どうやら、彼の名前はこの現世で口にすることを許されていないらしい。



エラヴィア「誤解?そうね、私は死神について何も知らないわ」



エラヴィアは静かに語る。けれどその言葉には、痛みが滲んでいた。



エラヴィア「ただ、ベルが……彼女が普通の人間の命を生きていれば受けなかった苦しみは、死神のせいだと思っているだけ」



ノクスは、その言葉にはっと息を呑んだ。


そう、エラヴィアの言うこともまた、真実だ。

彼女は長年、ベルを見守ってきた。傍で、遠くで、ずっと。



ノクスが知っているのは、ルーヴェリスとベルの間に確かに存在した――美しい愛にも似た、特別な絆だけ。

そして、彼の書庫で偶然見つけた、あの手記の一節だけだった。


──ラベンダー色の髪を持つ少女。

不格好な石で組まれた祭壇から、突き落とされるその瞬間、

何故か、その髪に、そして少女の在り方に、目が離せなかった。



ノクスは信じていた。

ルーヴェリスは、ベルを“救った”のだと。


だが――

その信念に確たる証拠はなく、いま、エラヴィアの前でそれを語るには、あまりにも弱すぎた。



だからノクスは、ただ静かに口を閉ざした。




言葉に詰まったままのノクスを見て、エラヴィアはふっと表情を和らげる。

そして、まるで優しく諭すように、静かに言葉を紡いだ。



エラヴィア「ノクス、あなたが見て感じたことも真実なのは分かっているわ。

でもね……私が見てきたベルの苦しみも、また確かな真実なの」



その言葉に、ノクスは返す言葉を見つけられなかった。

思い浮かぶのは、ベルが死神の祝福を受けたがゆえに背負った数々の苦難。



蛇の法衣に記された終わりなき苦痛。

黒き観測者から続く執拗な追跡。

そして、ノクス自身が追体験した――慟哭ノ従者の狂気に満ちた執着。



ノクスは、唇を噛み、目を伏せた。



エラヴィアはそんな彼を見つめながら、穏やかな声で続ける。



エラヴィア「あなたの考えが定まったら……その時にまた、聞かせてくれればいいわ。

でも今は、あなたたちに起きたこと、そして“起きている”ことを教えてくれないかしら」



その瞳には、千年の時を生きた知者の光と、かつての教え子と、友人への深い慈しみが宿っていた。


 


ノクス「俺たちに起きたこと……それは」



ノクスは言葉を選びながら、エラヴィアに静かに語り始めた。



セラフがベルの魂を縛った、呪いの糸。

それは彼女の存在の核にまで食い込み、触れるだけで苦痛を与えるほど深く植えつけられていた。



ノクス「彼……死神は、それを解くために七年を費やしました。現世での時間ですが、あの空間では体感する時間を操れる、だから実際にはもっと長い時間をかけていたはずです。


ただの一本でも乱暴に扱えば、ベルの魂そのものが傷ついてしまうから。

それほどに繊細で、恐ろしいものでした」



ノクスの声には、かすかな痛みと敬意が滲んでいた。



だが、どうしても解けない糸が数本だけ残っていた。

セラフの瞳を思わせる、赤黒く揺らめく呪いの糸――

それは、ルーヴェリスの手でも解けなかった。



ノクス「だから彼は、ベルを救うために、他の神の力を頼ろうと……俺に託したんです」


彼はそう言い、ふと目を伏せてから、続けた。



ノクス「俺は彼に名前を預けた。蛇の法衣に属することで、ベルとの旅路の枷にならないように」



カイルとして存在していた痕跡は、記憶も記録もすべて消し去られている。



ノクス「だけど俺が……ノクスがカイルだと知れば、その相手はカイルの記憶を思い出す」



エラヴィアは、先ほどベルが彼を「カイル」と呼んだ瞬間に、自分の中でノクスとカイルの存在が重なり合うように記憶が蘇ったことを思い返す。彼の言葉が真実だと、深く納得した。



エラヴィア「そうして、ノクスいう名前を与えられたのね」



ノクス「ええ。俺がそう望んだんです」



エラヴィアはノクスの瞳に、微かに揺らめく熱を感じ取った。

それは、ベルという異端の存在に心を奪われた者だけが放つ、特別な輝きのようだった。

そしてそれは死神に対しても向けられている。



だが彼女は咎めることはできなかった。

ベルを救うために最初に彼を頼ったのは、自分だったのだから。

死神の爪を託し、彼を揺り籠へ巻き込んだのも――エラヴィア自身だった。



後悔をかき消すように、彼女は言葉を続けた。



エラヴィア「話してくれてありがとう。ノクスの話を聞いて、納得したことがあるわ」

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