3-21
束の間の静寂を破ったのは、ミィナだった。
ミィナ「ねえ……さっきエラヴィアに軽く紹介されたんだけどさ……えーっと、ごめん、名前……もう一回聞いてもいい?」
薬草袋を抱え直しながら、ミィナは少し照れたように笑う。
その素直な様子に、ノクスも自然と口元を緩めた。
ノクス「俺の名前は、ノクス・アスフォデルム」
その声には、まだわずかな戸惑いが混じっていた。
つい最近、新たに与えられたその名は、まだ彼の舌に馴染みきっていなかったのだ。
まるで、自分に言い聞かせるように、静かにその名を口にする。
ミィナ「ノクス・アスフォデルム……うん、いい名前だね!」
ミィナは嬉しそうにその響きを反芻し、目を輝かせて続けた。
ミィナ「ノクスは“夜”、アスフォデルは冥界に咲く花。そしてエルムは“守り”の象徴。
夜を照らす冥界の花を守る、静かで強い道標みたい!
君の名前自体が、まるで物語みたいだね!」
ノクス「……君、意外と博識なんだな」
ノクスの言葉に、ミィナは得意げに胸を張った。
ミィナ「ミィナは植物のことなら誰にも負けないよ!それに……花にはね、たくさんの想いが込められてるんだ」
そう言って、薬草袋の中から一輪の白い小花を取り出す。
ミィナ「これは〈ルーナグラス〉。夜の風が吹く場所にしか咲かない、月の光を蓄える草なんだって。
この花の香りには、安眠と癒しの力があるの」
その言葉に、ノクスはどこか遠い景色を思い起こすように、小さく頷いた。
――ルーヴェリスが与えたこの名前に込めた意味。
それを、少しずつ胸の中に受け入れていくように。
ミィナ「ノクス、中に入りにくいなら、ミィナのお部屋に来る?」
ミィナがぱっと顔を上げてそう言った。
ミィナ「エラヴィアが、ミィナにこの隠れ家の管理を任せるために、お部屋を作ってくれたの!」
その瞳は好奇心と期待にきらめいていて、気を利かせたというより――
ただ自分の部屋を誰かに見せたくて仕方がない、そんな無邪気な子どものような笑顔だった。
ノクス「それじゃあ、お言葉に甘えて」
ノクスが立ち上がると、ミィナも跳ねるように勢いよく立ち上がり、薬草袋をぎゅっと抱え直した。
ノクスに「じゃあ、ついてきて!」
そう言うやいなや、彼女は猫のようなしなやかな動きで、隠れ家の屋根へと飛び移る。
ノクス「えっ、ミィナ、ちょっと待って!」
ノクスが慌てて声をかけると、ミィナは肩越しに振り返って、いたずらっぽく笑った。
ミィナ「ミィナのお部屋は、屋根からも出入りできるのが自慢なんだよ!」
大きく膨らんだ薬草袋を抱えたままでも、彼女の動きには一切の無駄がない。
ノクスも慌ててその後を追いかけるが、慣れない隠れ家の曲線と滑らかな屋根に、やや手こずる。
それでも、幸いにも半球状の構造は比較的登りやすく、なんとか彼女のあとを追って屋根にたどり着くことができた。
ちょうどそのとき――空が茜色に染まりはじめていた。
風が少し冷たくなり、日中の陽気が嘘のように引いていく。
森の上に広がる広大な空が、まるで液体のように、ゆっくりとオレンジから紅へと溶けていくその光景は――
言葉を忘れるほど、美しかった。
ミィナ「ね、見て見て。夕焼け、すごくきれいだよ」
ミィナが隣に並んで、ノクスと同じ方向を見上げる。
ミィナ「秋になるとね、ミィナの毛の色も紅葉みたいに変わるんだよ。この夕焼けと、同じ色合いになるの。すごいでしょ?」
得意げに微笑むミィナを見て、ノクスはふっと笑みをこぼした。
ノクス「それは……見てみたいな」
ミィナ「ふふーん、楽しみにしてて!」
しばし、ふたりの間に静けさが流れる。
聞こえるのは風の音と、遠くで鳥が巣に戻る羽音だけ――。
ミィナ「じゃあ、そろそろお部屋に行こうか!」
ミィナが意気揚々と、屋根の中央にある小さな出入り口の扉を開く。
勢いよく中に入ろうとしたそのとき――
抱えていた袋の口がほどけて、薬草がバサバサと中へこぼれ落ちた。
ノクス「うわっ!? ちょ、ちょっとミィナ、部屋の中が……!」
ミィナ「わーっ、やっちゃったー!」
ふたりは慌てて部屋に飛び込む。
狭い室内の床に、色とりどりの薬草が舞い落ち、まるで緑の花吹雪のようだった。
呆然と立ち尽くすふたり。
そして、ふと顔を見合わせ――
ノクス「ははっ……なんか、にぎやかな歓迎だな」
声を揃えて笑い出した。
ミィナとノクスは、床に散らばった薬草や花々を、香りや色、効能ごとに手際よく分けていた。
ノクスの様子を見ていたミィナが、ぱちりと目を丸くする。
ミィナ「ノクスって薬草の扱い、慣れてるんだね」
ノクス「錬金術も、治癒の魔法も少し学んでたから。……昔、魔法ギルドにいた頃に、エラヴィアから教わったんだ」
ミィナ「へえー、エラヴィアが先生かあ。なんか、想像できないなあ。もっとこう、のほほんとしてるっていうかさ」
ミィナは楽しげに笑いながらも、器用な手つきで薬草の束をまとめていく。
その笑顔に、ノクスもつられて少しだけ口元をゆるめた。
ミィナ「ミィナね、最初にこの森に来たのは……たしか、五年か六年前くらいだったと思う。旅の薬師としていろんな土地を巡ってて、薬草を探してたんだけど」
ミィナの声が、ふと少し低くなる。
ミィナ「ある日、森の奥で見ちゃったんだよ。黒い影みたいな……なんていうか、ただの動物とかじゃなくて、すごく冷たい、気配だけで肌が逆立つような“何か”」
その言葉に、ノクスの手がぴたりと止まった。
心の奥に焼き付いた、あの人影が脳裏をよぎる――
妖しく光る瞳。
歪んだ鎧。
狂気に囚われた忠誠の影。
慟哭ノ従者――セラム。
ノクス「……それで、どうしたんだ?」
ノクスが静かに問いかける。
ミィナ「ミィナとっても怖くてさ。慌てて逃げようとしたんだけど、気づいたら道に迷ってて……」
ミィナの声が少し震えを帯びる。
ミィナ「そのとき、優しい風がふわって吹いて……すぐそばに、エラヴィアが現れたの。まるで、森が呼んだみたいに」
ミィナは、あの時の記憶を抱きしめるように笑った。
ミィナ「怖がってるミィナに、すごく静かに、穏やかに話しかけてくれた。風みたいな声でね。それで、気づいたら安心してたの。不思議だよね……初めて会ったのに、すごく安心できたの。
それから少しの間、一緒に森を歩いたの。それが、この場所に来るきっかけになって……今じゃ、こんな立派なお部屋までいただいちゃって」
ノクスは、ミィナの柔らかな口調に救われるように息を吐き、再び手を動かし始めた。
胸の奥に疼く痛みはまだ消えていなかったが、それでも今この部屋にある静けさが、ほんの少しだけ、その痛みを和らげてくれる気がした。
ミィナの語りの続きを待ちながら、ノクスはふと、「黒い影」という言葉の残響に囚われる。
森を彷徨う、正体の知れぬ存在。
そして、心の奥底をかすめる慟哭ノ従者セラムの影。
……まさか、あの存在が。
言葉にしようかと迷っていた、そのとき。
不意に、外から落ち着いた女性の声が響いた。
エラヴィア「ミィナ、少し良いかしら」
ミィナ「エラヴィア!入っていいよー!」
ミィナの元気な返事に続いて、エラヴィアが軽やかに部屋に入ってくる。
散らばる薬草の山と、それを仕分ける二人の姿に、彼女は小さく微笑んだ。
エラヴィア「ノクス、ミィナのお手伝いをしていたの?」
その声色はまるで幼い子どもに話しかけるかのように柔らかく、ノクスは少し戸惑ったように笑みを返す。
千年を超えて生きるエラヴィアにとって、この二人の若者もまだほんのひよっこに見えているのだろう。
エラヴィア「ミィナにお願いがあるの。ベルが少し疲れているみたいだから、何か薬を作ってもらえる?」
ミィナ「お薬?まっかせて!」
頼られたことがよほど嬉しかったのか、ミィナはぱあっと顔を輝かせると、棚や籠を引っ掻き回してあちこちから材料を取り出し始めた。
エラヴィア「その間にノクス、少し良いかしら」
エラヴィアが視線を移してノクスに語りかけると、ミィナは「にゃーっ」とまるで猫のように返事をする。
それが「行ってらっしゃい」の意味だと、ノクスもすぐに理解した。
ノクスは一つうなずくと、立ち上がりエラヴィアのもとへ向かう。
彼女の表情は、どこか真剣なものに変わっていた――何か、話があるのだろう。