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3-20

エラヴィアは穏やかな笑みを浮かべ、そっと問いかける。

けれど、ノクスはすぐには答えられなかった。言葉を探すように唇がわずかに動き――しかし、次の瞬間には沈黙へと閉ざされる。


現世に戻ってから、まだ数刻しか経っていない。

あの死神ルーヴェリスのもとで過ごした日々の記憶が、今なお彼の中に鮮やかに息づいていた。


ノクスにとって、それは確かに“現実”だった時間。

けれど、ベルにはその記憶がない。

彼女は、ルーヴェリスとの日々も、その名さえも覚えていない。


ただ“揺り籠”の中で眠る夢のように、ぼんやりとした感覚だけが残されている――それは、二人に科された罰の記憶。


本来なら、ノクスはただ巻き込まれただけの存在だった。

だが、ルーヴェリスの強い願いによって、彼だけはあの時間を知る者として、その記憶を留めている。


それは、ベルが記憶を持たない時間の記憶。

彼女の前でそれを語ることは、どこかためらわれた。


それ以前に。

その記憶を、声にして空気を震わせることすら、今の彼にはできなかった。


そんなノクスの沈黙を、不思議に思いながらも、ベルがそっと口を開いた。


ベル「……エラヴィア。あなたは、もう平気なの?」


唐突とも取れるその問いには、どこか確かめるような、優しさの滲んだ声音があった。


ベルにとって、七年の眠りは一瞬にも等しいものだった。

けれど、眠る前にエラヴィアと別れたときの記憶――あの出来事だけは、今も胸の奥に焼き付いている。


神の存在を否定する集団、黒き観測者。

彼らが自分を誘き出すために、エラヴィアを利用したあの時のことを、ベルは決して忘れていなかった。


その想いを汲み取るように、エラヴィアは静かに微笑む。


エラヴィア「ええ。あなたが助けてくれたもの。だから、もう大丈夫よ」


その笑みには、過去の痛みを抱えながらも、それを乗り越えてきた者だけが持つ、しなやかな強さが宿っていた。


ベル「……それなら、よかったわ」


ベルがそっと息を吐いたそのとき、エラヴィアが続ける。


エラヴィア「黒き観測者たちも、最近はおとなしくしているわ。もともと歴史の浅い集団だもの。内部で争いが起きている、なんて話も聞くわね」


風の精霊に愛されるエラヴィアには、各地のささやきがよく届く。


彼女がそう言うのなら、今の黒き観測者は、もはやかつてほどの脅威ではないのだろう。


けれど――それは、“今の”黒き観測者に限った話だ。

七年前。

ベルを捕らえ悪夢を与えた、狂気と執着に塗れた一人の男。

その名はセラフ。

黒き観測者の中でも、特異な存在として“慟哭ノ従者”と呼ばれていた。

彼は、今――どうしているのだろうか。


ノクスはふと、視線を落とす。

知りたかった。

だが、それを口にするには、あまりにもためらいがあった。


――ベルの前で、あの名を語ることは。

無粋で、そして残酷なことに思えたのだ。


エラヴィア「カイル……いえ、ノクス」


沈黙を貫く彼に、エラヴィアがそっと声をかける。

だが、ノクスは視線を逸らしたまま応えない。ただ、胸の奥に何か重いものを抱えているようだった。


ベル「彼もまだ目覚めたばかりで、戸惑っているのよ。きっと……」


ベルがぽつりと呟き、そっとノクスの背に目を向ける。

彼女は、ノクスもまた自分と同じく、“揺り籠”の中の記憶を持たないと思っている。

だからこそ、その沈黙に隠された苦悩には、気づくことができなかった。


エラヴィアもまた、深くは追及せず、そっと頷く。


ノクス「ああ……そうなのかもしれません」


ノクスは短くそう返すと、ゆっくりと立ち上がり、扉の方へと向かった。


ノクス「少し……外の空気を吸ってきます」


その背を見送りながら、ベルとエラヴィアは自然と言葉を交わしはじめる。

気兼ねなくノクスが、心の奥に沈んだ想いを整理できるように――あえて、話の花を咲かせながら。


ノクスは外に出ると、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。

そこは、森の上空を覆うように枝葉が広がり、まるで空中庭園のように築かれた静かな場所――“森の天井”と呼ばれる箱庭だった。


葉の隙間から柔らかな光が差し込み、辺り一帯は静謐な魔法の気配に満ちている。


ノクスはその縁に腰を下ろし、ゆっくりと空を仰ぐ。風の精霊がその周囲を舞い、彼の銀髪をそっと揺らしていった。


この場所全体には、エラヴィアが編んだ風の魔法が静かに流れている。

たとえ足を滑らせても、落ちることはない――そんな繊細な配慮に、ノクスは胸の内でそっと感謝した。


ノクス(……どこまで、伝えればいい)


そう思いながら、彼はふと目を伏せる。


ベルが、あの狂気の男――セラフに囚われていた時間。

それは、単なる“追体験”ではなかった。

彼が見せられたのは、あの記憶のすべて。

彼女の絶望も、痛みも、魂が削れる音すらも、ルーヴェリスの手を通して、ノクスは知ってしまった。


まるで己が体験したかのように、深く、鮮やかに。


そして今もなお、その男の執着とも言える呪いは、ベルを縛っている。

ノクスが目覚めたのは――その呪いを断ち切るため。彼女を、解き放つためだった。


ベルのために。

そして、彼女を守りたいと願う、もう一人の大切な存在――

七年の間、眠り続けるノクスを見守り、森を訪れ続け、目覚めと同時に駆けつけてくれたエラヴィアを、これ以上悩ませたくはなかった。


と、そこで木の根元と繋がる転移の魔法陣が淡く光を放ち、静寂を破って起動した。

風と共に現れたのは、両手いっぱいに薬草の詰まった袋を抱えたミィナだった。


ミィナ「たっだいまー!」

元気な声とともに、彼女は枝の小道を軽やかに跳ねるようにしてノクスのもとへ近づいてくる。


そして、ノクスの姿を見つけてにやりと口角を上げた。


ミィナ「あれあれ?もしかして女同士の話の邪魔者にされちゃったのかな?」


冗談めかしてからかうように言うミィナに、ノクスは少しだけ顔をそらす。

図星だったのか、あるいはただ、無防備な彼女の明るさに対してどう返していいかわからなかったのか。


ノクス「……そうかもしれないな」


短く答えるその声には、どこか疲れがにじんでいた。

ミィナはそんなノクスの横に、そっと腰を下ろすと、肩にかかる重い袋をどさりと降ろす。


ミィナ「まあまあ、たまには一人でぼーっとしたい時もあるでしょ?」


彼女は袋からこっそり摘んだ小さな花をひとつ取り出し、ノクスの膝の上にそっと置いた。


ミィナ「……ほら、これ、冷静を保つ香りがあるの!今ちょっと考えすぎてる顔してるよ」


ミィナの声は不思議と穏やかで、先ほどの調子のいい様子とは少し違っていた。

ノクスはその花を見つめながら、小さく息をつく。


ミィナ「……ありがとう。助かるよ、ミィナ」


それ以上言葉を交わすことはなく、ふたりはしばし風の音に耳を傾けていた。

枝葉の向こう、空には雲がゆっくりと流れていく。



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