表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
107/320

3-17


そのとき、森を吹き抜けた風があった。

春の初めを思わせる、やわらかく穏やかな風。

だがそれはただの風ではなかった。


それは意思を持つように流れ、眠りから目覚めた少女と、名を変えた青年の輪郭を、まるで何かを確かめるようになぞっていく。


ベルの髪をそっと揺らし、ノクスの肩に触れ、ふたりをひとつの空気で包みこむ。


その温もりには、言葉にできない懐かしさがあった。

優しくどこか切なく、それでいて確かな安堵を含んでいた。

まるで長い旅路の果てに辿り着いた者たちを、祝福するかのように。


そして、その風が導くように森の木々の間から一人の女性が姿を現した。




空気が静かに張り詰める。

銀白の髪が風に舞い、青銀の魔導衣が光の中でふわりと揺れる。


その姿は、まるで森に溶け込んだ幻。けれど、確かな存在感を放っていた。


魔法ギルドを束ねる長にして、千年を生きる知。

彼女の名は、エラヴィア。


その眼差しはすべてを見通すように静かで、しかしどこまでもあたたかく。

声は囁きのようでいて、魂にまで届く確かさを持っていた。



エラヴィア「おはよう、ベル」


その瞬間、風がふたりのあいだを駆け抜け、まるで時すらも少しだけ立ち止まったように感じられた。


ベルはゆっくりと、その名を呟いた。



ベル「……エラヴィア」


その名は、懐かしくもあり、どこか遠い夢の中の響きのようにも感じられた。

ノクスにとっても、それは同じだった。彼は、かつて「カイル」と呼ばれていた頃の師の姿を静かに見つめる。


エラヴィア「……あなたは?」


エラヴィアは穏やかな微笑みを浮かべたまま尋ねる。

だがその微笑の奥に、ごくわずかな警戒の気配が滲む。


それは魔力に宿る振動となって、ノクスに――かつての弟子であった彼に、確かに伝わってきた。

高位の魔導士である彼女ですら、痕跡すら残さず「カイル」の記憶を覆い隠す死神の力に、改めて恐ろしさに似た戦慄を覚えていた。


そんな二人の間に割って入るように、ベルが口を開く。


ベル「彼は……カイル。いえ、今はノクスと名乗っているわ。私を助けてくれた人よ」


その名を聞いた瞬間、エラヴィアの瞳が見開かれた。


エラヴィア「カイル?……カイル……ああ、どうして……私は……」


呟くようにそう漏らした次の瞬間、封じられていた記憶が堰を切ったように彼女の中に流れ込んだ。



ベルとノクスが、あの揺り籠に包まれていたとき。

エラヴィアは、幾度となくその元を訪れていた。


古い友であるベル、そして袂を分かった教え子カイルの行方を探し、辿り着いた末のことだった。


だが、その最後の瞬間。

揺り籠の殻がひび割れ、静かに、しかし確かな光を放ちながら崩れ落ちたときだった。


まるで世界そのものが息を呑み、時間が一拍遅れて脈打ったような感覚。

次の瞬間には、彼の名が、彼の声が、彼の記憶そのものが――

何かに触れられることもなく、静かに、確実に、世界のすべての記憶から剥ぎ取られていた。


そして今、ベルの言葉が鍵となり、封じられていた記憶が、風に乗って戻ってきたのだ。


エラヴィア「……私は、彼を……」



エラヴィアの声には、痛みと深い悔いが滲んでいた。


ベルの眠りは、これまでに幾度となく見てきた。

人の命を遥かに超えるほどの眠りに落ちることも、決して珍しいことではなかった。


だが、人の子である彼が、その中に巻き込まれるとは思ってもいなかった。

ましてや、彼をその場に向かわせたのは他ならぬ自分だった。


袂を分かったとはいえ、かつての教え子にして優秀な魔導士だったカイルに、古き友ベルの行方を託した。

それは信頼でもあり、願いでもあった。

結果として、彼を危険にさらし揺り籠に閉じ込めたのは、自分自身の選択だったのだ。


――これは、私の罪。



千年を生きる賢者にとっても、それはあまりに重く、耐え難い現実だった。


彼が巻き込まれて以降、エラヴィアは幾度となく揺り籠の地を訪れた。

風の魔術で周囲の変化を観察し、二人に異変が起きぬよう、静かに見守り続けていた。

誰よりも彼らを見てきたというのに――


その自分の記憶から「カイル」の存在だけが、綺麗に抜け落ちていたことに、今さらながら気づいた。


それが、ただの記憶の曖昧さなどではないことも、すぐに悟った。

理解の及ばぬ、抗いようのない“力”によって消し去られた何か。

この世界そのものが、彼という存在を忘れていた――そうとしか思えなかった。


湧いてくる疑問を抑えながらエラヴィアは口を開く。


 

エラヴィア「カイル……いえ、ノクス。ベル。場所を変えましょう。近くに私の隠れ家があるの」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ