3-17
そのとき、森を吹き抜けた風があった。
春の初めを思わせる、やわらかく穏やかな風。
だがそれはただの風ではなかった。
それは意思を持つように流れ、眠りから目覚めた少女と、名を変えた青年の輪郭を、まるで何かを確かめるようになぞっていく。
ベルの髪をそっと揺らし、ノクスの肩に触れ、ふたりをひとつの空気で包みこむ。
その温もりには、言葉にできない懐かしさがあった。
優しくどこか切なく、それでいて確かな安堵を含んでいた。
まるで長い旅路の果てに辿り着いた者たちを、祝福するかのように。
そして、その風が導くように森の木々の間から一人の女性が姿を現した。
空気が静かに張り詰める。
銀白の髪が風に舞い、青銀の魔導衣が光の中でふわりと揺れる。
その姿は、まるで森に溶け込んだ幻。けれど、確かな存在感を放っていた。
魔法ギルドを束ねる長にして、千年を生きる知。
彼女の名は、エラヴィア。
その眼差しはすべてを見通すように静かで、しかしどこまでもあたたかく。
声は囁きのようでいて、魂にまで届く確かさを持っていた。
エラヴィア「おはよう、ベル」
その瞬間、風がふたりのあいだを駆け抜け、まるで時すらも少しだけ立ち止まったように感じられた。
ベルはゆっくりと、その名を呟いた。
ベル「……エラヴィア」
その名は、懐かしくもあり、どこか遠い夢の中の響きのようにも感じられた。
ノクスにとっても、それは同じだった。彼は、かつて「カイル」と呼ばれていた頃の師の姿を静かに見つめる。
エラヴィア「……あなたは?」
エラヴィアは穏やかな微笑みを浮かべたまま尋ねる。
だがその微笑の奥に、ごくわずかな警戒の気配が滲む。
それは魔力に宿る振動となって、ノクスに――かつての弟子であった彼に、確かに伝わってきた。
高位の魔導士である彼女ですら、痕跡すら残さず「カイル」の記憶を覆い隠す死神の力に、改めて恐ろしさに似た戦慄を覚えていた。
そんな二人の間に割って入るように、ベルが口を開く。
ベル「彼は……カイル。いえ、今はノクスと名乗っているわ。私を助けてくれた人よ」
その名を聞いた瞬間、エラヴィアの瞳が見開かれた。
エラヴィア「カイル?……カイル……ああ、どうして……私は……」
呟くようにそう漏らした次の瞬間、封じられていた記憶が堰を切ったように彼女の中に流れ込んだ。
ベルとノクスが、あの揺り籠に包まれていたとき。
エラヴィアは、幾度となくその元を訪れていた。
古い友であるベル、そして袂を分かった教え子カイルの行方を探し、辿り着いた末のことだった。
だが、その最後の瞬間。
揺り籠の殻がひび割れ、静かに、しかし確かな光を放ちながら崩れ落ちたときだった。
まるで世界そのものが息を呑み、時間が一拍遅れて脈打ったような感覚。
次の瞬間には、彼の名が、彼の声が、彼の記憶そのものが――
何かに触れられることもなく、静かに、確実に、世界のすべての記憶から剥ぎ取られていた。
そして今、ベルの言葉が鍵となり、封じられていた記憶が、風に乗って戻ってきたのだ。
エラヴィア「……私は、彼を……」
エラヴィアの声には、痛みと深い悔いが滲んでいた。
ベルの眠りは、これまでに幾度となく見てきた。
人の命を遥かに超えるほどの眠りに落ちることも、決して珍しいことではなかった。
だが、人の子である彼が、その中に巻き込まれるとは思ってもいなかった。
ましてや、彼をその場に向かわせたのは他ならぬ自分だった。
袂を分かったとはいえ、かつての教え子にして優秀な魔導士だったカイルに、古き友ベルの行方を託した。
それは信頼でもあり、願いでもあった。
結果として、彼を危険にさらし揺り籠に閉じ込めたのは、自分自身の選択だったのだ。
――これは、私の罪。
千年を生きる賢者にとっても、それはあまりに重く、耐え難い現実だった。
彼が巻き込まれて以降、エラヴィアは幾度となく揺り籠の地を訪れた。
風の魔術で周囲の変化を観察し、二人に異変が起きぬよう、静かに見守り続けていた。
誰よりも彼らを見てきたというのに――
その自分の記憶から「カイル」の存在だけが、綺麗に抜け落ちていたことに、今さらながら気づいた。
それが、ただの記憶の曖昧さなどではないことも、すぐに悟った。
理解の及ばぬ、抗いようのない“力”によって消し去られた何か。
この世界そのものが、彼という存在を忘れていた――そうとしか思えなかった。
湧いてくる疑問を抑えながらエラヴィアは口を開く。
エラヴィア「カイル……いえ、ノクス。ベル。場所を変えましょう。近くに私の隠れ家があるの」