3-16
二人が還りの門をくぐった瞬間、世界は一瞬の静寂に包まれた。
闇はただの闇ではなかった。
冷たく厳しいものではなく、まるで深い母の腕のように、暖かく優しく二人を包み込んだ。
その闇が彼らを守り、現実へと穏やかに連れ戻していく。
やがて暗闇が薄れ、淡い光が差し込む。
赤紫色の殻が、まるで陽光に溶ける雪のように静かに崩れ落ちていく。
その中から、ひとりの青年がゆっくりと姿を現した。
カイル――否、かつてカイルだった者は、両腕を差し伸べ、柔らかく地面に降り立つ少女をしっかりと抱きとめる。
ベルはまだ目を閉じたままだった。
その姿は、まるで夢に囚われているかのようで……あるいは、目覚めの直前に見た忌まわしい夢を、胸の奥へ沈めようとしているかのようにも見えた。
“死神の揺り籠”がその役目を終え、記憶とともに静かに溶けゆく最後の瞬間。
彼女は、ルーヴェリスと過ごした静謐な時間を、そこへ静かに流し込んでいたのだろう。
七年という歳月が過ぎ去ったこの森は、穏やかに陽光を受けて静かに揺れていた。
緑の葉が柔らかく風に揺れ、小鳥のさえずりが静かに響いている。
だが、この森はただの自然の楽園ではなかった。
ここはかつて、狂気に取り憑かれた男、慟哭の従者セラフがベルを捕らえ、彼女のすべてを奪おうと暴れた場所だった。
絶望の淵で、カイルは駆けつけた。狂乱の夜の激しい戦いの果てに、彼はベルを救い出し、“死神の揺り籠”へと送り届けたのだ。
カイルはしばらくその景色を見つめていたが、細く震える声が彼を現実へと引き戻した。
ベル「……っ? 誰……?」
ベルが目を開ける。
薄紫の瞳は戸惑いと警戒に揺れていた。
彼女はカイルの腕の中から身を離し、まだおぼつかない足取りで距離を取る。
その動きはまるで、獣のような本能に突き動かされているかのようだった。
ノクスはわずかに息を吸い、静かに答えた。
「ノクス・アスフォデルム」
ベル「ノクス……」
その名がベルの唇からこぼれた瞬間、世界は静かに変わった。
ルーヴェリスが与えたその名を、現世で初めてベルが口にした。
彼はその名を受け入れ、名実ともに“ノクス”となったのだ。
しばらくして、彼はもう一つの名を口にする。
ノクス「そして、かつてカイルだった者」
ベルの瞳が、はじけるように見開かれた。
揺れるまなざしは、まるで記憶の波に引き込まれるように迷いを帯び、その奥には、混乱と困惑、そして微かに恐れの色が宿っていた。
目覚めたばかりの心に、幾重もの感情が押し寄せてくる。まるで、眠りの安寧から強く引き戻されるように。
ベル「カイル……」
その名が、思い出を解き放つ鍵のように、静かにベルの胸に触れた。
長い時を共にした記憶は、確かにないはずだった。
それでも、彼の姿も、言葉も、はっきりと記憶の底に残っていた。
追われる身となった自分を助けた密偵。
闇の手から逃れる中で、わずかな安らぎを与えてくれた同行者。
そしてあの悪夢の夜、セラフの狂気に囚われた自分を命を賭して救いに来てくれた、ただ一人の存在。
ほんのわずかな時間しか共にいなかったはずなのに。
何故か彼の気配は、懐かしく、心の奥にある何か大切なもののように、深く、確かに響いていた。
ベル「私は……殻の中で、どれくらい眠っていたの?」
掠れるような声で、ベルはそう問いかけた。
“死神の揺り籠”
それに囚われた時間の記憶は、彼女の中には何一つ残っていない。
だが、それがどれほど深い眠りであるかは、彼女自身が知っている。
魂ごと隔絶されるその眠りは、世界の在り方すら変えてしまうほどの長さになることもある。
そして、目覚めのたびに、何か大切なものが手のひらから零れ落ちているという感覚だけが、いつも残る。
沈黙の中、ノクスは何も言わなかった。
彼女の問いに応える言葉を、どうしても見つけられなかった。
あの夜は、彼にとっては数年前の過去だ。
幾度も夢に見て、何度も心の中で反芻して、それでもまだ終わらない痛みとして残っている。
けれどベルにとっては、つい昨日の悪夢の続きのようなものなのだろう。
何も知らず、何も思い出せないまま、ただ目覚めただけ。
本当のことを告げれば、彼女の心に、二度と戻らないものの重みだけが残る。
それはきっと、彼女をまた苦しめるだけだとわかっていた。
それでも、ベルの視線の先に自分が映っていないことだけは、痛いほどによくわかった。
まるで見知らぬ他人を前にしているような、あの穏やかで無垢なまなざしが、胸の奥を静かに裂いていく。
言葉では埋められない空白だけが、ふたりの間に横たわっていた。