3-14
ルーヴェリスの願いを受け入れた日を境に、カイルが塔で過ごす時間は、現世と同じ速さで流れはじめた。
望むのなら、ルーヴェリスやベルのように時の流れを消し去り、永遠に近い緩やかな時の中で生きることもできた。
けれど――それは、人間の心にはあまりに過酷だ。
永遠に身を置くには、魂の器が足りない。精神が、耐えきれない。
カイル「……ならば、せめて、この限られた時間の中で」
そう呟いて、彼はひたすらに書を開き続けた。
望むほどに、探し求めるほどに、書庫の本は増えていく。
尽きることのない知識の海が、彼の前に広がっていた。
──いっそ、このまま、永遠にここに囚われていてもいいのではないか。
塔の静寂。
尽きぬ知の泉。
そして、ルーヴェリスとベルと共にいられる、確かな時間。
そのすべてが、カイルにはひどく心地よく思えた。
どれほどの時が過ぎたのか、自分でもわからない。
気づけばカイルは自然と、彼らが暮らす部屋へと足を運ぶようになっていた。
そこに向かう明確な理由があったわけではない。
ただ、道がそこへ続いていた。ただ、それだけのことだった。
書庫へ行こうと扉を開けば、なぜかあの部屋へと繋がっている。
偶然とは思えなかった。むしろ何かに導かれているようで――
いや、それよりも。あれはきっと招かれていたのだ。
カイルは、そう漠然と感じていた。
その頃には、ベルは目を覚ましていることが多くなっていた。
カイルの姿を見つけると、無邪気な少女のように笑い、ふわりと声をかけてくる。
ルーヴェリスが彼女に語ったおとぎ話や、かつて現世で共に過ごした記憶を、夢の余韻のような拙い言葉で語るのだ。
それはまどろみの中に咲く幻のようで、語るうちに声が途切れ、まつげが小さく震え、やがて再び静かな眠りへと落ちていく。
ある日、扉を開けた瞬間──
その先に広がっていた光景に、カイルの胸は締めつけられた。
深く、静かに眠るふたり。
ルーヴェリスは椅子に腰を下ろし、瞳を閉じたまま、まるで時すら忘れたように微動だにしない。
ベルはその膝に頭を預け、ゆるやかな呼吸を繰り返していた。彼の腕に包まれるようにして、白い頬にかすかに影を落とす。
それは月夜の静けさにも似て、時間がすべての音を吸い込んだような、完全なる沈黙だった。
その空間には、完成された芸術のような完璧さと、触れてはならぬ神聖さが宿っていた。
呼吸一つ、まばたき一つすら躊躇われる。
この光景を乱すことは、罪なのではないかとすら思えるほどに。
ベルは、月の光に咲いた儚い花。
ルーヴェリスは、その夜を静かに支配する沈黙の月。
重なり合うことのないふたりが、ただこのひとときだけ、寄り添っている。
それは夢の境界。
現実からわずかにずれた、ひとときだけの奇跡だった。
その光景に、カイルはただ息を呑み、立ち尽くすことしかできなかった。
自分だけが見ている。
この闇、この静けさ、そして──この、弱さを。
人知を超えた力と美を宿すふたりが、まるで普通の人間のように脆く、温かく、ただ静かに眠っている。
その姿を知るのは、自分だけだ。
誰も知らない。
死の神ルーヴェリスが、人間である自分に頭を下げたことを。
震える声で助けを願ったことを。
血を吐くような必死さで、ベルを守ろうとしたことを。
誰も知らない。
ベルが夢に怯え、子どものように泣きじゃくった夜を。
眠りながら掴んだのは、自分の手だったことを。
その手を離すまいと、命綱のように縋ってきたことを。
その記憶の一つ一つが、胸に熱を灯す。
それは憐れみでも、愛とも違う。
もっと深く、もっと歪んで、癒えないもの。
カイル自身が、一番よく知っている。
弱さに惹かれる。
崇高であるがゆえに、ふと欠けたその一瞬に、心を奪われる。
完璧でないということが、これほどまでに美しいなどと思いもしなかった。
それを知っているのは、自分だけ。
この優越感。この、歪んだ歓び。
もはや傷のように、胸の奥に根を張って離れない。
扉の向こうに広がる静寂の寝室。
ふたりの呼吸が重なる音さえ、心をかき乱すほどに美しい。
──あと一歩、近づけば。
この感情は、いったいどこへ辿り着くのだろうか。
穏やかで、美しい日々だった。
幾千万の書が眠る死神の書庫で、カイルは知を耕すように日々を送っていた。
書を読み、考え、眠り、時折、ベルの眠る光の間を訪れては、その寝顔を静かに見つめる。
彼女のそばには、決まってルーヴェリスがいた。静かに佇み、まるでその命の灯火を守るかのように。
カイルは、そんなふたりの姿を何度も目にしてきた。
眠るベルの表情はいつも穏やかで、夢の中では苦しみから解放されているようだった。
そして、その横顔を慈しむように見つめるルーヴェリスの眼差しその瞳に宿るものを前に、神という存在にも情があるのだと、カイルは知った。
それは、初めて抱く感情だった。言葉にするには繊細すぎて、定義づけるには儚すぎる思い。
だがそれは、間違いなく「愛おしさ」に似ていた。
──この時間が、永遠に続けばいいのに。
そんな願いがふと胸をよぎったその日、ルーヴェリスは静かに告げた。
ルーヴェリス「もうすぐだ。君たちは目を覚まし、現し世へ戻る」
その言葉に、カイルの胸が静かに波立った。
終わりが近いと知った瞬間、すべてのものがいっそう鮮やかに映り始めた。
この空間も、書の一頁一頁も、ベルの安らかな寝顔も、そして──その彼女を見守る彼の横顔も。
名残惜しさに背を押されるようにして、カイルは再び書庫を巡った。
そして、一冊の本に出会う。
古びているのに、埃ひとつない。題もなく、装丁にも記述はない。まるで、存在そのものが忘れ去られることを拒んでいるかのような本だった──。
恐る恐るページを開けば、そこには手書きの文字が並んでいた。
流れるように整った筆跡。けれど、どこか機械的なものとは違い、確かな体温を宿している。
──ルーヴェリスの手記だった。
他人の心の奥に踏み込むことを、平気でできる人間ではなかった。だが、それでも知りたかった。彼の沈黙の奥にあるものを、少しでも理解したかった。
カイルは静かに、本を読み始める。
ルーヴェリスという存在を、内面を、少しでも知りたいという欲に、どうしても抗うことができなかった。
ページをめくるたび、言葉が静かに、雪のようにカイルの胸へ降り積もっていく。
そこには、死神としての日常が淡々と綴られていた。
命を刈り、魂を還す。それは善でも悪でもない。ただ、あるべき流れを守るという役割。彼にとって、死は苦しみでも救済でもなく、世界の摂理そのものだった。
信仰も、讃美も、感謝も求めぬ神。誰かに祈られることもなく、孤独のなかでただ職務を全うするだけの日々。
そんな冷たく、平坦だった記述が──ある年を境に、少しずつ色を変え始める。
──太陽が冷たく、輝きを失った年。
飢饉と疫病が相次ぎ、死の気配が濃く立ち込めていた、ある小さな村。
そこで人々は、死を恐れるあまり、「死の神」へと縋るように祈りを捧げた。
彼らが求めたのは救いではない。「自分たちだけは助けてくれ」という、利己的で浅ましい祈りだった。
ルーヴェリスはそれをただ眺め、冷笑しながらも──その中に現れた一つの“例外”に目を奪われる。
──淡い紫色の髪を持つ少女。
粗末な石を積み上げた祭壇から、突き落とされようとするその瞬間、
なぜか、その髪に、そして少女という存在の在り方に、視線が離せなかった。
「気づけば、腕が伸びていた」
──その一文を読んだところで、ふいに本が光を放ち、カイルの手から消えた。
カイル「……っ」
驚きに顔を上げると、仮面の使いが静かに佇んでいた。
泣き笑いの面の奥から、くぐもった声が響く。
「主の“想い”に触れるのは……容易なことではありませんよ、カイル様」
咎めるような響きはない。ただ静かに、優しく諭すような声音だった。
それでも、胸の奥には、かすかな痛みが残った。
ルーヴェリスは、何を見て、何を思い、なぜベルに“触れた”のか。
そのすべてを知ることは、きっと許されないのだろう。
けれど、確かに。彼の中にも──「選び取る心」があった。
その夜、カイルは眠れなかった。
胸の内で、ゆっくりと感情が形を変えていくのを感じながら──
やがて訪れる旅立ちの時に、そっと心を添わせていた。