3-13
ルーヴェリスの沈黙のあと、空間には静謐な重みが満ちた。
その表情は、どこか諦念と希望のはざまに揺れ、神とは思えぬほどに脆かった。
それでもその姿は美しく、祈るような眼差しで、カイルの心にまっすぐ訴えかけてくる。
ルーヴェリス「ベルが“揺り籠”から目覚めた時――君には、この場での記憶を持ち帰っていてほしい。そして……彼女の傍にいてほしい」
カイル「俺が……?」
ルーヴェリス「私が彼女の魂に触れられるのは、ほんのわずかな時間だ。
この部屋、この“死の深層”においてのみ可能な干渉に過ぎない。
だが、君なら……現世で、彼女と共に時を歩める。永い孤独の道に、君が希望の火を灯してくれるかもしれない」
神の言葉は、カイルの胸の奥深くに沈んでいった。
この部屋から彼が差し伸べた爪――現世に送り込まれ、ベルに触れた異質なる力。
あれがどれほど無理を強いていたか、今になって分かる。
ルーヴェリス「そして……ベルを、“あの男”の呪縛から解き放って欲しい」
ルーヴェリスの声が静かに変わる。
淡く光る虚空に、その指先がそっと触れた。赤黒く脈動する糸――呪詛の幻影がそこに浮かぶ。
ルーヴェリス「今もなお、その呪いの糸はベルの魂を捕らえている。
そして、それはセラフの魂をも束ね、繋ぎ止めている。奴は、ベルの不死性と魂の一部を共有しているのだ」
カイル「……共有?」
思わず問い返したカイルの声に、ルーヴェリスは静かに頷く。
ルーヴェリス「呪いの中で、彼の魂はベルに同調しているように感じる。
彼女が不死である限り、彼もまた永遠を生き続ける。
たとえ肉体が滅びようとも、魂は輪廻の枠を越えて彼女を追い、求め、再び交わろうとするだろう」
カイルの背筋に冷たい戦慄が走る。
ルーヴェリス「ベルが“永遠”である限り、奴の執念もまた終わらない。
呪いが解けぬままでは、あれは何度でも繰り返される。まるで、終わりのない夢のように……」
ルーヴェリスは、そこで一度言葉を切った。
ルーヴェリス「ベルの魂に食い込んだ“呪い”そのものを、完全に断ち切ることで、悪夢は終わるかもしれない」
それは、叶わぬ夢のようにも聞こえた。
ルーヴェリス「だが……私は“聖”ではない。
癒やす者ではなく、奪う者。
“死”の力では、その呪いを根から断つことはできない」
カイルは一歩、神へと近づいた。その瞳に、淡く揺れる光が宿っている。
それはただの使命感ではない。
胸の奥に沈殿した、名もなき渇き――
彼女を救いたいという、切実で焦がれるような願い。
そして、この神すらも自分の意思で動かせるのではないかという、どこか危うい欲望。
ゆっくりと息を吐き、言葉を紡ぐ。
カイル「……貴方とベルが俺を選ぶのならば」
その声は静かで、だが熱を帯びていた。
ベルをこの地獄から連れ出せるのなら。
彼女の孤独に自分だけの色を落とせるのなら――それだけで、生きる意味すら変わる気がした。
カイル「ベルが……苦しみから解放される道があるなら、俺は、それを選びたい。
たとえ、それがどれほど困難な道でも」
その言葉の奥には、純粋すぎるほどにまっすぐな願いと、
それに寄り添うように潜む、独占にも似た執着があった。
あの孤独な瞳に、自分だけが映りたい――そんな、未だ形にならない想い。
神は、しばし言葉を失う。
その瞳に、わずかな陰を落としながら、カイルを見つめる。
美しさと儚さに満ちたその姿すら、今のカイルには焦がれるように映っていた。
神でさえ、手を伸ばせば触れられるのではないかと錯覚するほどに。
そして、ルーヴェリスはそっと頷いた。
その仕草は、どこか哀しげで、けれど確かな祈りをたたえていた。
ルーヴェリスは静かに腕を下ろすと、再びカイルの方へ視線を戻した。
ルーヴェリス「ルクシアの力を頼るといい。
……あの光なら、ベルの魂に絡みついた呪いを断つ糸口が見つかるかもしれない」
そう告げられた瞬間、カイルの胸にかすかなざわめきが広がった。
ルクシア――光と救済を司る神。幼い頃、病床の母が繰り返し祈っていた神の名だ。
そして、自身も密偵として旅を続ける中で、「治癒師」として身分を偽るために身につけた信仰でもあった。
だが、いつしかその教えは、ただの偽装ではなく、知らず心に根を下ろしていた。
傷を癒し、罪を赦し、誰であっても見捨てない“無差別の慈悲”。
それがルクシアの教えであり、かつて一度だけ祈祷堂で出会った巡礼の聖職者が、敵すらも癒すと誓ったその姿が、カイルの仮面を少しずつ溶かしていった。
ルーヴェリスの言葉は、やがて静かに締めくくられた。
ルーヴェリス「……私は、彼女を助ける道を持たぬ。
死は、終わらせる力であって、癒やす力ではない。だが、お前は違う。お前の手が届く場所が、まだある」
その言葉には重みがあった。
死神として、彼は祝福を与えることはできても、呪いを根から断つことはできない――その限界を知っているからこそ、彼は他の“光”に手を伸ばすことを促したのだ。
ふと、カイルが顔を伏せた。
何かを思い出したかのように、ぽつりと口を開く。
カイル「……一つ、懸念があります」
その声には、硬さとためらいがあった。
カイル「俺は……“蛇の法衣”の一員です。かつて、ベルを追う任務を受けていた。
今はその彼女と共にいます。もしこれが知られれば……俺だけでなく、ベルも……」
ルーヴェリスはしばし沈黙し、それから静かに言葉を返す。
ルーヴェリス「なるほど……ならば、君の“名前”を奪おう」
その声は柔らかかったが、告げられた内容は重い。
カイルは眉をひそめる。
カイル「名前を……奪う?」
ルーヴェリス「“カイル”という名を、この世界から消す。
名は記憶を繋ぐ鎖だ。それを断ち切れば、君の存在は他者の記憶から霧のように薄れていく。誰も君を思い出せなくなるだろう」
淡々と語られるその言葉には、どこか哀しげな響きがあった。
カイルは黙したまま、目を閉じる。
──忘れられる。すべてから。
その意味を、静かに噛み締める。
脳裏に浮かんだのは、ただ三人。
目の前の死神、ルーヴェリス。
深い眠りの中にいる少女、ベル。
そして、自分を育て、導いてくれた師、エラヴィア。
カイル「……忘れられたくない者がいる。彼女と……貴方と、もう一人」
その言葉に、ルーヴェリスは静かに目を細めた。
ルーヴェリス「ならば、その者に“名前”を呼んでもらえばいい。それだけで、君は記憶の霧の中から戻る。
完全に消えるわけではない」
その声は、静かで優しかった。
ルーヴェリス「だが、だからこそ。カイルという名は、他の誰にも知られてはならない。知識は伝播する。
たとえ意図せずとも、誰かの記憶に触れれば、それは再び呪縛となる。君が誰かに知られれば、君だけでなく、ベルもまた追われることになるだろう」
カイルはゆっくりと頷き、静かに問いかけた。
カイル「死神ルーヴェリス。俺に、新しい名前をいただけませんか?」
ルーヴェリスの指が止まる。
わずかに目を見開き、カイルを見つめた。
ルーヴェリス「私が……名を与えるのか?死神のつける名は、不吉だぞ」
それでも――と、カイルは一歩も引かずに言う。
カイル「これは、貴方とベルの願いを叶える旅です。
その旅のための名だからこそ……貴方に決めてほしいのです、ルーヴェリス」
その言葉に、ルーヴェリスは微かに笑った。
静かな月明かりが、その横顔を淡く照らす。
ルーヴェリス「……そうか。ならば、旅立ちの時までに考えておこう。君にふさわしい“死の名”を」
黒い月明かりの下で交わされたその約束は、
運命を静かに――けれど確かに――動かす音を立てた。
話が一段落し、沈黙が流れる。
やがて、カイルが静かに口を開いた。
カイル「……もう一つ、願いを告げてもいいでしょうか」
その声音には、遠慮と同時に、確かな意志がにじんでいた。
ルーヴェリスは無言でカイルを見つめ、ゆるやかに顎を引いて促す。
カイル「……書庫の本の記憶が欲しいのです」
その言葉に、死神の目がわずかに細められる。
カイル「何度読んでも、翌朝には霞のように薄れてしまう。けれど、どうしても……忘れたくないんです。あの知識を」
それはただの我儘ではなかった。
カイルの瞳には、渇望に近い光が宿っていた。
かつて魔術の本質に手を伸ばそうとした、探究者としての面影。
何かを得たいという欲ではなく――何かを知り続けたいという、痛切な希求だった。
ルーヴェリスは一度、視線を伏せる。
そして、低く静かな声で応じた。
ルーヴェリス「……いいだろう。その知識を、おまえ自身のために使うのならば、与えよう」
だが、すぐにその眼差しに鋭さが宿る。
ルーヴェリス「ただし、その知を他者に広めてはならない。それは“死者の塔”の理だ。
知は力であり、時として災厄を呼ぶ。己の内に留め、誰にも渡すな」
カイル「誓います」
その返答は、揺るぎなく澄んでいた。
それは、知を得る者としての覚悟――そして、秘められたものと生きることを選ぶ決意だった。