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3-12

カイルの身体が、地面に膝をついたまま、がくりと揺れる。

胸の奥を突き抜けた記憶――それは痛みというにはあまりに深く、絶望というにはあまりに濃く、ただ、圧倒的な“苦しみ”の奔流だった。


苦しみの余韻だけでも呼吸がうまくできない。心臓が喉元まで競り上がっているようだった。

脳裏に焼き付いた映像、声、感触……それらが次々と心を蝕み、魂の奥に触れてくる。


だが、その中でカイルは、何よりもまず、彼女の姿を思い浮かべた。


カイル「……彼女は……ベルは……?」


かすれる声で絞り出すようにそう問いかけた。まるで、自分の痛みなどどうでもいいとでも言うように。


ベルのそばにいたルーヴェリスが、迷いなく彼のもとへ歩み寄る。

その瞳に宿るのは、普段の静かな冥色ではなく、深い悔恨と憂いだった。


ルーヴェリス「……ベルは魔法で眠らせている。今は、静かだ」


短く、しかし確かな言葉だった。


そのすぐあと、静かに横たわるベルの指先が、ほんのわずかに動いた。

まるで誰かを求めるように――あるいは、そこにいることを確かめるように。

閉じられた瞼の奥で、わずかに眉根が寄る。

彼女の深層意識は、まだ遠くで揺れている。


ルーヴェリス「……何があった?」


カイル「……彼女の記憶が、俺の中で再生されました。まるで夢の中で彼女になったかのように……」


ルーヴェリス「何故そんなことが……?」


カイルはしばらく黙り込んだ。

まだ胸の奥に残る痛みに、言葉が追いつかない。だがやがて、搾り出すように呟く。


カイル「俺にはただ……彼女が、誰かに苦しみを分けたように思えてならない。

貴方と二人で抱えて生きてきたその心を、ほんの少しだけ……誰かに分けて、軽くしたかったのかもしれない」


ルーヴェリスは黙って聞いていた。

その顔に、怒りも否定も浮かばない。ただ、遥か遠くを見つめるような静けさがあった。


カイル「……もしかしたら、ベルにとっては、貴方だけがその痛みを背負っていることが……何より辛かったのでは」


カイルの声は震えていたが、その瞳はまっすぐに、揺るぎなくルーヴェリスを見据えていた。


ルーヴェリス「……その記憶を、消そう。君の心が壊れてしまう前に」


その提案に、カイルはしばし目を伏せた。

肩が震え、指がわずかに握られる。だが、やがてゆっくりと、彼は首を振った。


カイル「……いいえ、覚えていたいんです。

ベルの痛みも、貴方の痛みも……この世界の記憶が、いつか消えるのだとしても……今だけでも、共にいたい」


滲む視界の向こうで、カイルの瞳はまっすぐにルーヴェリスを見つめていた。その真っ直ぐさに、ルーヴェリスは静かに唇を開く。


ルーヴェリス「君を……何も知らないまま、踏み込ませた、……利用してしまった」


一言ごとに、空気が重くなるようだった。


ルーヴェリス「……悔いている。だが――それでも、また……君に頼らねばならない」


その声はかすかに震えていた。

もはや神の威光など微塵もなく、ただ、ひとりの存在が絞り出した、痛切な本音だった。


その悲痛に満ちた吐息の中で、カイルの表情には、むしろ安らぎに近いものが浮かんでいた。だが、それだけではなかった。


――奇妙な高揚感が、胸の奥で静かに膨らんでいくのを、彼は自覚していた。


神に、頼られた。

絶望の果てにいるような存在が、自分というただの人間に手を伸ばした――その事実が、何故かひどく温かく、誇らしく感じられた。


おかしいことだとわかっている。

けれど、確かに今、心のどこかが熱を帯びていた。


神すら救えぬ深い闇に、手を差し伸べる役目を託されたこと。

その重さが、今の彼には光に思えた。



ルーヴェリス「……ベルの魂に喰らいついた、あの――」


ルーヴェリスの声が、かすかに震えた。


ルーヴェリス「――赤黒い呪詛の根。まるで毒を孕んだ蔦のように、魂の奥へと深く入り込み……私は、それを、取り去ることができない」


瞳に、濁りなき絶望の色が浮かぶ。

揺るぎない神性の仮面に、今はただ、己の無力を悔いる影が射していた。


ルーヴェリス「私の力は“死”の力――消すこと、止めること、奪うこと、それが本質だ。

今の治療も、癒しているのではない。

ただ、傷跡を消し、涙を止め、苦しみを奪っているにすぎないのだ」


その声には、理の壁に爪を立てて擦るような、静かな痛みがにじんでいた。


カイルはふと、記憶の底から一節を掬い上げる。

蛇の法衣が秘蔵する禁書――触れる者の精神を蝕む、異端の書に記されていた一文。


“死神は、祝福を与えた少女から――『終わり』を奪った。”


ルーヴェリス「絡みつく呪詛の糸のうち、多くは時間をかければ解ける。私も今、一つずつほどき、消している」


ルーヴェリスは瞼を伏せ、静かに息を吐いた。


ルーヴェリス「だが……あの赤黒い呪いだけは違う。

それは、まるで薔薇の棘のように、ベルの魂そのものに深く根を張っている。

触れるだけで、ベルは苦しむ。無理にほどけば――その魂ごと、裂けてしまう」


カイル「でも……このままでは」


ルーヴェリス「……呪縛は解けない。あの男の影も、消えはしない」


ルーヴェリス「時間をかければ、もしかしたら……と願う。

だが、君たちをこの空間に留めておける時間には限りがある。


先に伝えた“5年”――それは、赤黒い呪詛以外を取り去るのに必要な時、そして他の神々からの干渉を抑えられる期限だ」


カイル「……それでは、残った糸は?」


ルーヴェリスは言い淀み、そっと口を閉ざした。


カイル「……教えてください。そのために、俺にできることがあるのなら」


カイルの声は低く、熱を帯びていた。

その眼差しは、まるで獲物の弱点を見出した捕食者のように鋭く、どこか異様な光を宿していた。

救いたいという願いと、神に選ばれたという狂おしいほどの悦びが、その奥底で奇妙に溶け合っている。


ルーヴェリスは静かに頷いた。


ルーヴェリス「君に――頼みたいことがある。いや、君以外には頼めない。……どうか、力になってほしい」


その声は、神のものとは思えぬほど脆く、人間めいていた。

それでも、その姿はなお美しく、どこか魅惑的ですらある。


――この神が、自分を頼っている。

この崇高で完全無欠に見える存在が、自分というただの人間に手を伸ばしている。


カイルの胸に、名状しがたい高揚がふわりと灯った。

それは、信仰ではない。忠誠でもない。

ただ、抗いがたい衝動――この神のために何かを成し遂げたいという、甘美で歪な熱。



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