3-11
しばらく彼女の顔を見つめたまま、カイルはぽつりと呟いた。
カイル「……あれが、本当の彼女なのでしょうか?」
問いというにはあまりにも静かな、風の音にも紛れてしまいそうな独り言。
だが、そのわずかな声に、ルーヴェリスは確かに反応した。
目を伏せ、そしてほんの一拍の沈黙の後、静かに頷く。
ルーヴェリス「彼女は……ずっと隠していたのだ。
自分の弱さも、痛みも、傷も……誰にも見せぬように。
誰の腕にも、心にも寄りかからず、すべてを独りで背負ってきた」
その言葉は、まるで過去の断片をなぞるように、どこか哀しみに濡れていた。
死神の揺り籠に包まれ、ルーヴェリスのもとへ還るときだけ、ベルは仮面を脱ぐ。
冷たい言葉も、達観した瞳も、鋭く尖った鎧のような振る舞いも。
すべてを置き去りにして、彼女はただの少女として、ありのままの姿に戻るのだ。
それは、彼女とルーヴェリスの間にだけ許された、そして同時に科された“罰”。
カイル「……なんて寂しくて……、悲しい罰なんだ」
カイルは知らず吐息をこぼしていた。
胸の奥が締めつけられるような感覚。
理解しきれないまま、それでも確かに存在する、二人の絆の深さと、その歪な痛みに心が揺れる。
ルーヴェリス「……話の続きをしよう」
感情を押し殺すように、ルーヴェリスは再び目を細め、厳かな表情を取り戻した。
指先がそっと宙をなぞると、先ほど現れた赤黒く光る呪いの糸がふたたび姿を現す。
ルーヴェリス「……この糸のいくつかは、外から魂に巻きついただけではない。
あれは、まるで寄生するかのように、内側にまで根を張り、
引き剥がされることを本能で拒む。
……まるで、意志を持つ生き物のようだった」
その言葉に、カイルはある光景を思い出す。
“慟哭ノ従者”セラフ――あの、狂気に満ちた瞳。
常軌を逸した、ベルへの歪んだ執着。
カイル「……あの男、今……どこに……」
カイルの声は低く、押し殺されたような響きを持っていた。
その声音には、わずかに震えが混じっていた。怒りとも、恐れともつかない、得体の知れぬ感情。
それはまるで、闇に触れた指先に走る冷たい電流のように、じわじわと彼の内に満ちていく。
ルーヴェリスは答えなかった。
ただその琥珀の瞳で、カイルの横顔を静かに見つめていた。
目の前の青年が、知らぬうちに踏み入れようとしている深淵を思い、
そして、その先に待つ運命に、言葉を持たぬ祈りを込めるように。
この塔に封じられて久しい彼には、すでに現世を完全に視ることは叶わない。
幽なる存在となった彼の視界に映るのは、ただ一人。
ルーヴェリスの愛し子——ベルの姿のみ。
それで、これまでは充分だった。
彼女の息づかいを、姿を、かすかにでも感じることができれば、それだけで。
それが、彼に残された、唯一の慰めだったのだから。
カイル「……あいつが死ねば、この呪いは?」
カイルの言葉には、切り落とすような鋭さがあった。
けれど、その内側には、どうしようもない焦りと、わずかな希望が潜んでいた。
ベルを縛るすべてを断ち切るために、彼は手段を選ばない覚悟すら滲ませていた。
ルーヴェリスはわずかに目を伏せ、沈黙ののちに、静かに口を開く。
ルーヴェリス「……呪術には、術者が死しても消えぬものがある。
……これもまた、そうだろう」
その声には、確信と諦念が入り混じっていた。
それは、幾千の魂の終わりを見届けてきた死神としての実感。
そして、何よりも、ベルを見守り続けてきた彼自身の、深い絶望の色を帯びていた。
ルーヴェリス「……おそらく、奴もこの呪いの糸を己の魂と結びつけている。
死しても、魂は輪廻を超え、ふたたび彼女を追うだろう。
——ベルを、決して手放すまいとして」
重い沈黙が、空気を沈めるように広がった。
その時、光の揺り籠の中でベルの体が小さく震える。
まぶたは閉じられたまま――だが、その唇がかすかに動き、幼い子どものような拙い言葉が漏れた。
ベル「……こないで……やだ……やめて……もう、やだぁ……」
その声は弱く、囁きにも満たない。
けれどそこには、恐怖と痛み、そして理解しきれないまま踏みにじられた幼い心の叫びが込められていた。
ベル「……こわい……いたいっ……、なんで……こんなことっ……」
震える指が、胸元の布をぎゅっと握る。
その手が覚えているのは、もう見えない痕跡。
魔力を抉るように注がれ、内側を何度も何度も掻き乱され、壊されていった記憶。
その苦痛は、死よりも深い。
不死であるがゆえに壊れず、終わらず、ただ無限に続く「狂った愛の営み」。
セラフはベルを狂おしく欲し、奪うために、執拗に、何度も、彼女を蹂躙した。
ベルの口から、苦悶と恐怖に満ちた悲鳴が漏れる――その中には、嬌声ともとれる、無意識にこぼれた音が混じっていた。
ベルはそれを、全身で拒むように震えながら否定した。
ベル「……ちがうの……やだ……そんなの、ちがう……っ……!」
その声は、無垢だった少女の、崩れた魂の最後の抵抗のようだった。
すぐ傍にいたルーヴェリスが、そっとベルの手を包み込む。
その手は、雪に触れたばかりのように冷たく、小さく、頼りなかった。
ルーヴェリス「……ベル、大丈夫。もういい……もう、終わったんだ。君は、今ここにいる」
その声は、囁くように穏やかで、決してベルを急かすことはなかった。
だが、彼女の震えは止まらなかった。
ひとすじ、ふたすじと流れる涙だけが、その表情の奥にあるものを語っていた。
頬を伝った涙は、やがて淡い光の揺り籠の中で、儚く消えていった。
その時――
カイル「っ……!」
カイルの瞳が、見開かれた。
何かに突き動かされるように、彼は片膝をつき、胸元を押さえる。
ベルの記憶が……セラフとの悪夢の日々が、強制的に彼の意識に流れ込んできたのだ。
脈絡もなく、容赦もなく、洪水のように。
苦悶の表情を浮かべ、カイルは声を上げようとするが、喉がうまく震えず、嗚咽のような呼吸しか漏れない。
その場に崩れ落ち、頭を抱える。
焼きつくような断片映像が脳裏を走る。
粘膜のような感触が肌を這い、
体の奥にまで入り込む異質な魔力が骨を削り、
魂がねじ曲げられていくのがわかる。
それは、ただの痛みではなかった。
存在そのものを侵され、支配され、歪められていく――狂気の記憶。
ベルが、ただ耐え、生き延びてきた絶望。
奪われ、穢され、それでもなお息をしていなければならなかった、生の地獄。
そのすべてが、濁流となってカイルの内に流れ込んでいく。
カイル「……こんな……こんなものを……」
かすれた声が喉から絞り出された。
それは叫びというにはあまりに小さく、しかし胸の奥に押し込められた怒りが、確かにそこにあった。
ど自分は――何も知らなかった。
理不尽に、深く、容赦なくベルを傷つけた存在と、
何ひとつ守れなかった自分自身への怒りが、胸の奥で静かに煮えたぎる。
だが、その怒りすら、言葉にならなかった。
ただ、震える唇と、ひとしずく落ちた涙だけが――
彼の無力さを、痛いほどに物語っていた。