3-10
カイル「それでも、俺は構いません。彼女にその時間が必要なのならば、私は待ちます」
ルーヴェリス「……」
ルーヴェリスのまなざしが、ふと揺らいだ。
その神のような、冷ややかで美しい顔に、人間的な感情の影が差す。
ルーヴェリス「おそらく……、あと、5年。君たちを、返すのは今から5年後になる。ベルの魂を傷つけずにできる限りの糸を取り去るのにかかる時間だ」
カイル「5年……」
言葉を繰り返すカイルの声に、迷いはなかった。
カイル(自分を待つ者などいない。かつての自分には、家族も、深く交わる友もなかった。あるのはただ、知識と探究の道だけ。けれど今――)
視線を向ける。その先にあるのは、眠るベル。
今や彼にとって、命を懸けて守るべき存在。
カイル「彼女に時間が満ちるまで、ここにいます」
カイルは静かにそう言った。
沈黙の後、ルーヴェリスはほんの一瞬だけ――微かに、笑った気がした。
ルーヴェリス「ありがとう」
ルーヴェリスは穏やかに微笑んだ。だが、その瞳の奥には、拭えぬ影が揺れていた。
ルーヴェリス「……本来、君に語るべきことではないのだが」
声音には、神であるがゆえの迷いと――そして、かすかな罪の意識が滲んでいた。
ルーヴェリス「先日、イストリィアの使いが現れた」
その名が告げられた瞬間、空気がわずかに張り詰める。
秩序と輪廻を司る女神イストリィア――神々の中でももっとも厳格で中立的な“裁定者”。
ルーヴェリス「君をこの場所に留めていることに、すでに多くの神々が異を唱えている。
本来なら関わるはずのなかった者を迎えたことで……均衡が乱れているという」
ルーヴェリスは言葉を継ぐ前に、静かに目を伏せた。
ルーヴェリス「全て私のせいだ、君は彼女に目をつけられた、時が来れば輪廻の輪から弾かれてしまうかもしれない」
その一言には、神の尊厳を揺るがすほどの、静かな悔いが込められていた。
ルーヴェリス「封じられた者であるこの身では、他の神々に抗うことも、君を守ることさえ――十分には叶わない」
淡々とした声の裏に、深い嘆きがこだましていた。
カイルは何も答えなかった。
ただ、目の前で語られる神々のやり取りを、まるで遠い神話を聞いているかのように、どこか現実味のない感覚で受け止めていた。
ルーヴェリス「だがそれでも今すぐに君を返すわけには行かないのだ……ベルの回復を遅らせているもう一つの理由を見てほしい」
ルーヴェリスは静かに語り、そばで揺れる光の揺り籠に目を向ける。
手を伸ばし、そっとかざすと、ベルの体から無数の細い光の糸が、静かに浮かび上がった。
カイル「……これが、呪いの糸?」
低く問うたカイルの言葉に、ルーヴェリスは静かに頷いた。
カイル「糸の中に……色が違うものがある」
カイルは眉をひそめる。
光の中で揺れる無数の糸のうち、数本が赤と黒を反射するように鈍く、不吉な光を放っていた。
それはまるで、毒を孕んだ血管のように、わずかに脈動しているようにも見える。
ルーヴェリスは静かに息を吸うと、そのうちの一本――赤黒く蠢く糸に、慎重に指を触れた。
その瞬間だった。
ベル「……ッ!」
静寂を裂いたのは、鋭い痛みを堪えきれぬ少女の呻き声だった。
穏やかな寝顔で眠っていたベルの瞳が、突如として大きく見開かれる。虹彩は焦点を失い、光のない空間をさまよい――喉の奥から、擦れた悲鳴が絞り出された。
ベル「や……めて……ルー……痛い、よ……」
震える声が空気を震わせる。
肩が跳ね、身体が弓のように反り返る。
小さな手は胸元を掴み、爪が食い込むほどに力が入っていた。
その苦悶はただの感覚の痛みではなかった。
糸が引かれるたびに、意識の奥に沈んでいた古傷が、鮮烈に呼び起こされる。
焼けるような熱と、氷の刃が同時に突き刺さるような矛盾した痛み。神の力が織り成した呪いが、神経の奥底を穿ち、精神にまで滲んでいく。
カイルは思わず一歩、前へ出た。
カイル「ベル……っ、これは……?」
反射的に伸ばした腕が揺り籠に触れそうになる。だが、その直前で手が止まる。
揺り籠の周囲には、目に見えぬ障壁があった……否、それ以上に、自分の行為が彼女を傷つけるのではという恐れが、カイルを縛っていた。
彼の拳は震え、歯を食いしばる音すら聞こえるほどだった。
一方、ルーヴェリスの表情には、苦悶と自責の色が濃く浮かんでいた。
ルーヴェリス「すまない……ベル……」
ルーヴェリスが呟いた。
その声には、神であるはずの存在には似つかわしくないほどの、人間的な懺悔の色が滲んでいた。
指がそっと糸から離されると同時に、少女のようなベルの顔が、苦悶の表情を残したまま静かに伏せられる。
そして、すぐにルーヴェリスが口の中で何かをそっと詠じると、柔らかな光がふわりと揺れ、ベルの身体を包んだ。
それは痛みを宥めるような、子守唄にも似た優しい輝き。
まるで母が眠る子の額に手を添えるように、光は彼女の呼吸と表情を徐々に穏やかなものへと変えていった。
ベル「……あなたは……カイル?」
瞼をうっすらと開けたベルが、まだ夢の中にいるかのような曖昧な声で名を呼ぶ。
焦点の合わない瞳が見慣れぬ人影に一瞬の戸惑いを浮かべるが、記憶を手繰るように揺らめいた視線はやがて、彼を捉えた。
ベル「わたしのこと……2回……助けてくれたよね。ありがとう……」
微かに浮かんだ笑みは、いつもの神秘や重みを一切帯びていなかった。
ただ無垢で、あどけなく、まるで年相応の少女が心から感謝しているだけの、透明な微笑みだった。
その瞬間、カイルは言葉を失った。
何かが、胸の奥を強く揺さぶる。
それは戸惑いでも困惑でもなく――もっと深く、形を成さないまま燻っていた感情だった。
ベルはその一言を残すと、再び、落ちるように意識を手放した。
静かに、まるで時の流れから切り離されたかのように、深い眠りの底へと沈んでいく。
その胸はほとんど上下することもなく、寝息すら感じられなかった。
命の気配さえ希薄なその姿に、カイルは思わず息を呑む。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚くて、それでいて、何もかもを背負ってきた存在の重みが、そこには確かにあった。
静寂が戻る。
だがその空気は、もう先ほどまでと同じではなかった。