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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
部屋にいた者たちは、次第にエラヴィアの眠るベッドから距離をとり、静かに部屋の隅へと身を寄せていた。
今、彼女の傍らに立つのは――ベル、ただ一人。
これは、単なる病や呪詛ではない。
外からの干渉によって、魔力の根幹そのものが断たれている。
風の精霊と深く繋がる彼女だからこそ、街に巡らされた魔力の乱れを直に受け、命そのものが削られていく。
ベルは静かに呟いた。
「……あなたを苦しめているものから、あなたの姿を奪い、隠す」
それは、エラヴィアの魔力を縛り付けている存在から彼女を隠して、その影響から解放するということ。
ベルの指が、そっとエラヴィアの胸元に触れた。
その瞬間、空間がわずかに震えた。
赤紫の光が、ベルの内奥――魂の深淵から、滲むように立ち上る。
それは「祝福」。
遥かな昔、死神から授けられた、理に属さぬ特異な力。
通常の魔術とは異なり、詠唱も術式も必要としない。
意志だけで発動するその力は、ただ“在る”だけで世界に作用する。
それが、神から授けられた本物の“祝福”である証だった。
そしてその力の根源は奪う力、終わらせる力。
エラヴィアの姿を捉えるものがら、彼女の姿を奪い、その術から逃れる。
ベルが手を離すと赤紫の光は収まる。
そして、風が――吹いた。
一度は沈黙していた空気が、命を取り戻したように微かに揺らぎ始める。
風の動きは街を包む澱みを切り裂き、音もなく薄氷のように魔力の膜を剥がしていく。
それは塔の中だけでなく、外へも、少しずつ届いていった。
静寂のなかで、エラヴィアがふいに、深く息を吸い込んだ。
それは苦しげでありながらも、確かに意志をもってなされた呼吸だった。
部屋の隅の誰かが、息を呑む音がした。
だが、ベルは動じなかった。
ただその呼吸を、静かに、確かに見守っていた。
微笑もうとしたそのとき――彼女は気配の揺らぎに気づき、ゆっくりと顔を上げる。
エラヴィアの容態が落ち着いたことで、室内には安堵の気配が広がった。
誰かが小さく感嘆の声を漏らし、誰かが胸を撫で下ろす。
けれど、その空気の奥に――微かな“恐れ”があった。
それは、救いに対する拒絶ではなかった。
だが、人々の深層に染みついた、本能的な忌避。
理解できない力、理の外にある魔力に触れたとき、人はどうしても一歩、距離を置いてしまう。
ベルは、その感情に慣れていた。
どれほど人を救おうとも、その手に宿る力が“異端”であるならば、
人は簡単に背を向ける――たとえ、それが聖人でも、聖職者でも。
それでもベルは、黙ってエラヴィアの手を握り続けていた。
わずかに戻った体温。
確かに、命が再び流れ始めた証。
それを感じたそのとき――背後に、ひとつの鋭い視線が突き刺さる。
振り返らずとも、誰のものかは見当がついた。
それは殺意ではない。
ただ、冷たく、計測するような視線。
男がいた。
清廉な聖職者の装束をまといながら、口元にわずかな嗤いを浮かべている。
けれど、そこに聖なる気配はなかった。
「……神の祝福を受けし、異端の存在」
囁くような声が、確かにベルの耳へ届いた。
――黒き観測者。
世界の“理”に外れた存在を監視し、記録し、必要とあらば“排除”する者たち。
彼らは神でも人でもない。ただ、無慈悲な観測を続ける装置のような集団だった。
ベルが使った“祝福”が、彼にとっての“確証”となったのだ。
死神の遺した力。神話の時代に封じられたはずの魔法。
それを、今なお持ち歩いている存在――その存在理由そのものが、観測者にとっての「異常」であり、「危険」だった。
男は、人々のざわめきに紛れて姿を消した。
ベルは彼を追うことはなかった。今はエラヴィアのそばにいることを選んだ。
忍び込んだ影が彼一人とは限らない。
もともと紛れ込んでいたのか。
あるいは、この騒動に便乗して塔の中に侵入したのか。
それはわからない。
だが――彼女のそばに、“それ”が来てしまった。
大切な人を、自分の存在が危険に晒してしまったという自責が、ベルの胸に静かに降り積もっていく。
握った手のぬくもりは、確かにそこにあるというのに。
命の重みが戻ってきたというのに。
それでも彼女は、静かに目を伏せたまま、声を発さなかった。
ただ――次の波が近づいていることを、確かに感じていた。
その波が、誰を攫うのか。
何を奪い去るのか。
そのすべてを、彼女はまだ知らない。
けれど、備えねばならないと、強く思っていた。