第一章 プロローグ
※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
夜は燃えていた。
赤と黒の焰が空を焦がし、風に乗って火の粉が降りしきる。
裂ける柱、崩れる屋根、潰れた叫びが、町のいたるところで重なり合っていた。
人々は逃げていた。
家族を呼び、泣き叫び、手を取り合って路地を走る。
誰かが転び、誰かが引きずられ、誰かが誰かを突き飛ばす。
火と叫びと絶望の中で、それでもなお、必死に生きようとしていた。
その流れの中に、ひとりだけ逆らうように歩く者がいた。
少女だった。
焦げた衣をまとい、煤に汚れた頬。
熱風に吹かれながらも、歩みを止めることはない。
逃げる者たちは、その姿に目を止める。
そして、恐れを滲ませた眼差しを向ける。
「魔物を呼んだのは……あの子じゃないか」
「違う、あれはただの贄だったはずだ」
「もう関わるな、目を合わせるな!」
声が飛ぶ。誰も名を呼ばない。
昼間、笑顔を向けたその人々が、今は祟りを避けるように視線を逸らし、距離を取る。
――魔物討伐。それが依頼の名だった。
だが実際は、不吉の名を彼女に背負わせ、災厄の前に差し出す儀式。
人々はただ、自らの恐怖を少女ひとりに押し付けたのだった。
森に潜んでいた魔物は、少女と目を合わせた瞬間、悲鳴のような咆哮を上げた。
それは恐れにも似て、嘆きにも似ていた。
そして、牙の向く先を変えた。
逃げ出す代わりに、狂ったように街へと襲いかかっていった。
焼ける匂いが、肺を満たしていた。
喉が焼けつくように痛み、肌には熱が絡みついていた。
だが、心は不思議なほどに澄んでいた。
少女は思い出す。
――これと、よく似た光景。
誰かに囲まれ、見送られ、ただ差し出されるようにして立たされた記憶。
いつ、どこで、誰に。
すべては遠く朧だが、
あのときも同じだった。
恐怖と痛みと、孤独の中で、ただ黙って立っていた。
だが、今は違う。
あの魔物は、自分と目を合わせ、逃げ出した。
そして街を襲った。
だからこそ、彼女は歩く。
終わりを与えるために。
燃え落ちる広場を越えて、少女は進む。
誰も、彼女を止めない。誰も、近づこうとしない。
淡い紫の髪が、炎の風に幻のように揺れる。
その瞳に映る火の海には、もはや何ひとつ映ってはいなかった。
それは誰にも名を与えられず、
焰の祈りの中を、静かにただ歩いていく者だった。