第一話 少女の名前 後編
吸血鬼が、夜の闇の中を駆けている。今が夜で良かったと思いながら。
私は思うままに研究所を逃げ出した。なぜそうしたのかわからないから、私は今わかっていることを整理する。
もっといい名前がほしかったけれど、とりあえず私はシロ。本当の名前は『思い出せない』好きなものは『思い出せない』嫌いなものも『思い出せない』
こまった。なんにもわからない。
私は博士に拾われて、あの包帯女に適当な名前をつけられて、そして包帯の内側を見た。
見てはいけなかった。あれを見たとき、あそこにいてはいけないと思った。
あの女はどうしているだろうか。私を探しているのだろうか。
そんなことを思っていたとき、どこか遠くから音が聞こえた。
ドンドドンドドドドン。
ガラガラガラガガガガヒュウー。
爆発音。瓦礫が崩れる音。そしてそこを通り抜ける風の音。戦いの音だ。
私の予感はよく当たる。当たった記憶は『思い出せない』けど、何となくそう思っている。あの音を鳴らしたのは、きっとあの女だ。
なら、やらなければならないことがある。正直、すごくやりたくない。自分でもなぜかはわからない。何もかも『思い出せない』から。
私は踵を返して、音のした方へ向かった。
『封印解除』
『魔性の冷血』
全ての魔は封じられた力を持っている。
私の場合は「血を氷に変え、操る能力」。氷の翼を生やし、高く飛ぶ。
そして、私が逃げた理由に気付いた。この氷が、あの女の氷とよく似ていたからだ。
夜景を眺めている暇はない。そう思いながらも、思わず見てしまう。
夜の星も、街の光も等しく輝いている。赤い光も、青い光も、白い光も一面にある。私は星空に挟まれている。
このくらいのことで何を感動しているのだろう。きっと理由があるはずだが『思い出せない』
ビルの隙間に、星を隠す雲のような光が見えた。あそこだ。煙が消える前にあそこにたどり着かなければ。
速度を上げる。私の目の中で、星の光も街の光もいくつもの線になって通り過ぎていく。
光などない煙の中に突っ込むと同時に、煙は消えた。
包帯の女と小さな鬼、二人の姿が見えた。
包帯女は切られる寸前。人が死ぬ光景は、あまり見たくない。
これは、何故か分かる。うっすらとだが思い出せる。
目の前で死んだ大事な人のこと。それが誰だったのかは『思い出せない』。
何年前だったのかも、『思い出せない』。
あの人の姿は『思い出せない』が、その雰囲気は思い出せる。今にも折れそうなか細い人だった。でも、不思議とそれが弱さだとは思えなかった。あの人は強い人だった。
そんなあの人が、どうして死んだのかも覚えていない。
でも、死ぬ直前のあの感じは覚えている。弱さを見せなかったあの人が、ひどく弱々しく見えた。どんな形だったのかは『思い出せない』けど、とにかく死にたくなかったって顔をしていた。きっといくつもの後悔が頭をよぎっては消えていたのだと思う。そんな悲しい顔のまま、私に言葉を伝えようとしていた。
「生きて」
確か、要約すればそんな感じになることだったはず。あとは、私の名前を何度も繰り返していた。
そうだ、こんな事も言っていた。
「ねえ、『思い出せない』君は私より長く生きられるから、やりたいことを残さないで。後悔なんて、しないで」
きっと、みんな死ぬときは死にたくなかったって顔をする。あの人だけじゃない。そういう顔はいくつも覚えている。
「物思いにふけるのはやめにしよう。シロ」
声が聞こえた。昔のことを考えるといつも『思い出せない』が話しかけてくる。
「その名前はやめて」
私はそう言った。その名前はあまり好きではないし、なにより『思い出せない』に言われると違和感があった。
「わかったよ、『思い出せない』」
『思い出せない』は私の名前を言った。多分私の名前だ。どんな名前だったのかは知らないけど、『思い出せない』はいい名前だと言ってくれる。
「目を覚まして。君のやることがあるはずだ」
『思い出せない』の言葉とともに、私は目を覚ます。
今頭の中で流れていた時間が、現実の時間ではほんの一瞬であったことに私は驚いた。毎回こうなって、毎回驚いている気がする。
とにかく、私は包帯女を守らなければならない。私は鬼に向けて氷を放つ。鬼は後ろに跳んで氷をかわす。包帯女と鬼の間に入るように、私は着地した。
鬼は笑った。恍惚の表情だ。気持ち悪い。
素早く斬りかかる一撃。私の体は脳天から真っ二つ。だが、すぐに繋がった。血がなくなるまで、吸血鬼は再生できる。返り血まみれの鬼の体。その血を私は氷に変える。
鬼の体を作る氷は次第に広がり、鬼は自由に動けなくなっていく。腕はもう凍りついた。鬼は刀を振るうことはできない。
氷のかけらを何度もぶつける。このまま遠距離で圧倒すれば勝てる。
氷の刃で自らの手首を裂き、舞い散る血しぶきから熊ほどのサイズの巨大な氷を作り出した。これをぶつけてとどめとしよう。
私がその手を突き出すと、氷の塊は風を切り裂いて前へ進んでいく。それは鬼の体を包み隠し、そして、今ぶつかる。
そう思ったときだった。氷の塊に亀裂が入り、三つに砕けた。亀裂の中心から私に向けて刃が突っ込んでいく。鬼の刀の縄の先についていた刃が、私の腹に突き刺さった。
問題ない。
私は腹に刺さった刃を凍らせる。これで刃を引き抜くことはできないはず。
『再封印ッ!』
その言葉とともに、鬼の刀は消えた。
『封印解除ッ!』
また、刀を生成した。刀についた氷はきれいになくなっていた。
鬼の顔からは余裕が消えていた。笑っていないわけではない。でも、恍惚の笑いではない。勝ちたいというプライドと、強敵との戦いの楽しさを称える心の笑いだ。
鬼の体は凍りついていく。やがて全身が動かなくなる。だが、まだ鬼の口は動く。
『灰の祈り、仄かな香り。胸の炎は焦げつく痛み』
鬼が詠唱を始める。魔法が使えたのか。
そしてこの呪文はおそらく、炎の魔法『轟火』。発動されたら辺り一帯の氷は溶けてしまう。詠唱前に攻撃しようにも刀と縄で防がれる。
少し距離が遠いから凍らせにくいが、唱え終わる前に口まで凍らせきるしかない!
…‥何か他にも小さな音が聞こえる。
気のせいか。
『声を枯らせど届かない。涙も枯れては消せはしない』
氷は、鬼の首までかかっている。だが鬼は詠唱を止めない。
『明かりに阻まれ見えはしない。煙に包まれ見えはしない』
鬼の顎まで氷はとどいた。あと少し。あと少しだ!
『焦がせ』
鬼はニヤリと笑った。
『轟火』
間に合わなかった。青い炎が私に襲いかかる。あたりには熱風が吹き荒れ、ばらまいた氷は全て溶けていく。
とっさに手首を切り裂き、氷の壁を目の前に出した。壁は一瞬で溶けたが、青い炎も消えた。視界を包んだ湯気や煙が風に吹かれて消えたあと、辺り一帯の異常な高温も次第に落ち着き、私と鬼との戦いは振り出しに戻った。
そう、思ったときだ。
『掴め』
突然、後ろから声が聞こえた、
『銀鎖』
小さな声だ。さっきも聞こえていた。気のせいではなかった。包帯女の声だ。
包帯女は鬼の詠唱に被せて、気づかれないよう小さく詠唱していたのだ。
鎖が鬼の頭上から降りてきて、両手と首を締め付けた。鬼の体は浮き、首を吊られる。
鬼が声を挙げた。声にならない声だった。
初めて鬼が苦しい声を上げた。ジタバタともがいている。もがくたびに鎖は首に食い込む。
「あなたは……私を忘れていた、だから、あなたの負け……」
包帯女が、そう言いながら倒れた。魔力切れだろう。
縄についた刃物を使い、鬼は鎖を断ち切る。鬼は一瞬地上に倒れこんでから、すぐに立ち上がり前を見つめる。私は鬼の目の前まで距離を詰めた。
目の前で、自らの手首を切る。大量の返り血が鬼にかかり、すぐにそれは氷になっていく。距離が近いから、変化するのも早い。氷はあっと言う間に鬼を包んだ。
「ああ…」
顎まで氷がかかったとき、鬼は口を開いた。笑っていた。これは戦いを楽しむ笑いではない。称賛の笑いだ。こんなことで褒められても、私は少しも嬉しくない。
「いい戦いだった」
そういってすぐ、鬼の全身は凍りついた。凍りつく直前だけは、鬼は笑っていなかった。我に返って寂しそうな顔をしていた。
私は包帯女の肩を叩いて起こした。包帯女が目を覚ます。思ったより元気そうで良かった。
「ねえ、あれ殺さなくていいの?」
目覚めてすぐ、氷漬けの鬼を見ながら包帯女は言った。物騒だ。私はできるだけ殺したくない。きっと、みんな死にたくないだろうから。
「放っておけば勝手に帰る」
私は彼女の方を見ないでそう言った。できる限り冷たい声になるように。疑問を持たれないように言った。だってこういう殺し合いを当然だと思っているだろうから、私が殺したくないことを知ったら疑問に思うはずだ。それは、少し面倒くさい。
「……殺したくないんだ」
包帯女は言った。気づかれた。だが、彼女はそれ以上の追求をしなかった。
「優しいんだね」
少し間を空けて、包帯女は言った。私は優しくなんてない。ただ怖いだけだ。死にたくないときの顔を見るのが。
「あなたを呪ったのは、多分私」
私は言った。証拠はないけど確信がある。私の血の氷と包帯女の包帯の下、それらはきっと同じものだ。私は、だから逃げ出した。私はこの人に何をしたのだろう。とにかく、この人を苦しめていることは確かだ。
「やっぱり、そうだったんだ」
思いのほか包帯女はあっさり受け容れた。
「気づいていたんだ」
私がそう言うと、包帯女は小さく頷いた。
「あなたは、私を恨む?」
恨むはずだ。絶対そうだ。私は、だから逃げたんだから。
「恨まないよ」
なんで?私の戸惑った顔を見て、包帯女も戸惑った顔をした。
「私だって、わからないから。記憶がないんだ。気づいたら博士のところにいた」
包帯女は告げる。言葉が頭に入ってこない。恨まないはずがない。だって彼女は私に体を見せるとき、沈んだ顔をしていたから。お風呂にも入れない。もしかしたら、雨に濡れることすらできないかもしれない。それに……
「『轟火』、大丈夫だったの?」
私は聞いた。聞くのが怖い。でも、聞いた。そして、初めて彼女の方を振り向いた。
「こんなかんじ」
私は見た。彼女の右腕が融けてなくなっているのを。怖かった。腕の付け根からは水が滴り落ち、包帯は巻くものを無くしてひらひら舞っていた。怖かった。こんな体になってもなお、恨んでないとすまし顔で言うこの人が。
「嘘だよ。恨んでるはずだ」
そう言いながら私はナイフを首に刺した。
私の傷口から血が溢れる。これでいい。私が死ねば、呪いはとける。あなたは助かる。私は誰も傷つけたくない。体が再生するたびに、何度もまた傷つけていく。
「やめて」
包帯女が止めようとする。なんで止めるの?私にはわからない。あなたはこれで助かるのに。
足下に飛び散った血を凍らせて、包帯女を動けなくした。
「これでいいの」
そう言って私は、何度も何度も自分を傷つけた。私は大丈夫。痛いのは怖くない。死ぬのは少しだけ怖いけれど。
『素っ首掴むは鉄の蔦。喘ぐ呼吸でも命は動かぬ』
包帯女が詠唱を始めた。魔法で止めるつもりだろう。でも、詠唱が終わるより早く私は死ねる。血を集めて、空に巨大な氷を掲げた。これで体を押しつぶす。原型がなくなるくらい体がグチャグチャになれば、私は死ねる。
そうだ。死ねる。氷は空中にとどまっている。これを落とすだけで、私は死ねる。
「それでいいの?」
包帯女が言った。
「これで良いんだ」
私は答えた。
「なら……」
包帯女は手を差し出す。真剣な声で、傷ついた声で、何かを恐れた声で、私に告げる。
「そんな顔、するはずないよ」
私は、差し出された手を掴んでしまった。図星をつかれた。助けてほしいと願ってしまった。言葉にされて初めてわかった。こんなこと、したくない。
「でも、これで良いんだ」
私は氷を落とした。これでいい。怖くて、少し涙も出るけど、これで傷つけなくて良くなる。だから、これでいい。
「シロっ!」
包帯女は、私の手を引いた。氷は止まることなく落ちていく。私の体を無慈悲に押しつぶす。だけど、これじゃだめだ。引かれた右腕だけ、押しつぶされずに残ってしまう。
氷のつくる透明な影が私の体を包みこんだとき、私の視界も真っ暗になった。私は右腕を残したまま死んだ。
「……」
気づけば夢の中にいた。あの人が死んだ時の夢。
「やりたいことを残さないで。後悔なんてしないで……」
何度も頭に響くうろ覚えの声が、今にも消えてしまいそうな声が聞こえる。目を背けたくなる。
あの人は、きっと後悔している。きっと、だから私にそう言った。私が同じように苦しまなくて良いように、こう言ったんだと思う。この顔を見るたびに私の胸は苦しくなる。
私は人が苦しそうな顔を見たくない。
「君が苦しむのは、いいの?」
『思い出せない』が話しかけてきた。
「いいんだ」
私は口で言葉を言った。でも、心の底からは言えなかった。声に出してみて、私は嘘をついたのだと気づいた。
「本当に、君がやりたいことをやろうとしたの?」
『思い出せない』の言葉が頭の中に響く。うるさい。やめてくれ。そう繰り返しても、『思い出せない』はやめてくれない。これが後悔という感覚なのか。
「私のことを、知ったような口で言わないでよ」
あなたなんかに、そんな事言われる筋合いはない。そう言おうとしたが、言えなかった。だってこの人は、きっと大切な人だろうから。
「あなたは誰なの」
私がそう言うと、『思い出せない』は優しく笑った。
「それは、君が思い出すんだ」
いつもそうだ『思い出せない』は何も教えてくれない。でもわかったことがある。私はこの人が誰なのか知りたい。ずっと前から、知りたかった。
「君がやりたいことをするんだ。道は、それしかないのだから」
『思い出せない』が言っていることはいつもはよくわからないけど、今日だけは少し鮮明に聞こえる。彼が近づいている気がする。彼のことが少し思い出せそうだ。
「彼」そうだ、『思い出せない』は、男だ。私は少しだけ思い出した。
「思い出したいなら、強く生きるんだ。目を覚まして」
『思い出せない』の言葉とともに、私は目を覚ます。生きている。再生に成功した。
目の前には包帯女がいた。彼女の融けた右腕は元通りになっていた。私は研究室のベッドで眠っていた。肩に針が刺さる感覚がある。輸血が行われていた。この研究所に生き血はないと聞いたから、どこかからもらってきたのだろう。
「良かった」
包帯女が言った。
「大丈夫そう?」
包帯女にそう言われたので、体を動かしてみる。動きに違和感はない。ちゃんと再生できている。包帯女はりんごを剥きながら、別の話を始めた。
「さっきも言ったけど、私もね、昔の記憶がないんだ。私は思い出したい。私がどんな人なのか、なんで呪われているのかを」
包帯女はなれた手つきでりんごを切って、それをベッドテーブルに乗せた。なかなか美味しそうだ。
「君はどうかな。昔のこと、思い出したい?」
フォークでりんごを刺したとき、包帯女が私に手を差し伸べた。
りんごは見た目通り甘くてみずみずしくておいしい。私は口の中に入れたりんごをしっかり噛んで飲み込んだ。
そして、包帯女の問いに答えた。
「思い出したいよ、全部」
私は包帯女の手を握る。
冷たい手だ。私はこの女のことがよくわからない。名前も覚えてない。いちど言っていたはずなのに。
「あなたの名前は……」
私がそう言うと、特に驚きもせず微笑んで包帯女は答えた。
「氷宮涼歌、よろしくね。えっと……」
私の名前を言おうとして、つまずいている。きっと私が名前に納得していなかったことが、ばれていたのだろう。
「シロでいい」
私がそう言うと、涼歌は少し笑った。