第一話 少女の名前 前編
博士に頼まれたお使いを終えてから研究所に戻ると、少女が眠っていた。
私は驚いて、博士の方を一度ちらりと見た後、少女をじっくり観察した。
少女は白い顔をしている。髪も白く、そして長い。腰まで伸びるツインテールだ。
魔術師風の白いフード付きのローブをつけている。手も足もそれで隠れていて顔以外の肌が見えない。
きっと、顔や服と同じように白いのだろう。フードには猫の耳のような飾りがついていた。雪のように神秘的に見えた姿とは裏腹に、意外と可愛らしい趣味だ。
見かけの年齢は10歳ほどだが。本当は何歳なのだろうか。私よりずっと長く生きているのかもしれない。
血管をなぞるように魔力が通っている。彼女は吸血鬼だ。
「今日から君は、この子と暮らしてもらう」
博士は淡々とそういった。
「君なら見てわかるだろうが、吸血鬼だ。そのへんで倒れていたところを保護した」
「保護?なんのために?」
私がそう言うと博士は少し悩んだような素振りをして、そしてすぐに呆れたように口を開いた。
「ほっとけないだろ」
「それもそうか。でも……大丈夫なの?」
「紋章はない。だから魔界の住人ではない」
「それってありえるの?」
「君が気にすることではない」
「……なにか知ってるんだ」
「ああ」
それならいいか、と私は思った。
博士がなにか知っていて、それでここで世話をするというのなら、きっとこの子は危険ではない。だから何も気にすることはない。
博士はいつも詳しいことは教えてくれない。だけどそれは私が知る必要がないからであって、それなら知らなくてもいいかと私は思う。本当は少し気になるけれど。
「ん‥‥」
少女が目を開けた。
銀色の目だ。ガラス細工のような透き通った銀色だ。きれいなのに、少し髪がかかっていてもったいないと思った。いや、少し隠れているからこそきれいなのかもしれない。
「誰?」
少女は聞いた。
「氷宮涼歌、16歳。よろしくね」
「よろしく」
少女はそれだけいうと、また目を閉じようとした。
「ねえ、寝ないで」
「何?」
「あなたの名前は?」
「さあ」
少女は変な返答をした。ふざけているようには見えない。
「わからないの?」
「うん」
困った。なんと呼べばいいのか。
とりあえず適当に思いついたことを言ってみる。
「じゃあ、髪が白いから君はシロ」
言ったあと、昔飼っていた犬の名前と同じであることに気づいた。まあいいか。
「そう」
すこし暗い顔をした。そんなふうに見えた。
でも私は少しそういうものが人より見えすぎるからこそ、見えたものを気にしすぎないほうがいい。だから私はその顔を気にせず話題を変えた。
「部屋まで案内するね」
「うん」
私はシロを連れて歩いた。
「ここが私と君の部屋」
ドアを開けると、普通のベッドだったはずの部屋のベッドが二段ベッドになっていた。
博士のおかげだ。仕事が早い。
「私の部屋でもあるから、散らかさないでね」
「うん」
「じゃあ私ご飯作るから、待ってて」
「うん」
シロを部屋に残して私は台所へ向かった。そして、向かったあとに思った。
生き血が必要なのでは?そう私は思った。
「博士、生き血ってある?」
台所から博士に聞いてみる。
「あるわけがない」
博士の返答は単純だった。
「別に吸血鬼は血だけを食事とするわけではない。普通の食事も食べる。生き血を吸わないと魔力が弱まるから週に一回は必要だがある程度は鉄分で補える」
「じゃあ、レバニラ炒めでも作ろうか」
「レバーは苦手だ。血なまぐさい」
「そのほうがいいでしょ。あの子は吸血鬼なんだから」
「ああ、それもそうだな」
そう言いながら、私は食事を作った。
「……苦手。血なまぐさい」
レバーを食べてシロは言った。私はレバー好きなのにな……
「吸血鬼だから大丈夫だと思ったのに」
私が言うと、シロはムッとして答えた。
「偏見。そもそも血だって好きで吸ってるわけじゃない。吸わないと弱くなっちゃうだけ……まあ、血よりはこの方が美味しい」
「そっか、じゃあ好きな食べ物はなに?」
「さあ」
「そっか」
掴み所がない。話が続かない。
自分のことを教えようとしてくれない。というより、本当に知らないのだろう。シロは自分のことを何も知らない。
「ごちそうさま。ありがとう」
そう言って、シロは食器を片付け机を拭いて自分の部屋へ戻っていった。
きっと悪い子ではない。打ち解けようとしているわけではないけど遠ざけようとしているわけでもない。
きっと仲良くなれる。私はそう思った。
「お風呂が沸くまで、ちょっと遊ぼう」
そう言って、私は部屋にあるボードゲームを全部持ってきた。
「どれがいい?」
私がそう言うと、シロはすべてのボードゲームの説明書を読んで確認し、そうしている間にお風呂が沸いた。
「先入ってて」
シロは説明書に目を通すのをやめずにそう言った。
「私、お風呂入れないんだ。包帯の力が弱くなっちゃう」
私の体は顔以外すべて包帯で覆われている。ただの包帯ではない。魔法の包帯だ。
私の体は呪われていて、この包帯が弱まると溶けてしまう。
「その包帯の下って、どうなってるの?」
シロが聞いた。
「これはね……」
私は右手の包帯をほどいた。私の体は氷だ。顔以外のすべてが氷に置き換わっている。
私の手に電球の光が透ける。この体は嫌いだけど、きれいだとも度々思う。
「先、お風呂入ってるね」
シロの声に、目に、眉の動きに、不穏な素振りが見えた。
これはきっと、無視してはいけない。
シロが部屋を出た。
私も少し時間を空けた後部屋を出た。
階段を駆け下りて風呂場の扉を開ける。そこにシロはいた。ボディーソープで体を洗っていた。
よかった。そう思いながらシロを見つめる。
私は見とれていた。想像通り白い肌。柔らかそうな細い腕。腰まで下ろした長い髪が、そよ風の中の花畑のように揺れる。
銀の瞳は少し驚いて丸くなっていた。すぐに恥ずかしそうに目を背ける。
頬がほのかに赤く染まる。その赤色は白い肌によく映える。
小さな体は強く抱きしめれば折れてしまいそうなほど脆そうで、だからこそ、水晶のようにきれいに見えた。
「何……?」
腕で胸を隠しながら、シロは言った。少し怒っている。
「……ごめん、忘れて」
そう言って、私は立ち去った。
後ろを向く直前、また一瞬見えた。あの不穏な空気、俯く少女の姿、陰のかかる銀の瞳。
とりあえず、部屋まで戻る。少し怖い。無視できない。
でも、この部屋に戻ってくると信じたい。
シロがお風呂に入っている間、私は体に清めの魔法をかけた。
『雨と降る灰。心の穢れに』
『風と来る灰。身体の穢れに』
『浄化』
蒼い光が私を包む。私の穢れが祓われていく。
光が散って、こんどは胸のあたりに収縮する。心の穢れも祓われていくはずなのに、不安は消えない。
40分待ったが、シロは戻ってこない。
階段を下り、風呂場の扉を開ける。
居ない。誰もいない。研究所中を探索するが、シロは見当たらない。
倉庫の中に博士がいた。
「博士、シロ知らない?」
そう聞くと博士は驚いた。
「まさか、抜けだしたのか?」
「うん……捜索の魔法を使う。一旦部屋に戻るね」
私はシロが必死に読んでいた説明書を集め、魔法を使う。
『風を示して道標。その機を示して砂時計』
『犬を従えその地を巡る。その血を嗅いでその道を行く』
『大地の裏まで逃がしはしない。星を追うなら天の果てまで』
『魔力辿り』
魔力が付着した物質をもとに魔力を辿る術。魔力の痕跡が床に見える。
だが、痕跡は薄い。最後に触れたときから時間が経ちすぎている。
それでも、僅かな魔力を辿って研究所の外に出た。
もう痕跡は殆ど見えない。右の瞳に魔力を込める。私は生まれつき右の瞳がよく見える。
痕跡をたどり走る。ひどく体が疲れている。
何かもう一つ気配がする。
後ろだ。
私は振り向いた。
目の前に飛び降りる影。土埃の中から鬼が現れる。
「私はミクルアンテ・ノヴァ」
鬼は少女の姿をしていた。体はシロよりも一回り小さい。額のまんなかの一本の角が、金色の髪をかき分けてる。
体育着を着ていた。地上で動きやすい服を調達したということだろうが、そのせいで小学生のようにしか見えない。
だが侮ってはならない。目の前にいるのは確かに鬼なのだから。
「お前を殺しにきた」
鬼は端的に目的を告げる。楽しそうな目をしている。鬼は、闘いを好む生き物だ。
突然向けられた殺意に、驚きはない。シロと出会った日からそんな雰囲気は感じていた。
私は何か厄介ごとに巻き込まれている。
闘うしかない。鬼は私を見つめながら、私の攻撃を待っている。
慢心と好奇心と無邪気な遊び心が、鬼の目から滲んでいる。
『彼方の響き、空に一突き。夜の星より美しき』
私の詠唱を鬼は楽しみに聞いている。
構わない。詠唱を続ける
『鼓動と振動。答えは心臓』
『悲しみよりも先にある』
鬼は拳を構えた。やはり、笑いながら。
『彩れ』
『連鎖爆雷』
鬼は爆風に包まれていく。笑う顔は煙に隠れていく。
私は息を切らしていた。膝に手を当てて、大地に向かって数回呼吸をして、また前を見る。
爆風が止み、それを示すようにそよ風が吹いた。煙はそよ風に流されていった。
鬼はそこに立っていた。
「すごい……やるじゃん」
鬼はそう言った。頬を赤らめて笑いながら。
鬼は私に一歩づつ近づく。効いていないわけではない。ぼろぼろになった服の隙間にいくらか火傷の跡が見える。だが、鬼は苦しんでいない。
むしろ笑っている。余裕がある。それは私が彼女に認められるほど強かった証拠であり、そして彼女に余裕を持たれるほど弱かった証拠だ。
『封印解除』
『魔導一文字』
鬼が呟く。その手から刀が生成される。
刃渡りは彼女の背より少し長い。だが彼女は軽々と振り回す。見せつけるように刀をくるくる回してから刀を縦に構えた。
刀の鍔に結ばれた細い縄の先にはサバイバルナイフほどの小さな刃がついており、意思を持っているかのようにふわふわと浮いていた。
鬼が刀を振り上げる。その目は名残惜しそうに私を見下ろす。
彼女が本当に見下ろしていたわけではない。私のほうが背が高い。でも、見下ろされているように感じた。
私は負けて死ぬんだ。そう思った。
勢いよく刀が振り下ろされる。私は目がいいからその軌跡が明確に見える。痛みで少し動きが緩んだのも、確かに見えた。
だが、避けられない。いくら目が良くても、体は普通の女の子なのだから。だから私は、自分が死ぬのを人よりじっくり見ることになる。
少し嫌だな。
思えば、つまらない人生だった。なんて、少し強がってみる。
死にたくないなあ……