散歩
わたし、片桐亜美は、田園風景の中心で途方に暮れています。本来であれば、わたしは今頃、仲の良い友人と一緒に甘味やショッピング、観光を楽しんでいるはずでした。
自分で言うのも何ですが、わたしが立てた日帰りの小旅行の計画は完璧だったと思います。電車の時刻表を確認して、きちんと時間に余裕を持ったスケジュールを組みましたし、早く着いたときの現地での時間の潰し方にも抜かりはありませんでした。
しかし、こういうときに限って、楽しみで夜も眠れないのは、わたしの悪い癖でした。結局一睡もせず、張り切って始発電車に乗ったは良いものの、車内で力尽き、ついうたた寝をしてしまいました。
「お客さん、終点ですよ」
車掌さんに肩を揺さぶられて起こされ、やっと目が覚めました。お恥ずかしながら、こうした経緯で目的地の駅を乗り過ごしたことは、今回が初めてではありません。
わたしが寝ぼけ眼で車窓から外を覗くと、なにやら見知らぬ駅に停車していました。看板はひどく汚れ、擦れており、駅の名は読めません。けっして、難しい漢字が読めない訳ではありません。
駅の構外には長閑な田園風景が広がっておりました。いかにも秘境と呼ぶに相応しい、緑の多い土地でした。山間部には古い寺社や城跡も見られます。
「……早う、降りて下さい」
「ああ、はい……すみません」
無愛想な車掌さんに促されるように下車すると、農村特有の、むせ返るような草木の匂いがしました。意識が十分に戻ってきたのはこの辺りでした。
「……あっ」
駅のホームで数秒ほどぼーっとしていると、まるで逃げるように、電車が行ってしまいました。
「あの、すみません。次の電車はいつ来ますか?」
わたしは慌てて駅員さんを捕まえて尋ねました。
「ああ、見ての通り糞田舎なもんでねえ、次は昼頃まで来ないんですわ」
「そんなあ」
わたしは肩を落として、改めて時刻表を確認しました。駅員さんの言うとおり、一日に数本しか来ないような僻地に、知らず知らずのうちに来てしまったようです。
しょうがないので、一旦ホームまで引き返してベンチに座り、スマートフォンにインストールしたゲームアプリを起動して、時間を潰すことにしました。しかし、長らく苦戦していたボス、冷気のブレスを吐くワイバーンを倒したところで時計を見ると、意外と時間が経っていないことに気付きました。こういうゲームアプリは電池の消耗が激しいですし、バッテリー残量に余裕がある訳でもありませんから、早くもゲームで時間を潰すことに限界を感じています。
わたしが今後どうするか決めかねていると、威勢の良い女性の声が聞こえました。
「駅弁はいかがですか? 地元でとれた食材を使った、出来たてのお弁当ですよ」
電車の少ない駅でありながら、ホームで駅弁を売っている若いお姉さんが居ることに驚きます。採算はとれるのでしょうか?
再度腕時計を確認すると、時刻は九時を回った頃。まだ昼食には早く、お腹もあまり空いていません。
「若い方が来るのは珍しいですね」
「うたた寝してたら乗り過ごしてしまって。不慮の事故です」
「それは大変でしょう。次の電車まで長いですからね。時間を潰すあては?」
「残念ながら……」
「もし懐に余裕があるようでしたら、駅の周辺を散策してみては? こんな僻地ですから、乗り越し料金は高くつくかもしれませんが」
「なるほど。いい考えかもしれません」
わたしは財布の中身を確認しました。予算的にはかなりの余裕があります。
せっかくなので、ここは前向きに考え、お姉さんの提案に乗ってこの駅の周辺を見て回ることにしました。乗り越し料金はかなり高くつきましたが、駅のホームで何もせず無駄に時間を潰すよりかは、いくらか建設的だと言えましょう。
「そうすることにします。昼頃には戻るつもりですが、それまでやっていますか?」
「はい、お待ちしておりますよ。売り切れてしまうかもしれませんが」
お姉さんはそうおっしゃっていますが、見たところ、わたし以外に人は居ないので、そうなることはまず無いでしょう。
「それと、おやつに抹茶クッキーもいかがですか?」
「いいですね。これも地元の小麦やバターで作ったのですか?」
「はい。こちらも自慢の逸品ですよ」
「なるほど。では、弁当を買うときに一緒に」
わたしはそう約束して、駅の改札を潜りました。その途中、先ほど道を尋ねた駅員さんに声をかけられました。
「お姉さん、よく見たら変わった格好しとるね。都会ではそういうのが流行りなのかい」
「うーん、流行りからは大分遠いですね」
実際、同じクラスの女の子でわたしと同じような服を着てる子は居ません。ワイシャツとベスト、その上からコート、それにマフラー。下はスカートではなくズボン。これらは結構長い間着古していることもあって、相応にくたびれていますが、防寒や運動性といった機能は維持しており、未だにお気に入りの服です。
また、暴漢対策とアクセントも兼ねてステッキも持ち歩いています。
「そもそもファッションの本質とは、個性の主張です。己を捨ててまで流行を追うことに、何の意味がありましょうか」
わたしはこのように説明しましたが、事実はこうです。元々「まるで近所の爺さんみたいだ。新しい服を買え」と友人に言われたので、その友人がするような女の子らしい服を着たことがあるのですが、そうしたら今度は「お前には似合わない」と馬鹿にされたので、わたしもムキになって、当面はこの格好で通すことになった次第なのです。
「……」
とはいえ、きっと駅員さんには変な人だと思われたことでしょう。そういう扱いには慣れています。だから友達が少ないんですけどね。
改札から出てすぐのところに、観光案内のパンフレットが備え付けてありました。期待通り、大まかな周辺の地図もあったので、これを参考に、大体三時間程度で回れるコースを歩くことにしました。流石に山の方の神社やお寺、城跡等を見るほどの余裕はありませんが、気晴らしの散歩をしながらお土産を物色するには十分な時間を見積れました。
構外に一歩踏み出しましたが、これがまた、車窓から見えた綺麗な景色に反して、見ていてげんなりする光景が広がっていました。大きなターミナル駅の周辺には、しばしば浮浪者が屯していますが、数といい、各々の風体といい、それより深刻な状況が見てとれます。
目の前の惨状は、つい先日の世界史の授業で教わった、阿片戦争を思い起こさせます。教科書の挿絵には、当時の阿片窟の様子が描かれたものがあり、駅前の光景はまさにそれを思わせるものでした。よもや彼らが阿片をやっているとは思えませんが、皆一様に生気のない目をして、虚空を見つめる様は、彼らの過去と未来を悟らせるには十分なものでした。
昔から、君子危うきに近寄らずといいます。年若く未熟な身の上ですから、よもや君子を自称する気は毛頭ありませんが、たとえ君子でなくとも、厄介事の気配を察知するには十分な光景と言えましょう。わたしは早々に駅前の広場から離れることにしました。
わたしが駅から離れ、遠方に見える牧場の方へと足を運ぶと、後方から一台のゴミ収集車が通り過ぎていくのが見えました。赤い車体が印象的です。ただ、かなり機能的に古いのか、わたしの横を通り過ぎた瞬間、鉄っぽい悪臭が漏れているのを嗅ぎとりました。少なくとも、わたしの地元で見かけるような収集車と比べた場合、明らかにひどい臭いです。
また、途中には「ヘンリーローズ」というショッピングモールもあり、電車が数時間に一度しか来ないような田舎にあっては、いささか不釣り合いな景観と言えました。とはいえ、恐らくはこの町の人々の生活と密接な関わりのある場所なのでしょう。遠方からでも、建物の周辺に多くの人が集まっているのが見てとれます。
図らずもある種の秘境にやってきたのですから、わざわざ地元にもあるようなショッピングモールに立ち寄る選択肢は、現時点ではありません。
結構賑わっているようで、ショッピングモールに向かう地元の人とも何度かすれ違いました。
「こんにちは!」
「……」
しかし、わたしの挨拶にも返事をしてくれません。振り返りはするので、気付いていないということはないのでしょうが、どうも反応が鈍くていけません。
彼らは皆一様に、やつれた顔つきで、肌は土気色、目はまるで死んだ魚のよう。服装こそ浮浪者めいてはいませんでしたが、臭いもひどく、ある種の発酵食品にも似た強烈な悪臭を身にまとっています。こうした様子から、彼らが抱える健康面での問題が大まかに見てとれます。ある種の風土病でしょうか?
ともあれ、そういう人が、酔漢のように足取りもおぼつかない感じで、わたしにもたれかかって来ようとするのを――酷いときには、抱きついてくるのを――寸でのところでかわしました。このようなことが、当初の目的地であった牧場にたどり着くまでに何度もありました。
まだ来て一時間にもならないうちにこれでは、駅の構内でスマートフォンを相手に暇を潰した方が、幾らか良かったかもしれません。ちょっと後悔しています。
やっとのことで牧場にまでたどり着くと、今度は身なりのよい老紳士とすれ違いました。白以外の色がほとんど見られない髪、顔に深く刻まれた皺から、相当な老齢であることが確かな一方、背筋はすっと伸びて姿勢は良く、目には鋭気がみなぎっており、まだまだ壮健であられる様子が伺えます。顔の作りから察するに、外国から来られた方のようです。わたしと同じくステッキを持ち歩いていますが、歩行の補助のために必要としている訳ではなさそうという点でも、わたしと同じでした。
「こんにちは」
「こんにちは、お嬢さん。こんなところで若い方に会うとは珍しいですね」
「ええ。ちょっと電車を乗り過ごしてしまって、昼頃まで時間を潰そうかと」
「それは災難でしたね」
ようやく話がまともに通じる相手が現れたことに、わたしは安堵しました。
「そう言うおじさまは、どういった用事で?」
「ああ、ここの農場主に用事があって。家畜の売買の交渉に来たのです」
牧場をざっと見渡してみると、牛や豚、鶏といったありふれた家畜の姿は見られませんでした。きっと、牧舎の中に居るのでしょう。代わりに、恐らく農場主の家族の子女と思わしき少年少女が、楽しそうに駆け回っておりました。
「こういう牧場だと、搾りたての牛乳なんかを出してくれたりしますし、それを目当てにここまで来たのですが……おじさまのお仕事の話の邪魔をするのも何ですから、わたしはこれで失礼します」
わたしが別れの挨拶を述べると、ふと珍しいものが目に入ってきます。
「……」
「どうかされましたか? 顔が赤いですよ」
「いえ……男の子の裸とか、直接見るのは初めてなもので」
「それはまあ」
そうなのです。牧場を駆け回っている子供たちは、男の子も、女の子も、皆一様に一糸纏わぬ姿でした。
わたしも昔はおてんばで鳴らしましたし、男の子に交じって遊ぶことも少なくはなかったのですが、裸を見たはことありませんし、ましてや男の子の前で裸になったこともありません。
「これも田舎の開放的な空気ってやつでしょうか?」
「恐らく……そうですな」
お爺さんが一瞬言い淀んだので、わたしが言う田舎特有の風土とは別の何かがあるのかもしれません。
「最近はこの辺りも物騒です。特にショッピングモールの周りは、たちの悪い連中が屯しているとお聞きします。お気をつけて」
たちの悪い連中と聞き、思い当たる節は多々ありました。変な臭いのする、目が虚ろで、やつれた顔つきの人々。なるほど、単なる不良とは一味も二味も違った、たちの悪い人たちに相違ありません。
「お気遣い、ありがとうございます。さようなら」
わたしは老紳士に別れの挨拶を告げ、その場を後にしました。
次にやってきたのは教会ですが、これも一度見たら忘れられない景観で、先程の牧場のように、撮るのがはばかられる被写体もありませんでしたから、思わず一枚撮ってしまいました。
まず、庭には見たことのない種類の木々が植えられています。葉のない黒い庭木は、風もないのに、まるでそれ自体が意思を持つかのように、ゆらゆらと揺れています。蠢いていると言った方が正しいかもしれません。
それから、何頭かの黒山羊。きっと良い餌を貰っているのでしょう、大体ヘラジカくらいの大きさまですくすくと育っており、近くで見るとなかなか迫力があります。思わずお辞儀をすると、奈良公園の鹿がそうするように、向こうもお辞儀を返しました。
「やや、これはご丁寧にどうも」
体高すらわたしが見上げるほどですから、わたしも迫力に圧され、重ねてお辞儀を返しました。最近の山羊は礼儀正しくて感心します。専門の農家ではないはずなのですが、何か特別なノウハウをお持ちなのかもしれません。
あとは番犬でしょうか、異様に痩せ細った大型犬が、赤く爛々と光る目でこちらの様子を伺っています。近所の悪童やこそ泥の類も、これには肝を冷やし、おいそれとは近寄らないことでしょう。
建物自体は間違いなく教会で、本来神聖な場所であるはずが、周辺をとりまく環境のせいで、どこか禍々しい雰囲気に包まれています。特に庭木の異常な動きと来たら、写真だけでは伝わりづらいと思いましたので、動画でも撮りました。
建物の中に入ると、まずは見事な聖母像と、古い聖母子の絵画が目を引きます。像も、絵も、マリア様の肌を黒く描いているのが印象的でした。
ステッキで床を軽く叩きながら歩くと、どうやら床下に何か広いスペースがあることがわかりました。地下室があるらしく、よく耳を澄ましてみると、微かに人の声らしきものも聞こえます。わたしは少し興味を持って立ち止まり、少し強めに床を叩きました
「入ってます」
「あっはい、すみません」
どうやら床下に何か居るようです。まるで忍者屋敷です。探検してみても面白そうですが、生憎、スケジュールが押していますから、今日のところは勘弁してやることにします。
また、聖堂の脇に懺悔室が設けられているのも見えます。先客が居るようで、中から何やら声が聞こえます。
「……どうかわたくしの罪をお聞き下さい。わたくしは映画監督をしております。未開の土地の闇を暴くとうそぶきながら、下劣な好奇心を刺激する為だけの映画を撮ってきました。ですがスポンサーがこうおっしゃるのです。より刺激の強い、血の滴るような本物を撮れと。わたくしはこれから、これまで以上に罪深い行いをしようとしています……」
プライバシーの問題もありますから、こういう個室は防音設備に気を使うのが筋というものですが、生憎、わたしは誰よりも地獄耳なのです。懺悔の内容は、余すところなく聞いてしまいました。
懺悔室からは、背の高い男性が出てきました。見たところ外国の方で、俳優顔負けのハンサムな顔立ちの紳士でした。
彼はわたしのことをまじまじと見つめています。
「……どうされましたか?」
「失礼、申し遅れました。わたくし、こういう者でして」
受け取った名刺に書かれた名前から、イタリアの方だとわかりました。
「映画監督?」
「はい。映画に出演してみませんか?」
渋谷や原宿等の繁華街では、アイドルをスカウトしている方がいらっしゃるとは聞きますが、こういう田舎では珍しいことでしょう。
たとえ相応しい場所であっても、こういうスカウトに無防備に応じるのは考え物です。なので、わたしは牽制の意味と、実際にわたしが応じるべきか案件かを確認することを踏まえて、一つお尋ねしました。
「確認しますが、その映画に忍者は出ますか?」
「え? ええと……忍者が出る予定はありません」
「そうですか。それはいけない。残念ですが、この話は無かったことに」
キャスティングにおいてもっとも重要なことは、その人物が演じる必然性です。わたしが敢えて銀幕デビューするべき理由があるとすれば、映画を通じて忍者について啓蒙すること、これに尽きます。よって、忍者が出ないのでは話になりません。そもそも普通の映画であれば、わたしより見栄えの良い子なんていくらでも居るでしょうから。
「お嬢さん、忍者に何かこだわりがおありで?」
「それはもう。恥ずかしながら、わたしも小学生の頃はおてんばで鳴らしたものでして、近所の男の子と一緒に忍者ごっこに興じていたんですよ。別々の学校に進学したことや、お互いの忍者観の相違もあって、今は疎遠ですけど」
「忍者観の相違?」
「はい。多くの人は忍者を不思議な技術を持ったエージェントくらいにしか考えていませんし、わたしの友人もそうでしたが、事実は違います。本当の忍者とは、世界を裏から操る暗黒の力の使いなのですよ。ご存じでしたか?」
「か、変わったお嬢さんだ。お美しいのはもちろんのこと、個性的でもある。これはお世辞でもなく、女優に向いていると思いますよ。なので、是非にと思ったのですが」
「お褒めにあずかり光栄です。とはいえ、進学を控えた年ですし、多分、両親の許可もとれないかと。忍者も出ないみたいですし。ご期待に添えず申し訳ありません」
「……失礼ですが、おいくつですか?」
元来、レディに歳を尋ねるのはエチケットに反する行いですが、わたしの場合、見た目と実年齢がいささか乖離していると専らの評判ですから、こうして歳を聞かれることはよくあります。
「十四歳です」
「それはまあ……お若い」
これまでもそうだったように、やはり驚いたような顔をされました。
そうでしょう、そうでしょう。わたしの身長は一七二センチもあり、同年代の子と比べて、いささか高すぎるきらいにありますから、年相応に見られることが滅多に無いのは、まあ仕方のないところであります。なにしろ、この町に来てから、何度も『お姉さん』なんて呼ばれたくらいですから。
「そういう訳ですので、わたしの一存で決められる問題でもありませんから、今回のところはご縁が無かったということで」
「残念です」
まあ彼が大体どういう映画を撮っているのかも、先ほど聞いた懺悔の内容から概ね想像ができましたから、どのみち縁があったとは言い難かったでしょう。
「あら、今日はお客様が多いですね」
映画監督さんの背中を見送った後、若いシスターさんに声をかけられました。顔立ちから察するに日本人で、綺麗な方ではあるのですが、艶やかな黒髪といい、修道服よりは振袖姿の方が似合いそうです。そういう香水を使っているのか、ミントに似た香りがします。
「貴女も、先程の方のように告戒をしていきませんか?」
「生憎ですが」
わたしは胸を張って申し上げました。
「ご覧の通り、わたしはまっすぐに生きておりますから、やましいところは何もないのです」
「本当に?」
「……電車を乗り過ごしたせいで、このままだとデートに遅れそうです」
そうなのです。敢えて考えないようにしていたのですが、乗り過ごしの最大の弊害はこれに尽きます。
「まあ、デート! 彼氏がいらっしゃるのですね」
「すみません、デートとか見栄を張りました。本当は同性の友人です」
「まあ、悪いお人ですこと。でしたら尚更、懺悔をしていくことをお薦めしますよ」
シスターさんと話しているうちに、自分がとても罪深い、やましいところしかない人間だと気付いたので、ここはひとつ告戒をしていくことにしました。実際、乗り過ごした時点で連絡を入れるのが筋でしたからね。
「迷える子羊よ、今日はどのような過ちを犯しましたか?」
懺悔室に入ると、先程のシスターさんと全く同じ声がわたしを迎えました。一卵性の双子でしょうか?
「我が罪を告白します。電車で寝過ごして待ち合わせに遅れそうです。恐くて電話をかけるのも億劫で、まだ連絡をとってもいません」
「正直に謝ってください」
懺悔室の向こうから聞こえた声は、サラダチキンのように淡白でした。つまらない用事で来るな、さっさと帰れ。そう言われているような気がしてなりません。とはいえ、問題の解決方法としては正鵠を射ています。
わたしは謝辞を述べて懺悔室を退室しました。
「罪を告白して、気は楽になりましたか?」
「今から気が重いです。ちょっと失礼しますね」
わたしは席を外してスマートフォンを取り出し、友人に連絡をとりました。
その友人、鳥居真奈ちゃんは同い年のクラスメイトですが、わたしとは対照的に小柄で、とても可愛らしい子なのですが、ちょっと変わった方でもあって……まあ、次のやりとりをご覧ください。実際に見聞きしていただいた方が早いでしょう。
「もしもし、真奈ちゃ……」
「遅い!」
その応答は迅速的確で、開口一番に怒鳴られました。スマートフォンの電話帳に登録されていて、誰からかかってきたかとる前からわかるからこそできる反応です。
「どうせ電車でうたた寝して乗り過ごしたんだろう。馬鹿め」
「面目ございません。まったくその通りです」
このように、真奈ちゃんは男の子みたいな乱暴な口調でわたしを怒鳴っていますが、実際、彼女は片親育ちで、男手一つで育てられたのだそうです。お父様は医師の仕事をしており、仕事の関係で家を空けることも多かったとも聞いています。そんなお父様もつい先日亡くされ、親戚の家に引き取られて今に至るのだそうで、こうした複雑な環境が今の彼女を作ったのでしょう。
「それで、どれくらい遅れるんだ?」
「それが……」
電車が何時間かに一回しか来ない僻地で誤って降りてしまい、大体三時間くらい遅れる旨を説明するのには、なかなか勇気が要りました。
「この馬鹿! まったくもって貴様って奴は、この……」
それからわたしは、彼女の語彙が尽きるまで罵られました。相手を罵倒する為に使用される単語が思いのほか豊富であったことを実感します。概ね三分くらい、彼女の発する単語一つ一つに対して、こちらがすみません、ごめんなさい、などと返すやりとりが続きました。
「……今日のところは、ランチ一回で手を打ってやる」
「あの、お手柔らかにお願いします」
「亜美、美味い食事に加えて教訓が得られるんだぞ。デートの約束をすっぽかしたらどういうことになるか、その授業料としては安いくらいだ。そう思わんか」
「おっしゃるとおりです」
こういうところが、真奈ちゃんの一筋縄ではいかないところです。一通りわたしを詰って気が済んだのか、それともわたしがランチを奢ることに決まったせいか、もうすっかり機嫌は回復した様子でした。このように、彼女は激しやすい割に、機嫌が直るのも早いのです。
これがわたし以外にはあまりこういう態度はとらないらしく、そういう意味では、わたしにだけはよく懐いていると言えるかもしれません。
「わたしはあの息苦しい家から解放されるのを心待ちにしていたんだ。遅刻したのもお前が悪い。豪勢なランチの一食くらい奢ってもらう権利はある」
先にも述べたとおり、彼女はつい最近になって父を亡くし、親戚の家に引き取られましたが、新しい家族ともあまり上手くいっていないらしく、家ではひどく窮屈な思いをしているのだと、以前わたしにだけ打ち明けてくれました。
「……お前と会うのを楽しみにしてたんだぞ。わかってるのか? お前が居ないと時間の潰し方もわからん。さっきも変な奴に声をかけられて不安なんだ。あまり待たせるな」
そうなのです。真奈ちゃんは何より、わたしから見てさえ不器用なのです。改めて、悪いことをしたと実感しました。告戒はこの後に行った方が良かったかもしれません。
「お土産も買っていきますから、ここはどうかひとつ」
こういう口約束は、また別のトラブルを招くと相場が決まっているのですが、そのときはわたしも彼女をどうにかして宥めることに必死で、そこまで気が回らず、言ってしばらくしてから後悔しました。
電話を済ませて戻ると、シスターさんが微笑みを湛えて待ち受けていました。
「どうでしたか?」
「どうにかランチを奢るくらいで済みそうです。あと、お土産を買っていかないといけません」
顛末を聞いたシスターさんは、クスクスと笑いました。まあ、対人関係の深刻なこじれには至っていませんから、他人事だとすれば愉快な話に聞こえるのかもしれません。
「そういえば、先程の男の人と話されているのを聞いてしまいました。忍者がどうとか」
先程の男の人というと、あのイタリア人の映画監督さんですね。確かに忍者について知らないようなので啓蒙していたのを思い出しました。
「忍者に興味がおありですか!」
シスターさんが忍者について興味がある素振りを見せたことに、わたしはすかさず食いつきました。啓蒙は真実を知る者の義務ですからね、わたしはこの機会に忍者についての知識を広めなければなりません。
「シスターさんは忍者について、どれほどご存知ですか?」
「こう見えて生まれはイギリスですから、日本の文化について込み入ったことは存じませんが、なんでも不思議な術を操るスパイだとか。映画やコミックでの知識ですけどね」
シスターさんの答えは、わたしの予想を大きく上回るものではありませんでした。敢えて意外だったところを挙げるとすれば、どう見ても日本人であるこのシスターさんが、イギリス生まれのイギリス育ちであることくらいでしょうか。
「やはり普通の人ならそう答えますよね。でもそれは、忍者の持つ一つの側面について説明しているに過ぎません。先程の彼にも話しましたが、忍者とはこの世を操る暗黒の力、すごい古いやつの使いなのです」
「……へえ」
わたしは彼女に忍者について啓蒙しましたが、話を聞く彼女のその表情の変化を見逃しませんでした。どの単語に反応したのかまでは読み取れませんでしたが、どうやらわたしと共通する知識をお持ちのようです。
「それから、忍者は千の姿を持つとも、本当の顔を持たないとも言われるくらい、変装が得意です。わたしが以前出会った忍者はそうでした」
「……それはそれは、面白いことを仰るのねえ」
わたしが説明を終える頃には、出会った当初の人懐こい感じの笑みはとうに消え失せ、どこか冷たい印象の不気味な微笑みに変わっていました。
彼女も忍者について何か知っている。わたしの直感がそう告げていました。
わたしも忍者について全てを知る訳ではありませんから、ここはシスターさんから得られる情報を聞き逃す手はありません。
「ところでシスターさん、わたしからもいくつか質問をしても良いですか?」
「ええ、お答えできることでしたら」
わたしは壁に飾られている立派な、しかし古びている上に不審な点のある聖母子の絵を指して尋ねました。
「あのイエス様は、顔だけ黒く塗り潰されていますけれど、何かあったのですか?」
先に述べたとおり、教会によくある聖母子の絵画がありましたが、やはり聖母像と同様に肌の黒いマリア様が描かれているほか、イエス様に至っては、顔の部分だけが黒く塗り潰されています。その様はまるで、キリストの否定を表しているかのようで、多分に冒涜的な、ともすればアンチ・キリストを謳う黒ミサに相応しい様相を呈していました。
シスターさんの答えはこうでした。
「この絵は元々古くなっていましたから、それを見かねたボランティアの方が修繕して下さったのですが……善意でしてくれたことに対して申し訳ないのですけど、まあ素人の仕事でして、余計に酷いことになってしまって。これなら塗り潰した方がまだいくらか良いという判断で、わたしの方でそうさせていただきました」
「そんなに酷かったのですか?」
「ええ……ふふっ、ごめんなさい。思い出しただけで吹き出してしまうものですから。思わず写真に撮ったんですよ。ご覧になりますか?」
「そこまで仰るなら、是非とも」
修繕直後の絵の写真を見せていただきましたが、なるほど、
「これはひどい」
敬虔なクリスチャンが見たなら、きっと相当ご立腹になるでしょう。これを見て笑えるこのシスターさんは、どうやらあまり信心深くはないようです。あるいはキリスト教徒ですらないのでしょう。
「あと、絵も像も、マリア様の肌が黒いのは?」
「マリア様は黒いからですよ」
「そうなんですね」
この質問に答えたときのシスターさんの目は笑っておらず、語調もなんだか有無を言わせない感じでしたから、多分これが「大当たり」だったのでしょう。マリア様は彼女と関係のある忍者であることが殆ど確定したようなものです。
しかし、今日のところは忍者に何かするような準備も時間も無いので、ここはこれ以上刺激しないよう、適当に相手に合わせて相槌を打つことにしました。
「では最後の質問です。懺悔室からシスターさんと同じ声が聞こえました。双子ですか?」
「今日は三つ子でした」
「子沢山ですね」
これもあまり突かない方が良い話題だったみたいです。床下からも同じ声が聞こえましたからね。
「今日はお忙しいところ、ありがとうございました。それでは、ごきげんよう」
知りたいことは概ねわかったので、それ以上はあまり深追いせずにその場を離れることにしました。
「またお越しくださいね、迷える子羊よ」
わたしは振り返らずに、足早にその場を去りました。多分、今のシスターさんの表情は見ない方が良いでしょう。
建物から外に出ると、何頭かの黒山羊が集まって餌を食べている様子が伺えました。今日のランチは豪勢なイタリアンのようです。イタリアン、良いですね。わたしも真奈ちゃんに奢るランチはイタリアンにしようと思います。
わたしの存在に気づいたのか、無数の視線を感じました。異常に痩せ細った大型犬、ものすごく大きな黒山羊、庭に植えられた奇妙な木々、それら全てがじっとこちらを監視しているかのようでした。こういう居心地の悪い土地に来るのは初めてではなく、経験上、あまり長居するべきではないことも知っています。わたしが「ばいばい」と手を振ると、黒山羊もまた手を振って応じました。
「またね」
教会を後にしたわたしは、時計を確認して、最後は商店街でお土産を買っていこうと思い立ちました。望まざるとはいえ、こんなところまで来たのですから、手ぶらで帰りたくはありません。何より、何かお土産を買っていかなければ、また真奈ちゃんの機嫌を損ねてしまいます。
商店街は、いわゆるシャッター街でした。先ほど遠目に見たようなショッピングモールの存在は、しばしば昔ながらの商店街が廃れる原因になることもままありますが、ここもそういう場所なのでしょう。
とはいえ、完全な廃墟という訳でもありません。たとえば『宗谷精肉店』は、シャッターこそ開いていませんが、賑やかな様子で、シャッターを内側から乱暴に叩く音がします。完全に撤退した訳ではなく、誰かが居るのでしょう。最初は激しく、非常に短い感覚で叩いていましたが、しばらく待つと感覚が長くなり、音も弱々しくなっていき、最後には静寂が訪れました。
あと、駅の辺りで見かけた赤い収集車が、いくつかの店に停まっているのを見かけました。赤黒いシミの付着した白い布で包まれた、人間大の何かを下ろしています。敢えてその中身を欲しがるような店があるとは思えませんが、洋菓子屋さんで卸している様子もみられるので、意外と需要はあるようです。
そのようなシャッター街にあっては珍しく、土産物屋は営業中の様子です。毒を食らわば皿までと申しますし、冷やかすだけならタダです。もちろん、手ぶらで帰る気は更々ありませんが。
店内は埃っぽい木造建築で、年月の重みを感じます。部屋の四隅にはクモの巣が張っており、耳をすませばネズミのささやき声も聞こえます。土産物屋のつもりで入りましたが、ひどくおどろおどろしい雰囲気です。
「……いらっしゃい」
店に入るなりわたしを出迎えたのは、無愛想極まりないお婆さんでした。
他人の容貌についてとやかく言うのは好きではないのですが、それでも特筆に値する、この店に相応しい恐ろしげな姿でした。青アザや腫れ物だらけの顔。熱した石炭のように赤く光る眼。彼女がにっと底意地の悪そうな笑みを浮かべると、口元から黄色い歯が覗きます。西洋の民話に出てくるハッグは、きっとこんな姿なのでしょう。
カウンター奥の棚には、グロテスクな調度品が所狭しと並べられていました。これらの小物類は店主のお婆さんと共に、お化け屋敷めいた店の雰囲気を出すのに一役かっています。
「こいつは売り物じゃないよ」
わたしの好奇の眼差しを見てとったのでしょう。視線の先には、胎児や臓器のホルマリン漬けや、赤ちゃんのミイラ等が飾られていました。けっして欲しい訳ではないのですが、興味を引く品物ではありました。
「冷やかしなら、さっさとお帰り」
「ああ、いえ」
再三申し上げますが、ここまで来て手ぶらで帰るのも癪なのです。何より、真奈ちゃんにお土産を買っていくと約束してしまった手前、何かしら持っていかなければ、また先程のようにどやされます。今日だけで既に一度やらかしていますから、それだけは避けたいのです。
「友人に贈るお土産を探しています。最悪、見せびらかすお土産でも良いです」
「あると思うのかい」
確かに、無いかもしれません。先述の品々を同年代の女の子に贈るのは、いささか気が引けますし、他の品物も概ねああいう胡散臭いものばかりでした。
でもわたしは諦めません。
「何かありませんか? できれば、持ち歩いても逮捕されないやつで」
「……」
「じゃあこれと、これと、これで」
結局わたしは、トゲトゲのついた呪術っぽい棒、変なナメクジみたいな玩具、生暖かい皮表紙の古い本を買いました。どれも相当に値が張り、しかも見せびらかすだけに終わりそうですが、一方で、どれも間違いなくここでしか買えない貴重なものだと思います。
「あんたみたいなのは初めてだよ」
「そうですか?」
お婆さんは胡乱げに目を細めて、わたしのことを頭のてっぺんから爪先まで、舐め回すように観察しています。
「こういう町に慣れてるんだろう?」
「わかります? よく乗り過ごして変な駅で降りてしまうんですよ。それに、友人の実家が大体こんな感じの町で、よく遊びに行きます」
駅員さんもですが、どうにもこの辺りの人は警戒心が強いみたいです。
「その杖は何だい」
「素敵でしょう?」
「……」
視線が冷たいです。言ってから後悔しました。いたたまれなくなったので、わたしは逃げるように店を出ました。
わたしが一通り観光を終えて駅前に戻ると、先程までいた浮浪者たちが、まるで蜃気楼であったかのように居なくなっていました。散乱していたゴミも綺麗に掃除されています。
「来たときよりも綺麗になっていますね」
「そいつはどうも」
駅員さんからも若干の警戒心が見て取れます。まあわたしのファッションについて言及したときも、変な人を見るような目でしたからね。
「お姉さんは若いのにマナーが良くて感心するけどね、普段都会から来る連中は、皆、酷いもんですよ。毎日のようにゴミを捨てていきよるんです」
「それはそれは。駅員さんも大変でしょう」
「お気遣いありがとう。いつもはこっちで片付けるんですけどねえ、今日みたいな特に多い日は、専門の業者を呼ぶんですよ」
「へえ。さっき見た赤い車はそういうことだったんですね」
「そうそう。一般ゴミは緑色の車、粗大ゴミは青色。その他のゴミは赤色の回収車です」
「なるほど」
わたしは少し呼吸を置いてから、少し気になった点を尋ねました。
「確認しますけど、赤いので運ばれていったのは、その他のゴミですか?」
「その他のゴミですよ」
「そうですか」
商店街で見た、あの白い布に包まれた人間大の何かは、その他のゴミだったようです。知りたいことはわかったので、それ以上は追及せず、これで失礼することにします。
券売機で切符を買ってホームに戻ると、朝方にお弁当を売り歩いていたお姉さんが待っていました。
「先程のお姉さん! お待ちしてましたよ」
目を輝かせながら駆け寄ってくるのを見て、少し申し訳ない気持ちになりました。
「すみません、ランチを奢る約束をしてしまって。弁当の方はちょっと……」
「それは残念。では、おやつに抹茶クッキーはいかがですか? 今なら焼きたてですよ」
わたしはクッキーを一袋手にとって、しばらくそれを注視しました。よく見ると、髪の毛らしきものが混じっています。
「……この抹茶クッキーは、地元の食材を使ったものですか?」
「ええ」
「お姉さん」
わたしは語調を強めて詰め寄りました。
「朝会ったとき、これも地元でとれた食材を使ったと仰っていましたが、本当に地元の食材を使いましたか? この町を大方見て回りましたが、小麦畑と、牛を飼っている農家は見当たりませんでしたよ」
「うっ」
やっぱり。お姉さんの反応は図星を突かれた人間のそれでした。
「ごめんなさい。本当は他所から来た食材も使ってます」
その発言で、このクッキーがどのように作られたのかはっきりしたので、もう買おうという気は微塵もありませんでした。幸い、彼女は教会のシスターさんほど恐ろしい相手ではないので、わたしも強気な姿勢で行くことにします。
「食品偽装はいけませんよ。申し訳ありませんが、そういう食べ物はご遠慮させていただきます」
「……はい」
わたしが背を向けると、弁当屋のお姉さんの手元が一瞬光ったのが見えたので、彼女が持っていたものを、ステッキの鞘で払い落としました。地面に渇いた音を立てて落ちたそれは、何か透明な液体の滴る刃物でした。
「駄目ですよ」
「はい」
わたしが諭すように言うと、お姉さんは逃げるように去っていきました。わたしは刃を鞘に納めて念仏を唱えました。
やっと折り返しの電車が来て、ほっと胸を撫で下ろしました。とはいえ、大変なのはこれからです。真奈ちゃんはここぞとばかりにお高めのランチを奢らせようとするでしょうから、乗り越しの料金も含め、財布にかなりの痛手を負うことになるでしょう。
誰の言葉だったか、空腹は最高の調味料と言うくらいですから、ここは出所の怪しい弁当など手をつけず、真奈ちゃんとのランチを楽しみに待つことといたしましょう。
それにしても、お腹が空きました。待ち合わせの駅に行く電車の中で、またしてもうたた寝をしてしまいそうです。二度も変な駅で降りてしまわないよう、意識を強く保たなければなりません。