絶望喰いのルカ
「サラ、お前との婚約を破棄する!」
わたくしの前に立つのは、婚約者であるはずの王太子ディルマン様。隣に立つのは、最近転入してきた男爵の娘。
婚約者であるわたくしを差し置いて、ディルマン様にべったりまとわりついていた目障りな下級貴族の娘。
……だったはずなのに。
本当は隣国の王女だったなんて、誰が知りましょう。誰もわたくしには教えてくれませんでした。
ディルマン様に相応しくないと何度となく詰り、身の程を知れと貶したわたくしに下された罰は、婚約破棄だけではありませんでした。
「貴様など引き取るのではなかった。……勘当だ!」
父上の言葉に、わたくしが侯爵家の庶子だったことを初めて知ったと同時に父上と家名を失い。
「お前のような地味な妹でも王太子妃になれば役に立つと思っていたが、とんだ悪女だったとはな。お前こそ身の程を知れ!」
兄上の言葉に、今まで見てきた兄上が全てまやかしであったことを知ったと同時に優しい兄を失い。
「ああ、本当にどうして産んじゃったんだろう。妊娠がわかった時に堕胎せばよかった……もう二度と顔も見たくない」
母上の言葉に、望まれた命ではなかったことを知ったと同時に愛溢れる母を失い。
高慢ちきな女が破滅するところを見たかったのよと、友達だと思っていた子に言われて友を失い。
わたくしは、すべてを失いました。
◇◇◇
「入れ」
華美なドレスも装飾品も、すべてを剥ぎ取られ、質素なドレスを着せられて。
後ろ手に縛られたまま連れてこられたのは貴族用でなく地下牢で、本当に身分を剥奪されたのだと思い知らされました。
手首の縛を解放されて、押し込められたそこにはベッドも何もありません。直接地面に座るしかないようです。
「あんたには国外追放の命が出た。明朝国境に送られることになっている。今晩一晩、じっくり反省するんだな」
「そんなっ」
「ちなみに向こうの国は治安が悪くてな。女子供が一人でフラフラしてたらあっという間にさらわれて奴隷落ちだ。まあ、あんたは見目はいいからきっと高く売れるだろう。娼館でも可愛がってもらえるさ」
「いやっ……そんなっ」
「それとも俺たちの相手をしてくれるのか? 看守みんなで可愛がってやってもいいんだぜ?」
看守だという男がねっとりした視線でわたくしを舐めるように見る。
「い、いやよっ、お前のような男なんてっ!」
「はは、そういうと思ったよ。ま、気が向いたら声かけてくれよ。そうそう」
看守はポケットから小瓶を取り出しました。紫色の毒々しい液体が入っているのが見て取れます。
「本来は平民には出さないんだが、侯爵閣下からのお情けだ。ありがたく受け取んな」
ころりと檻の中に転がして、看守は出て行きました。
震える手で瓶を拾うと、毒々しい光を放っています。
わたくしには――輝かしい未来がありました。
王太子妃として――いずれは王妃として、この国の舵を取るディルマン様の支えとなり、子を産み育て、次代へと繋ぐ、はずだったのに。
十年の努力はすべて水の泡と消えて。
「どうして……」
国外追放されて奴隷となるか、看守たちの慰み者となるか、わたくしのままの死を選ぶか。
そんな未来しかないなんて。
なにより、父から死を望まれていることが、わたくしの心を黒く塗りつぶしていきます。
生まれてこなければ、よかったのですね。わたくしの存在は、最初からいらないものだったのですね……。
なら、もう、消してしまいましょう。
こんな、わたくしなど……。
涙が流れるにまかせ、ぺったりと座り込んで目を閉じる。
優しかった兄様の笑顔、わたくしを抱っこしてくださる父上の温もり、母上の歌う子守唄。
すべてが嘘だったなんて思いたくありません。
「ごめんなさい……お父さま、お母さま、お兄さま……」
そして、わたくしは瓶の蓋を開けました。
この瓶を一息に飲み干せば、わたくしは消える。きっと……お父さまもお母さまも、喜んでくださるでしょう。
死への恐怖に手が震えます。でも、わたくしは、やらねばなりません。
目を閉じてギュッと瓶を握った時でした。
「くだらない」
誰もいないはずの牢の中で、低い声が響きました。
はっと目を開けば、格子の向こうに黒い影が動きました。
灯のほとんどない地下牢で、黒一色の影の中に、白い顔が浮かんで見えます。
「ひっ!」
驚いて瓶を落としてしまいました。
「だ、誰ですかっ」
人が入ってきたなんて気づきませんでした。あの看守の目を掻い潜ってきたのでしょうか。
ですが影はわたくしの問いには答えません。
「わたくしが聞いているのです、答えなさいっ!」
「……お前の問いに答える義務があると思うか?」
すい、と影が一歩近づいてきて、思わず後退ります。
「なっなんですって」
「そんなに大切なものか?」
「何がですっ」
「命より?」
「だから、何を……」
格子の隙間から伸ばされた手が、落ちた瓶を拾い上げるのを、わたしは見ているしかありません。
ああ、蓋が開いていたから、半分以上溢れてしまっています。残りでちゃんと死ねるのでしょうか。
「返してっ」
「だから、どうして死にたいんだ」
影の言葉なんか聞かなくていいはず。なのに、低い落ち着きのある言葉はなぜか胸に刺さって、必死で言い訳を探してしまいます。
「わ、わたくしなど、生きていても仕方がないのですっ」
「……なぜ」
どうして、この影の質問を無視できないのでしょう。どうしてわたくしは、この影にわたくしの思いを伝えなければと思っているのでしょう。
「わたくしが、わたくしでなくなったわたくしは、価値がないからですっ」
「価値? 君の価値って何」
「それはっ……いろいろですわ」
問われて答えようとして、言葉に詰まりました。
わたくしの価値なんて、王太子妃としての立場しかありません。侯爵家の名を背負い、父や兄、母の期待を一身に受けて、国母となるべき存在。
それ以外、何があるでしょう。
「ふぅん。……で、王太子妃の肩書を失い、家名を失った君は、何者かな」
わたくしは目の前の影を見つめます。――影に浮かぶ、白い顔を。
わたくしは口に出していなかったはずです。
なのに、わたくしの思っていたことをそのまま口にしています。
「……どうして」
「聞こえるから。……あんたの声が」
さらに一歩、近づいてきます。同じだけ下がれば、壁に行き当たりました。これ以上は下がれません。
「声って」
「あんたの絶望が」
そう言った影の口から、赤い舌が覗きました。ぺろりと唇をひと舐めした口元には牙があったようにも思えます。
これは……この影は、一体何者なのでしょう。
「すべてに諦めて死を選んだあんたの心の声に惹かれて来たんだ」
「ぜつ、ぼう」
そう言われて、腑に落ちました。ああ、そうです。わたくしは絶望したのです。今のわたくしに――わたくしを取り巻く世界に。
影がもう一歩、近づいてきて、明かりの下で立ち止まりました。
影になって見えなかった様子がはっきり見えます。
ざんばらな黒髪、白い顔の中で光を受ける黒い瞳。黒ずくめの影は、わたくしより若い少年のように見えました。
「あなたは……」
「俺はルカ。――絶望喰い」
絶望喰い。
どこかで聞いたことがあります。
大昔、悪い夢を食べてくれるという幻獣の話を。あれは――悪夢喰い、でしたでしょうか。
「ああ。――あんたの絶望は美味いな」
それは褒め言葉なのでしょうか。……でも、たとえこの果てしない絶望感を吸い取られたところで、明日の朝には国境の向こうへ追放される未来は変わりません。
毒薬をこぼしてしまった今、自死の選択肢は無くなってしまいました。
この身を蹂躙されるのが遅いか早いかの違いしかありません。
それとも……彼がわたくしを殺してくれるのでしょうか。
「それはないな」
わたくしの思いを聞いたのか、影――ルカが答えます。
「俺が欲しいのはあんたの絶望だけだ。……死んだら食えないだろ」
なんてひどい答えでしょう。
わたくしの絶望を食べるために、死を選ばせてくれないなんて。
「いいな、さらに美味くなった」
「……そうですか」
もう、涙も出てきません。
首を吊ることも考えました。でも、首を吊る紐がありません。服を裂いて作ることも考えましたけれど、わたしの非力な腕ではこの簡素なドレスすら引き裂くことはできませんでした。
「ああ、美味い。……あんたの魂は美しいな」
「そんな訳ありません」
死に方を考えている時にそんなことを言われても、嬉しくありません。
「いいや、あんたの魂は綺麗だ。あれほどの目に遭いながら、傷一つついていない。……頑なで美しい。だからこそ、あんたの絶望は美味いんだ」
「そんなもの、美しくたってなんの役にも立たないではありませんか!」
美味い美味いと言われたって、わたしには関係ないことです。むしろ湧き上がる不快感に耐えきれなくて、ついに声を荒げてしまいました。
「わたくしはディルマン様の婚約者でいたかった! わたくしを育ててくださったお父さまの、優しく笑ってくださったお兄さまの、わたくしを産んでくださったお母さまの、お役に立ちたかった! 今のわたくしのまま死ぬことは、全てを失ったわたくしが、家族のためにできる最後のことなのです! 魂が綺麗だというなら、どうして神様はこんなひどい罰を下されるのですか! そんなもの、ありがたくも何ともありません!」
ルカが目を見開くのがわかりました。
それから、引きつった声が漏れ聞こえます。肩が震えているように見えるので、笑っているのでしょう。
わたくしの本音を笑うなんて!
じろりと睨みつければ、ようやくくぐもった笑い声が止みました。
「ならば神とやらに祈るがいい。祈って何とかなるならな。……神にさえ裏切られた君の絶望はさぞ美味いだろうから」
なんてことでしょう、神への祈りさえ否定するなんて。
この男は、一体何なのでしょう。男、と思いましたけれど、人ではないのかもしれません。
「言っただろう、絶望喰いだと」
またわたくしの心を読みましたわね。ええ、もう許せません。この男にこれ以上わたくしの絶望など食わせてやるものですか!
すると、ルカは一歩下がりました。わたくしは間を詰めるように一歩足を踏み出します。
「……あんた」
「わたくしにはサラという名前があります!」
「……サラ」
「馴れ馴れしく呼ばないで頂けませんこと?」
「じゃあ何で呼べばいいんだよ、家名のないお嬢さん」
苛ついているのが分かります。わたくしはもう一歩、踏み出しました。
「仕方ありませんわね、呼ぶのを許しますわ」
「……どこの世界に名を呼ぶのに許可が必要な平民がいるんだよ」
そっとルカが下がります。先ほどまで格子のすぐそばにいたのに、手を伸ばしても届かない距離まで下がられてしまいました。
まあ、何かをしようと近寄っているわけではありませんけれど、こうなると、捕まえてみたくなりますわね。
「友達でもないのに呼び捨てるからですわ」
すると舌打ちが聞こえました。
「……サラ嬢」
「何ですの?」
胸をそらして腕組みをします。ええ、こんなことでへこたれたりしませんわ。こんな、絶望喰いなどに負けるものですか。
じっと目を見つめれば、ルカは不意に両手を天井に向けて広げました。
「わかったよ、降参だ」
ルカは小瓶を投げて寄越しました。格子にぶつかることなくわたくしの手に転がり込んできたのは、毒薬の小瓶。ゆらりと揺らせば紫色の液体が三分の一ほど残っています。
「それだけあれば死ねるだろう」
「そうですの」
わたくしは瓶の蓋を開けました。きつい薔薇の香りがするのは、死にゆく者への手向けのつもりなのでしょうか。
ルカの見守る中で、わたくしは瓶を傾けました。
紫色の液体は、こぼれ落ちて足元の土を黒く変えていきます。
ルカが息を飲むのがわかりました。小瓶から手を離してルカをちらりと見れば、目を見開いています。ふふふ、驚いてますわね。
「あら残念、こぼれてしまったわ」
「……自分でこぼしたんじゃねえか」
「ええ。だから残念ね? わたくしから絶望を吸えなくて」
ああ、いい気分ですわ。こんな気持ち、初めてかもしれません。こんなに心から楽しんだのも。
ディルマン様の婚約者になって十年、全てを管理されてきました。
でも、もうその呪縛はないのです。わたくしは、自由なのですわ。
なんだか気分が良くなって、ついルカに微笑みかけてしまいました。
すると、ルカはひらりと影の濃い場所に下がりました。光の届かないそこではもう、ルカの表情どころか白い顔すら見分けがつきません。
「あら、逃げますの?」
「……絶望してないお前に用はないからな」
「そう、ではご機嫌よう」
「まあ、いいか。絶望したら喰いに行くからな」
「二度とお会いしませんわ」
それきり、ルカの声は聞こえません。きっと、退散したのでしょう。
ええ、二度と絶望喰いなど呼び寄せませんわ。わたくしは幸せになってみせます。……たとえ奴隷に落ちようとも。
◇◇◇
「任務終了っと」
城の塔の天辺に腰を下ろして、ルカは眼下に広がる城下町を眺める。
先ほど城を出た護送馬車が、国境へ向かう道とは違う方向へと曲がっていく。その先に待ち構えている馬車の紋章は、遠く離れた大国の王家の――依頼人のもの。
「あれほどの上物は久しぶりだったな。……それに、あの逞しさなら大国の王妃でも務まるだろ。あいつ、なかなか見る目があるな」
馬車から降りてきた依頼人がサラを抱き上げて運んでいる。
きっとサラは目を白黒させていることだろう。
この先に待つ未来が必ず幸せにつながるとは限らないが、絶望だけはしないと決めたサラのことだ。必ず幸せになろうと努力するに違いない。
「さてと、次の依頼に向かうか」
この世界には、三種類の人間がいる。
絶望している人間と、絶望していない人間。それから――絶望喰い。
彼が人間であるかどうかは――彼しか知らない。