第 401 話 手続き
暗い闇の中、柴田加奈は「自分という存在」を忘れる「殻」の中に居た。だが、どんなに自分を「消そう」としても、ふとした拍子に「自分」の存在を思い出してしまう。自分という存在自体が、初めから何も無かったのなら、こんなに苦しむことも無かった。消えて無くなってしまえばイイのに……
『加奈さん! 私と一緒に逃げ出そうよ! 絶対に助けて上げる!』
誰の……声だろう……
再び訪れた加奈の「自己認識」の中、記憶の奥深くに沈んでいた「女性の声」が唐突に響いた。バラバラに破り捨てた記憶の断片が繋ぎ合わされ、「女性の顔」が目の前に現れる。
『一緒に行くわよ、加奈さん!』
せん……せい……?
自分に声をかける存在が「先生」であるという記憶の断片が繋がった。
先生……せん……せい?
その存在の「名」を、加奈は意識の奥深くで繰り返し呟く。途端に、砕けたガラスが逆再生で1枚に継ぎ合わされるように、封じていた記憶が脳裏に映し出されていった……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「朝倉先生、ちょっと……」
細身で神経質そうな男性教頭に呼ばれ、若い男性教諭は校長室に入った。
「例の柴田さんの件だけどね……」
朝倉が入室すると同時に、奥から校長の声が投げかけられる。
「はい……」
雰囲気的に好意的な話ではない事を悟り、朝倉は身構えた。重厚な総木造りのテーブルの向こうで、頭部を超す背もたれを備えた大型デスクチェアに座る恰幅の良い校長が、分かりやすい「説教面」をして話を続ける。
「彼女の出身園でも『虚言癖』が問題になってたそうだよ」
「え?」
動揺した朝倉の返答に反応し、教頭が咳払いを前置きに口を開く。
「だからね、君が『児童虐待の疑い』で報告して来た子だよ! 柴田加奈? 不登校の女子児童!」
「……もう……調べて……」
「当たり前でしょ!」
朝倉の返答に、何故かすでに怒り頂点の声色で教頭が被せる。
「やれ『ネグレクト』だの『性的虐待』だのと君が騒ぎ立てるから、すぐに報告を上げましたよ! 後から『隠ぺい』とか言われないようにね! そしたらその子、幼稚園時代から虚言癖が有ったって言うじゃ無いですか!」
「まあまあ、教頭先生……」
困惑する朝倉に詰め寄る教頭を、校長は微動だにせず腰かけたまま制す。
「もともと身体も丈夫じゃ無い子みたいだねぇ……」
校長は手元の紙をめくりながら説明を始めた。
「まあ病弱な体質ってことなら、登園日数が極端に少ないのも仕方無いでしょう。園のほうでも、親からの虐待を疑ったことも有ったみたいですけど、登園した日には本人からも親からも、ちゃんと『病気で休んだ』との確認取れたそうですよ……もちろん、親子別々の時に確認したそうです」
口を挟む素振りを見せた朝倉を制するように、校長は後半、語気を強めた。
「それにね……」
紙をめくり、校長の話は続く。
「登園時にお弁当を持って来ないことが何度か有ったみたいですけどね……最初本人は『お母さんが寝坊して作ってくれなかった』と言ったそうですよ。園のほうでも問題視したそうですが、これも結局、苦手なおかずが入っていたから、本人がワザと家に置いて来たって事が後から分かったそうです。でも、園が市の担当にまで話をしてたことが後から親御さんにバレて、かなり強いクレームを受けたそうです」
「いや……でも……」
「とにかく!」
反論を試みた朝倉を、教頭が声を荒げ妨げる。
「報道やら何やらの影響で、社会全体が過剰反応してるだけなんですよ! イジメや虐待なんか、そうそう起こってはいないってことぐらい、確率考えれば分かるでしょ? 1千5百万人の子どもの中で、本当にイジメに遇ったり虐待を受けてる子なんて1パーセントも居ないんですからね! 不登校の原因なんか、被害者面した子どもと親が後付けした妄想ですよ! そんな被害者ゴッコにいちいち全部付き合ってたら、学級運営が成り立ちませんよ、朝倉先生!」
「教頭先生……」
校長が穏やかに口を挟む。
「色々とお考えもあるでしょうが、まあ『決めつけ』は良く無いですからね。『決めつけ』は。たとえ大多数が『過剰反応』のせいだとしても、言葉は慎重に発しましょう」
恐らく、校長も教頭と同じ「決めつけ」の立場なのだろうと察しつつ、朝倉は視線を床に向けたまま黙って聞いている。「とにかく……」と前置きし、校長が朝倉に結論を告げた。
「今回、朝倉先生が気にかけて御相談下さった柴田加奈ちゃんの件……これはどうやら児童本人の『勘違い』のようですねぇ。低学年でも読めるネット情報も多くありますから、何らかの影響を受けて『自分も……』と思い込んでしまった可能性が高いということで。話し相手になって上げることは止めませんが、今後は教師として、大人としての常識ある対応をお願いしますね。くれぐれも『子どもの空想』に振り回されないように。以上です」
笑顔の校長と睨みつける教頭に頭を下げ、校長室を後にした朝倉は、廊下の窓から射し込むオレンジ色の夕陽に向かい大きく息を吐いた。
やっぱり、簡単には行かないもんだなぁ……。でも! とにかくこれからだ!
前校から転任してすぐに受けもった3年生のクラス。不登校気味の子が2人居るとは聞いていたが、その内の1人柴田加奈の雰囲気からどうしても「ただならぬもの」を感じた朝倉は、なんとか本人から事情を聞き出す事が出来た。それは、20代後半の朝倉にとってあまりにも衝撃的な内容だった。
実母と内縁の夫から受け続けて来た心身虐待……特に「お父さん」から性的虐待まで受けているという告白に、朝倉の義憤は燃え上がった。同僚教員らに相談し、職員会議で「重要案件」として報告する事になったが、案の定、校長と教頭が対応に当たることが決まった。それから1週間とせずに出された結論……要は「子どもの話は聞き流し、何も対応はするな」という職務命令だ。
そういうワケには行きませんよ、校長、教頭……僕は、彼女を助けて見せます!
振り返り、校長室の扉を睨みつけると、朝倉は心の中で吐き捨てた。
―――・―――・―――・―――
加奈の自宅を訪問する「理由」を作るため、朝倉は毎日「クラス便り」を書き上げ、家庭学習用のプリントも合わせて、ほぼ毎日「不登校児宅訪問」を続けた。しかし、在宅しているはずの加奈さえ戸口に出て来る事は無かった。本人の意思なのか、それとも出て来られない「何か」を抱えているのか……気が気では無いが、とにかく、自分という存在が近くに居ることを加奈に示し続けた。
秋の終わりを肌に感じ始める頃、数か月振りに加奈が登校して来た。朝倉はこの機会を逃すまいと、いつでも行動に移れる準備をしていた。
「ジドウソウ……」
「児童相談所だよ」
放課後、朝倉は教室に残り、加奈との個人面談を行った。本当は別室で詳しく話をしたいところだが、小学3年生とは言え女子児童と個室で2人っきりになるのは立場上避けなければならない。子どもたちの出入もあるため、少し言葉を選ばないとならないが、朝倉は自分の「計画」を加奈に打ち明ける。
「加奈さんのお母さんや『お父さん』が、加奈さんにやってる事は、本当はやっちゃいけない悪い事なんだ。その『悪い事』をやめさせてくれるのが児童相談所ってところの人たちなんだよ」
加奈は理解出来ているのか出来ていないのか、よく分からない表情ながら、朝倉にうなずいて見せた。
「それに、困ってるときはお巡りさんに相談したって良いし、弁護士さんっていうお仕事の人も、加奈さんみたいに困ってる子どもを助けてくれるんだよ。もちろん、先生だって加奈さんの味方だからね」
小学3年生の少女が負わされている、実母と養父によるあまりにも残酷な虐待の日々に、朝倉は何としてでも終止符を打たせたかった。強引な気もしたが、とにかく少しでも早く動き出さなければならないと考え、加奈と共にこの日、児童相談所へ行くことにしたのだった。
―――・―――・―――・―――
「証拠……ですか?」
校外で加奈と待ち合わせ、放課後業務を抜け出し地域の児童相談所に朝倉は来ていた。
「はい」
相談は1時間もあれば充分だろうと考えていたが、加奈からの相談内容を聞き取った担当職員が別室に控える朝倉の所へ来たのは、午後5時も過ぎた頃だった。
「加奈さんからうかがった内容は、大変酷いレベルの児童虐待行為です。警察と家庭裁判所にも通告する必要がありますし、何より、彼女を保護しなければなりません。ただ……その事実を確認してからでないと……。なので、加奈さんの証言を裏付ける証拠の動画や音声をいただきたいんです」
「いや……それは……」
朝倉はここに来て自分の甘さを思い知る。「子ども」が真剣に相談して来たのだから、自分も真剣に向き合い、最善の解決方法を模索し辿り着いた答えが「児童相談所への駆け込み」だったのだが……
「加奈さんの親権はお母さんにあります」
担当職員は朝倉に念を押すように語りかけた。
「親権者の承諾や裁判所からの命令も無しに、勝手に児童を親権者から隔離する事は出来ません。私たちも『権限』は付されていても『行使』するには手続きが要るんですよ。なので、虐待の証拠を示し、一時的にでもお母さんの親権を停止してからでないと……」
「そう……ですね……」
「それと……」
朝倉の落胆に、担当者はさらに追い打ちをかけるひと言を告げる。
「朝倉さんは加奈さんの小学校の担任の先生だとうかがいましたが……あの……このような形でここに彼女を連れて来たこと自体、下手すると未成年者略取で訴えられることになりますよ?」
「え……いや、でも! 以前、こちらに相談した時に『本人を連れて来て下さい』って言われたじゃないですか!」
突然の「犯罪者」扱いに、朝倉は驚きの声を上げた。しかし担当者は特に気にする様子も無く淡々と語る。
「それは然るべき手順を踏んでからに決まってるじゃ無いですか。たとえば校長先生を通して御両親の了解を得た上でとか……」
「なに……何を馬鹿な……はあ?」
あまりにも想定外の「指導」に、朝倉は言葉を失ってしまう。その間を区切りとするように、担当者は壁の時計をチラッと見て席を立った。
「とにかく今日、加奈さんからうかがった相談内容はこちらでも共有し、善後策を検討はします。彼女の言う内容が本当なら、これは重大な虐待事件ですから、速やかに保護に動く事にはなると思います。ということで、今日は一旦お帰り下さって構いませんので……」
「いや……ちょっと待って下さいよ!」
そそくさと切り上げようとする担当者の対応に、朝倉はさすがに頭に来た。
「彼女、家に帰すんですか?! 話を聞いたでしょ? 明らかに問題があるじゃないですか? こちらで保護して下さると聞いたから……」
「手続きを!」
担当者の声も苛立ちを見せる。
「……手続きを経なければ私たちとしても動くワケにはいかないんですよ、分かるでしょ? 法治国家の公務員なんですから、キチンとルールを守らないと……よろしいですか? 朝倉『先生』」
行政機関に雇用される「同じ立場」として、「正当な手続き」を欠いた過ちを指摘するひと言に、朝倉は言葉を飲み込むしか無かった。
その日、朝倉は加奈を自宅まで送り届けたが、母親も「お父さん」も不在だったため玄関先で別れを告げた。児童相談所に行ったことは誰にも内緒にする、という2人の約束を残して……




