第 2 話 旅程変更
篤樹は夢を見ていた―――
何の夢かは分からない。家族や友人がたくさん出てきた気もする。不思議な 目覚めから、段々と「 現実の雰囲気」を理解する 意識に切り替わり始める。
だが、意識が回復を始めた 途端「ズキン!」と胸に 激しい痛みを覚えた。
痛ッ!……何だ? ここはどこだ? 何をしてるんだっけ?
感じた痛みのお陰でハッキリと意識を取り戻し、篤樹は目を開く。 異常な光景……異常な体の 感覚……
バス? あ、修学旅行だった……。ん? 何で……
篤樹の目に 映ったのは、座席が不自然に 積み重ねられた「壁」だった。いや……体の 方向感覚から言えば、椅子が 敷き詰められた「床」にも見える。
座席の背もたれの 裏に「うつ伏せ」になっている状態だと気がついた篤樹は、体を動かそうとし、足が何かに 固定されている事に気がつく。腰の 辺りに緩く締めていたシートベルトから、すり 抜けるような状態で両足が引っ 掛かっていた。どうやらバスは前方が下向きになる形で「立っている状態」なのだと気が付く。
バスの「前方に落ちないように」気を付けながら、篤樹はゆっくり足を 抜き、前の座席の背に四つ 這い状態になる。
あれ? バス、どうしたんだ?
篤樹は光が 射し込んでくる「上」に顔を向けた。バスの後部窓のガラスは 砕け散り、大きく開いている。
とにかく外に出なきゃ……
最後部座席の裏によじ 上り、スッポリ開いている後部窓から篤樹は頭を出そうとし、もう一度「下」を 覗き込んだ。座席やカバンや……クラスメイトが 絡み合うように、車内のいたる所で引っ 掛かっている。誰かのうめき声や泣き声も聞こえていた。
ガン! ゴン!
「下」から激しい音が聞こえた次の 瞬間、車内に引っ掛かっていた座席やカバンや……クラスメイトたちが「下」に落ちていくのが見えた。どうやらバスの前の大きなガラスも 抜け落ち、そこから車内のモノが落ちていっているらしい。
「…… 篤樹?」
バスの中ほど座席の 陰から、誰かの顔が見えた。 磯野真由子だ。こちらを見上げている。だが次の瞬間、その「顔」は座席と共にぐるりと回転して下に落ち、運転席横の鉄の棒に引っ掛かって止まった。
磯野真由子は椅子に座ったまま、真っ直ぐ前を見るように篤樹を見上げている。 恐怖に耐えるように、 両腕で「あの手提げカバン」をギュッと 抱き締めているのが見えた。不思議な時間……不思議な光景……。ほんの数秒もないその瞬間が、篤樹にはとても長く感じられた。
バコン!
再び 激しい破壊音が聞こえると同時に、篤樹は自分の体が「フワッ」と浮き上がる感覚に 襲われた。エレベーターが下に降り始めるような……いや……遊園地の 絶叫系遊具で体験する「突然の落下」と似た、体が空中に取り残される 浮遊感……
篤樹は、自分の身体が破れたバスの後部窓から、ゆっくり車外に出ていくのを感じた。
落ちてるん……だよな?
まだこちらを見上げている真由子とは目が合ったままだ。しかし、 視界の端で、バスがゆっくり自分から離れ「前に向かって」落ちていく姿を見ている。
だがすぐにバスが篤樹に向かって 急接近してきた。バスの先頭部が先に『着地』したのだろうか? 落下の一瞬の間に篤樹の体の位置はバスの後部窓枠から少しズレていたようだ。篤樹の体は、近づいて来た車内に再び戻ることなく、後部窓枠に引っ掛かるように当たると、今度はバスから完全に 跳ね飛ばされた。
痛ッ!
車体に身体を打ちつけたショックで、篤樹は再び意識を失ってしまった―――
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
顔に 不快な感覚を覚える。
何だろう……虫……?
篤樹はハッと跳び起きた。左右の 頬を這い歩く「何か」を払い落とすように両手ではたく。
何だ!? 虫?
見慣れない黒い小さな「物体」が付着した手の平を、篤樹はジッと確認する。足に 這い上がった蟻を、とっさに 叩いてすり潰した残骸のようなその「物体」は、まだかすかに動く部分もある。とにかく気持ち悪いので両手をすり合わせ、全てをはたき落とす。
……あ、バスは?
篤樹は上半身を起こし、辺りを 見回した。
そこはまるで、良く 整備された公園の芝生広場のような場所だ。でも何となく 焦げ臭い……
学校の運動場くらいの広さはあるだろうか? 円形の芝生……草むら? 周囲は360度ぐるりと木々に 囲まれている。目に入るのはただそれだけだ。落ちていった座席や 荷物や……クラスメイトたちの 姿もない。篤樹は空を見上げた。
どこから落ちたんだろう?
ぐるりと木々の上の空を確認してみる。しかしそこには青く広がる空しか見えなかった。
不意に左前腕に痛みを感じ、右手で 抑える。学生服の袖に穴が開いているのが分かった。
袖をそっとまくってみる。中に着ていたのが 半袖のポロシャツだったおかげで、簡単に傷口を確認する事が出来る。
学生服の袖をまくる時に乾き始めていたかさぶたの一部が剥がれたのか、新しい血の「 球」が浮かんで来ていた。
身体全体に打ちつけたような痛みが走る。篤樹はそのまま、見える限りで 怪我の有無を確認した。出血しているのは左腕だけのようだ。自転車で転び、道路に体を打ちつけた時のような痛みを全身に感じるが、動かせない部分は無い。
骨折とかはしていないみたいだな。良かった……。とにかく生きてるんだ……でも……
「 誰かー! 誰かいなーい?」
篤樹は大声で叫んだ。しかし辺りからは何の反応も返って来ない。 穏やかな風が時折り右から左からスッと 吹き抜ける以外、全く、何の 気配も無い。
おへその 周りをグッと掴まれるような不安を、篤樹は突然感じた。とりあえずその場に 膝を 抱えて座り込み、両腕に両目を押し当て目を閉じてみる。
何だろう? 何だろう?……これって……何だろう?!
頭を何度も 揺らし、眼球を 圧迫するように腕に押し当てる。考えても考えても何も思いつかない。
バスは高速道路を降りて国道を通り、 峠を越えるコースに変更した。ガイドさんが「もうすぐ撮影ポイントの橋を通過するから、写真係さんはスタンバイどうぞー」とか言ってた。その後……そうだ、大きな音と 衝撃があった。窓の外に別のバスが見えたんだ。それと大きなトラックが……そうだ。僕らが乗っていたバスはあの 峠道の絶景ポイントで事故に 遭ったんだ! そして…… 崖から……落ちた?
篤樹は「ガバッ!」と顔を上げる。眼球を強く腕に押し当てていたせいで、目の前に丸い光の 輪がいくつも「フワフワ」と 浮かんでいるようだ。両手で目をこすり、 視力が回復するのを待ち立ち上がる。
崖は? 落ちた崖はどこだ?
篤樹はもう一度辺りを見回した。
広場を囲む木々が 邪魔をしていて見えないわけではない。あれだけの高さの峠道だったのだから、崖の下から見上げれば空を 覆い 隠すくらいの崖壁が見えるはずだ。
……しかし、周囲の木々の上には「広がる空をさえぎるような 崖」はどの方向にも見えない。
え? 俺って……事故現場から誰かに 拉致られた……とか?
状況が飲み込めない篤樹は、呆然としながらテレビでよく観る「ドッキリ番組」を想像した。どこかにカメラが 仕込んであるとか? 周りをもう一度見回す。ドローンで撮ってるとか? 空も見回す。しかし何も 人工物を見つけることは出来ない。
そりゃそうだよな……。一般人に怪我をさせるようなドッキリなんか、あるワケないもんな……。でも、じゃあ……ここは……
「誰かー! 助けてくださーい!」
大自然の中での孤独と 静寂に 耐え切れなくなった篤樹は、もう一度大声で叫ぶ。だが、応じる者は誰もいない。 辺りは「キーン!」と耳鳴りがするような静寂に包まれたままだ。
「ウヴォー!」
その静寂を 破り、突然、空気を揺らすほどの大声が響き渡った。篤樹は飛び上がって驚き、その場にしゃがみ込む。
なんだ? あの大きな音は?
吹奏楽部の 小平洋子が、全開で吹き鳴らすチューバを思い出させるような大きく響き渡る低い「音」に、篤樹は文字通り腰を 抜かしてしまった。足に力が入らない。体中の 関節がブルブルと震えるのを感じる。 怖い。でも一体なにが……
「音」が聞こえた方角の木々が揺れ始めた。やがて「何か」がこの広場に出てこようとしているのを篤樹は感じ取る。
何だ? 大きい……象?
木々の間に見え 隠れする大きな影を、篤樹はジッと目で追いかけた。森と広場の 境目に立つ2本の木をなぎ倒し、 突如姿を現した「それ」は……3mほどの背の高さの……「巨人」?
その姿を呆然と見つめ、篤樹は何とか現状を理解しようと思考を試みる。だが、真っ先に脳裏に浮かんだのは幼い日の記憶だった。
なんだ……あれは……。巨人? 小さい頃に父さんと観たアニメなら「小型」ってサイズかもしれないけど……
篤樹は混乱する頭の中で必死に情報を整理する。目の前に現れたのは人間ではない。だから大きくても「巨人」じゃない。
見えている 肌の部分が、まるでカビが 生えた食パンのような、緑と紫の気持ち悪いグラデーション……。服と言っても、ただなんとなく腰に布を巻いているだけのようなもの。顔は……とにかくグチャグチャ! まるでロウソクの 蝋を、何の規則性も無く 滴らせて固まらせたような……デコボコに溶けかかっているような……そして両手で 握っているのは……大きなハンマー!
突然の出来事の中、巨大なハンマーの頭を見ながら、篤樹は運動会の応援合戦で 牧野豊が叩いていた 大太鼓を思い出した。
大きな木を2本同時になぎ倒す 威力を見せつけたハンマーを持つバケモノ……モンスター……怪物……何なんだよ!「あれ」は!
篤樹は自分が腰を抜かしている状態だと気がついた。とにかくアイツはやばい。何なのか分からないけど、とにかくヤバい! 逃げなきゃ!
「それ」は広場まで出てくると、何かを探すように顔を左右に向けながらゆっくりと歩き出した。篤樹は声を出したり、無理に立ち上がったりしないほうが良いと考え、しばらくジッと動かずに様子をうかがう。
風が正面から……あのバケモノのいるほうから吹き抜けて来る。篤樹は思わず鼻をつまんだ。クサい! どうやら風が「それ」の 体臭を運んで来たようだ。
まるで母さんが買い物袋から出し忘れて、缶詰と一緒に台所に置きっ放しにしていた鶏肉が 腐った時の匂いのような、気分の悪くなる腐敗臭……
「それ」は目が悪いのだろうか、広場のほぼ真ん中にへたり込んでいる篤樹にまだ気がついていないようだ……
気がついてはいないようだが、一歩、二歩と前進して来る。ただ歩いてるだけだろうが、このままだと二十歩も進まない内に篤樹のいる広場の中央まで来てしまう……マズイ!
篤樹は 手探りで何か無いかと探した。右手の指先に何かがコツンと当たる。指で 手繰り寄せてみると、ピンポン球くらいの大きさの石だ。 焚き火でもしたような少し 焦げた色をしている。
音を立てないように篤樹はゆっくり立ち上がった。どうやら「あれ」は目が悪い。でも、耳は聞こえているようだ。恐らくさっき助けを求めた篤樹の声に引かれてここまで来たのだろう。それなら……
右手に小石をしっかり 握った篤樹は、バケモノの左側……対面している篤樹から見て右側の木々に向かい小石を投げる。
あの石が落ちたら音が聞こえるはず。その音にアイツが気づいて向きを変えて動き出せば、逃げるチャンスが出来るかも……
ガサッ、コン、コン……
石が落ちた音は思ったよりも大きく、ついでに、何かに 跳ねて 転がってくれたようで、 狙ったより遠くまで「音」が続いていく。「それ」はその音を聞き 逃さなかった。
「ウガー!」
叫び声を上げると、音が聞こえた木々に身体を向け、早足でドスドスと歩きだす。篤樹もその機会を見逃さなかった。
バケモノの声と足音に合わせて一歩、二歩、三歩……と後ずさりながらバケモノとの距離を広げる。再び静寂が 訪れた。
やつはまた「見失った 獲物」を探している様子だ。一気に走り抜けて林の中に逃げ込みたいと思いながら、それでも篤樹は 慎重に、今度はバケモノに背を向けて一歩、二歩、三歩……と進み始めた。足元にさっきと同じくらいの石がある。
良し! 篤樹はゆっくり 屈んで石を拾うと今度はバケモノの背後、篤樹から見て左側の林を目がけそれを投げた。アイツが動くタイミングは分かった。今度はもっと遠くまで……
ガサッ、コン……
狙い通りの場所に小石を投げ込むと、その音に気づいたバケモノは背後に向き直り、小走りで近づいて行く。
うわっ! さっきとタイミング 違うし!
篤樹は 焦りつつも、バケモノの動きを 見極め、先ほどより数歩遠くまで後ろ向きのまま移動した。ここまで離れていれば少しくらいの足音ならもうアイツにも聞こえないだろう。
バケモノに背を向け、いつでも全力で走り出せる 体勢を維持しながら、篤樹は 慎重に一歩、二歩と目の前の林へ進み出した。
正面の林からスーッと風が吹きつけてくる。汗の滲んだ額に心地良い風だと篤樹が感じたその直後……
「うがー!」
アイツがこっちに向かって 駆け出してきた!
え? なんで……
グチャグチャに溶けたような、バケモノの顔面中央にある「二つの穴」が、離れていてもそれと分かるくらいに大きく広がっている。
鼻……?! 匂いでばれたんだ!
篤樹はすぐ後ろまで 迫ってきたバケモノの 激しい息遣いを感じながら、目の前の林に向かって駆け込んだ。
林の中を右に左に、篤樹は必死に駆け抜ける。
クソー! 走りにくいよぉ!……とにかく、あのバケモノは普通じゃない! なんであんなのがいるんだ? ここはどこなんだ?
ソイツは森の木々をなぎ倒しながら篤樹を追い続けて来る。混乱する頭の中を整理する間も無いまま、とにかく篤樹は走り続けた。
不意に目の前に開けた場所が現れる。中央には他よりも幹の太い樹があった。その樹の陰に駆け込み、息を整える。
大丈夫か……?
バケモノが追ってきていないか、ソッと顔を出し確認する。大丈夫……振り切れた!
篤樹はバケモノの姿が見えないのを確認し、安心して樹の陰に身を隠す。だが……その目の前にあのバケモノが立っていた。
「ア、アアアー!」
堪えきれずに、篤樹は声にならない声で叫んでしまう。
あれ? 俺、なんか変な声が出ちゃってる……
バケモノが巨大なハンマーを振り上げた。まるでスローモーションのようだ。テレビの「スーパースロー再生」ってやつだっけ? 拳銃の銃弾が、日本刀とぶつかって真っ二つに割れるシーンとかってあったよなぁ。あれ? こんだけゆっくりならあのハンマー 避けられるんじゃね? それにしてもホントに変な顔のバケモノだなぁ……あ、ダメだ、俺の体が動かないや。俺もスーパースロー再生状態なのかなぁ? ん?
時間にして数秒も無い「死を感じる瞬間」に、篤樹は色々な思いが頭の中を駆け 巡る。次の瞬間、突然、目の前のバケモノが 砕け散った。
太い木の根元にもたれかかり、篤樹はヘナヘナと座り込む。目の前には砕け散ったバケモノの 肉片と、その上に「ドスン!」と落ちる巨大なハンマー。その先には……
「あなた、誰!」
「え、あ……え?」
「あなたは誰だって聞いてるの!」
バケモノの 残骸を挟み、篤樹をにらみつけている不思議な雰囲気の少女―――
なんだろう? 何となく違和感が……
「あ……あれ? き、君が助けてくれたの……」
「質問に答えて、人間!……あなたは誰? 人間でしょ! なんで人間がここにいるの!」
篤樹は、自分が助けられたということを理解し「ホッ」とすると同時に、目の前に現れた少女を見て急に 嬉しくなって来た。
一言でいえば「アイドルグループ」の1人のような整った顔立ち。2次元少年の卓也が見たら、絶対に「1枚写真を 撮らせて!」と頼みそうな、不思議な服装をした可愛らしい女の子。何年生だろう? 俺と同じ位?
エメラルドグリーンの長い髪……その側頭部の髪から飛び出しているのは……明らかに「人間」とは違う大きめの 尖った耳……え? 耳が……
「ここは私たち『ルエルフ族』の 領域の森よ! なんで勝手に人間が入って来てるの! 腐れトロルまで一緒に!」
「腐れ……トロル?」
「それよ!」
少女は砕け散ったバケモノの肉片を指差した。その指先をそのまま篤樹に向ける。
「答えなさい! あなたは誰にこの森への入り方を聞いてきたの? 一体、何の用があって来たの!」
矢継ぎ早に問い詰める少女の声と 剣幕に、篤樹はすっかり気持ちが折れてしまった。
何のために? どうして? そんなこと……こっちが知りたいのに……。どうやって来たか? どうやったら帰れるのかを教えてくれよ……
少女からの 詰問を受けていた篤樹は……突然、泣き出した。
自分でもどうにも抑えられない。可愛い少女の目の前なんだから我慢しなきゃ……知らない子の前で……これじゃ俺……ホントに変な奴だと……だけど、どうしようもない! だって、どうすれば良いのか、何が起こったのか、何にも分からない不安と恐怖で心が張り裂けそうなのだから……もうすぐ15歳にもなろうってのに……こんな馬鹿みたいに声をあげて泣くなんて情け無いよ……でも、涙と声を出し尽くさないと、もうどうしようもないんだ!
篤樹はまるで「 幽体離脱」でもしながら、自分を「外」から見ている不思議な感覚のまま、とにかく全身を震わせ泣き叫んだ。
ルエルフの少女は突然泣き叫び始めた篤樹に向かい「やめなさい! 黙れ人間! うるさい! やめろ!」と、最初の内こそ黙らせようとした。だが、その内にあきらめ、 駄々っ子のように地面を転がりながら泣きじゃくる篤樹の姿を呆れ顔で黙って見下ろし続けていた。