第 175 話 大河と長城壁
「アッキー……危ねぇから後ろで休んでな」
スレヤーの声が突然耳に飛び込み、篤樹はハッとした。無意識にブルッと身を震わせると、両手がジワッと 痺れたように血流を感じる。
「あっ……すいません……ちょっとボンヤリしてて……大丈夫です」
慌てて答えた篤樹に、スレヤーは続けて語りかけた。
「無理すんなって。前に寝ぼけた兵が御者台から落ちて、貨車の車輪に頭潰されて死んじまったのを見た事があるぜ。ありゃ……まあ悲惨な死に方だったなぁ。自分の命と周りの迷惑を考えるのも大事なチームワークだ! いいから後ろで休みな」
篤樹はスレヤーの心遣いと「体験談」に促され、申し訳なさそうに応じる。
「じゃ……すいません……」
ひと言告げ、御者台から幌の中へ篤樹は移動した。
「お? じゃあ、俺が交代してやろう!」
誰からも相手にされず、退屈そうに何かの本をパラパラめくっていたミゾベが、篤樹と入れ替わるように御者台へ移動する。
「ちょ……俺ぁ、アッキーに後ろで休めっつっただけで、曹長を招いたわけじゃねぇですよ!」
スレヤーは思わぬババを引いてしまったことに焦りつつ、ミゾベの移動を何とか固辞しようと声を上げた。
「いいよ、気にするな伍長! 俺も少しばかり風に当たりたくてな。いやぁ、やっぱり気持ちいいもんだなぁ御者台は! 俺も新人の頃はよく御者役をやらされててな……」
スレヤーの態度にもおかまい無しに、ミゾベはベラベラと話し始めた。
スレヤーさん……なんだか……すみません……
篤樹はチラっと顔を向けたスレヤーに申し訳無さそうに会釈をすると、荷台の空いているスペースに腰を下ろす。
レイラの太ももを枕にし、エシャーは身体を横向きの体勢で熟睡している。レイラも珍しく貨車の壁に背を預け、目を閉じたままだ。眠っているのか、それとも「フリ」なのかは分からないが、篤樹が移動してきた気配にも特に何の反応も示さなかった。
ミゾベはまだスレヤーに顔を向けて何かを話し続けている。篤樹はひと時飛んでいた眠気が再び襲って来たのを 瞼に感じた。とりあえず目を閉じ、呼吸を整える。
さっき……何かの夢を見ていたような……何だったっけ? ああ……そうだ……生徒会長の江口……アイツは……いつの時代に……飛ばされ……たんだ……
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「賀川ぁ! 卓也見なかったかぁ?」
2年2組の教室後方扉から駆け込んできた 江口伝幸は、息を切らしながら篤樹に尋ねた。
「ん? 卓也? アイツならとっくに帰ったぜ」
篤樹は英語の課題プリントをクリアファイルにクシャッと入れながら答える。
「江口君、廊下走ってきたんでしょお? ダメだよ新会長が廊下走っちゃ!」
その様子を見て、教室に残って課題をやっていた女子何人かが冷やかしを入れた。
「緊急事態の場合は良いの! 特例だよ特例!」
江口は笑いながら女子たちに答え、視線を篤樹に向け直す。
「マジかよ……アイツに頼んでた文書データ、今日印刷かけないとまずいんだけど……」
篤樹は学用品をカバンに詰め終え、江口に顔を向けた。
「廊下を走る元気があるんなら、アイツん 家まで走って行ってくれば?」
「んだよぉ、それ……あ! そうだ賀川! お前さ、チャチャッと行って来てくんない? 俺よかぜってェ足速いんだからさ!」
明らかに冗談だと分かる口調で江口は篤樹に提案する。
「ばぁか! 俺は今から部活だよ。大会近いから、最近は最初っから岡部の監視付きなんだよ。遅れられないの!」
まるで登山にでも行くかのような重量のあるリュックを背負い、部活のスパイク袋を右手に持った篤樹は、忘れ物が無いか机周りを確認しつつ答えた。
「そういや秋季大会の短距離代表になったってな? お前、ホント足速ぇもんなぁ」
「んなことないよ、たまたま調子が良い時期なんだよ」
先週の校内選手選考で過去最高のタイムを出した篤樹は、やっぱり誰かに評価されると当然嬉しい。でもあからさまに喜んでる姿を見せるのは何だか恥ずかしいし、かっこ悪いんじゃないかと思うと、気持ちとは裏腹な謙遜で答えてしまう。
「良いよなぁ、足速いのって……」
江口が物欲しそうに呟く。
「お前だって大会出るんだろ? 生徒会長と剣道部部長のダブルトップのほうが、よっぽどスゲェよ。優勝狙えるんだろ?」
「まあね。夏の全中じゃ個人で準々までしかいけなかったからなぁ。地区の大会くらいは軽く優勝狙うぜ!」
篤樹と違い、こちらは自分の実力に自信をもっている。篤樹は江口の「自信」を時々羨ましく感じる時もあった。
やっぱり、親が弁護士だかなんだかの立派な仕事で忙しいのにPTA会長までやってるくらいだから……そんな「手本」を見て育つとこんな風になれるんだろうなぁ……ウチの親父とは大違いだ……
「賀川ぁ、何のんびりしとるんじゃ? もう岡部が来とるぞぉ!」
教室の前の扉からジャージ姿の高山遥が顔を覗かせ声をかけて来た。
「ゲッ! マジ?」
篤樹は慌てて机の列の間を縫うように移動する。遥は篤樹と話していたのが江口だと気付くと、突然、驚きの表情を見せた。
「あっ! えぐ……スマン! 赦せ! 先に謝る!」
「なんだよ高山ぁ、意味不明」
遥から投げかけられた突然の謝罪に、江口は面食らいながら応じる。
「相沢から預かり物があった! おぬしに渡せと!」
「はぁ? 卓也から? 何?」
「何かUSAとかいう小さい機械じゃ、ほら、パソコンの……」
「USBだろ?」
篤樹は教室前扉から廊下に出ながら、遥の間違いを訂正した。
「おお! それそれ! ウチのカバンの中にあるんじゃけど……部室にな」
江口は一瞬何を伝えられてるのか分からずポカンとしていたが、すぐに内容を理解する。
「卓也の……USB?……ああっ! お前……それ探してたんだよっ!」
江口も前扉へ駆け出した。結局、江口も含めた3人はグラウンドを目指し、廊下と階段を猛ダッシュで駆け抜け……1階でついに生活指導教諭に全員御用となってしまった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……アッキー、寝過ぎだよ」
篤樹はエシャーに身体を揺らされ目を覚ました。途中で何度か目を開けた記憶があるのだが……馬車の心地好い揺れのせいか、今は深い眠りに入っていたようだ。エシャーに起こされているのだという状況を理解しつつも、瞼を開き続けることが出来ない。
「ねぇ……アッキー……起きろー!」
エシャーはついに両手で激しく篤樹を揺らしながら大声を上げる。これにはさすがに身体と意識が応答した。
「え? 何? エシャー……どうしたの?」
「もう!」
エシャーは何とも不機嫌な表情だ……というより、エシャーも少し寝ぼけた目をしている。
「アッキーも起きたかぁ?」
御者台からスレヤーが呼び掛ける。
「大丈夫よ。二人ともしっかり目が覚めたわ。おはよう、お寝坊さん達」
レイラはスレヤーに答え、そのまま篤樹たちに語りかけた。
「あ……すいません……なんか気持ちよくって……もう着くんですか?」
「あと小一時間ってとこだなぁ」
レイラに問いかけた篤樹の質問に、やはりミゾベが答えて来る。
「キミら二人は昼間っからよく寝るねぇ。若いってのはいいもんだ。起きたいだけ起きていられるし、眠りたいだけ眠り続けられる。おじさんくらいの歳になってくると、もう身体がついて来ないよ。起きていたいのに眠気は来るし、せっかくの休みの日でもいつも通りに目が覚めて……」
「アッキー、エシャー。こっちへいらっしゃい」
話し続けるミゾベの声を無視して、レイラは二人を貨車の後方に招く。幌の開きから見える西の空はすっかり茜色に染まっていた。
「なぁにレイラぁ……」
「何か見えるんですか?」
エシャーと篤樹は膝立ちのままで後方へと移動する。
「あ……河だ……」
篤樹は幌の開きに顔を近づけると、馬車の進行方向左手に大きな河が流れていることに気づいた。
「大きな河だねぇ……」
エシャーも驚いた様子で眺めている。馬車と同じ方角にゆったり流れている大きな河は、2人の眠気を完全に吹き飛ばすほど雄大な眺めだった。王都への東西街道も、今は馬車5~6台が並走出来そうな大通りになっている。その街道が細道に見えるくらい、並行して流れる河幅は広かった。見た事も無い水鳥が岸に近い河面にプカプカ浮かぶ河の中央付近には、 幾艘かの舟も往来している。
「エグラシス大陸の母なる大河……ヤゼル大河よ」
貨車の枠板につかまり外を眺める篤樹とエシャーに、レイラが解説する。
「ブラデン山脈とエグル山脈から流れる幾筋もの支流が、途中で合流しながらこの大河になっているの。エグデン平野の中央まで1本の大河として流れ、やがてテリペ川とユーラ川に分かれ東の大海につながる……1000年前のエグデン王国建国以来、そのヤゼル大河分岐地帯に王都は据えられてるわ」
流れのさざ波に夕陽の茜色をキラキラと反射させつつ、ゆったり流れる大河はまるで溶岩流のような力強い美しさを感じる。
レイラが静かなハミングで歌い始めた。沈みゆく夕陽に染まる茜色の果樹園や畑……真っ直ぐに続く街道……並行して流れる大河ヤゼル……篤樹はまるで音楽の授業で鑑賞した名曲動画を観ているような気持ちになる。
ゆったりとしたワルツ調のレイラのハミングは、何ともこの景色に溶け込むBGMに感じた。いや……このイメージ……この曲……あれ?
「レイラさん……」
「なぁに?」
ハミングの心地好い余韻を残したままの口調でレイラが答える。
「すみません……あの……今の歌?……曲?……なんていう曲なんですか?」
レイラは不思議そうに首を傾げた。
「さあ? なんだったかしら? 王都で何度か聞いた事のあるメロディーよ。気に入った?」
「私も好き! 今の曲」
エシャーが笑顔で答える。
「あ、はい。良いメロディーですよね……景色によく合ってて……。ただ……なんとなく聞いた事があるメロディーだなって思って……」
篤樹の返事にレイラは笑顔を見せた。
「別の世界に住んでいても、大自然に対する感動は同じように抱くんじゃなくて? 似たような景色を見た感動を、似たような感性で表現すれば、似たような音楽が生まれるのも不思議じゃないわよ」
そういう……ものなのかな?
レイラの説明を否定する気はもちろん無いが、自分の記憶の中に埋もれていたメロディーとあまりにもピッタリ一致するレイラの歌声を、何だか「別の曲」としては認識出来ない。
考え込み黙っている篤樹を気にせず、レイラはまた先ほどのハミングを始めた。やはり、目の前の景色が映えるBGMだ。馬車の車輪から伝わるガタゴトとした不定間隔の振動も、楽器の音色のように聞こえて来る。
やがて、河の対岸や街道沿いにポツポツと建物が見え始めた。建物と建物の間隔が少しずつ狭くなってくる。街道とヤゼル大河の間にも建物が増え始め、気がつくと河の姿も見えなくなっていた。
「王都に入ったのかなぁ?」
エシャーが町並みを見渡しながら呟く。
「ここは壁外地区よ。前を見て御覧なさい。もう王都の防御壁が見えてるはずよ」
篤樹とエシャーは貨車の前方に移動する。気配に気付き、御者台のスレヤーとミゾベが振り返った。その身体の間から、前方に巨大な「壁」が広がっているのが見える。
「おう、2人とも。初めてだろ? あれがエグデン王都の防御外壁……人呼んで『長城壁』さ! どうだ? ビックリするくれぇデケェだろ!」
スレヤーの紹介を聞くまでもなく、篤樹とエシャーは王都外壁の大きさに圧倒されていた。
10階建てのビルほどもある高い壁が、前方にそびえ立っている。左右の幅は馬車の中からは確認出来ないほど広い。その巨大な壁は今、わずかに残った夕陽を上部3分の1ほどに受け、まるで赤と黒の2層彩色をした山脈のように見える。そのあまりにも巨大な建造物に、篤樹は言い表し得ない恐怖心さえ覚えつつ、呆然と見入ってしまった。




