第128話 チョコレート
ここは……どこだ……
エグザルレイは 瞼にチラチラ当たる光と影の点滅に気付いた。
何だ……どうなったんだ……私は……
目を開けなければ、という意識はある。しかし 瞼を開くという「肉体の指示」が上手くいかない。どんな指示を出せば瞼が開くのか、どのように力を入れればよいのかが分からない。
やがて、瞼を開こうとする本能的な意識だけでなく、自分が宿っている「肉体の存在」を思い出す。首筋が在り肩が在る。左右の腕、腹部と腰、両足からその指先まで、自分という存在が「活動するための器」を持っている感覚に意識が向く。しかし……
目が……開かない。腕も…… 脚も指も……。私は一体……どうなったんだ……
目覚めた意識と肉体との接続が 上手くいっていない状態に気付き、エグザルレイはパニックに 陥り始めた。必死で自分の意識を保ち続け、とにかくまぶたの「裏」で見えている光と影の点滅を見つめる。
身体の……動かし方が分からない!
「おや? 意識が戻ったのかい?」
突然聞き覚えの無い声が、外部からの大きな 刺激となってエグザルレイの意識に飛び込んで来た。
誰だ……一体……クッ!……動かない……何も……
「意識はあるけど動けない……か……。『 金縛り』って感じなんだろうな……」
カナシバリ? 何のことだ……一体……
「エグザルレイ…… 君だっけ?……エル……で良いんだよね? 聞こえてるんだろ?」
聞こえてる……クソッ! どうすれば……
「そうとう 焦ってると思うけど……とにかくまずは意識を落ち着かせなさい。良いね? 意識が落ち着いたら、とにかくイメージをしなさい。自分の身体の中のイメージ…… 君の脳……君の頭の中にある肉体に指令を送る部分だ……君は今、その『脳の中だけで』目覚めている」
頭の……中で?
「その脳からは『神経』が……うーん……そうだ! 糸のようなモノが何本も伸びているんだ」
シンケイ? 糸?
エグザルレイは、意識に飛び込む声に従い、自分の頭の中をイメージをする。
「いいかい? その糸は10や20じゃない、何百も何千もの細い糸だ。その1本1本が君の体中に伸び、張り巡らされている。ある糸は 瞼に、ある糸は腕に脚に、さらに両手両足の指に、関節に、筋肉に肌に……。その1本1本を通して『頭の中の君』が指示を与えれば、それぞれの場所が反応を開始する……そんなイメージをして1本ずつ 解きほぐしていきなさい」
声に従う他どうしようもない事を受け入れ、とにかく、指示に従いイメージを深めていく。
「…… 焦る必要は無いよ……ここでは……時間は充分にあるから……」
意識のみ 覚醒したエグザルレイは「外からの声」が導くまま、体中に張り巡らされているという1本1本の糸を 探り始めた。
どれだけの時間が経っただろうか……ある瞬間、エグザルレイはイメージした糸の先にある部分に「動き」を感じた。手の指先がピクッと反応をする。その動きが突然、全ての糸を 振るわせ始めた。
身体の全ての感覚を突如取り戻したエグザルレイは「カッ!」と目を開く。まぶたに感じていた光と影の点滅は、 木漏れ陽が枝葉を通し注いでいるものだった。しかし、エグザルレイには今、それを冷静に確認するという余裕は無い。突然の指示に 驚いた全身が痙攣を起こして震え、大きく 弾かれ飛び跳ねる。
「うわぁー!」
肉体の生命活動から突然襲われ、恐怖を感じ、エグザルレイは意識せず上半身を起こした。意識とつなぎ合わされたばかりの肉体は、その接合に反発するかのようにまだ 小刻みに震えている。とにかく怖い……怖い……恐怖心に襲われながら見開いた眼で自分の足を凝視し、自分自身を押さえつけるように両腕で強く抱きしめながら叫び声を上げ続けた。
「……そうなっちゃうんだぁ……驚いたな……」
エグザルレイは「その声」に反応し、叫び声を上げる行為を必死に止める。
「おめでとう。やっとつながったんだね? 意識と肉体が……」
声が聞こえたのは……左?
つながったばかりの意識と肉体を確認しつつ、声の聞こえた左側へゆっくり顔を向けた。そこには自分より少し年上の……30歳前後と思われる男がにこやかに立っている。その手には、木製のカップが1つ 握られていた。
「ア″……ア……」
声が出ない。しかしそれは意識と 声帯がつながっていないからではなく、まるで何かが喉に張り付いてしまっているような乾燥による違和感だと感じる。
「水だよ……飲みなさい。少しずつ……ひと口ずつゆっくりと……」
男は木製のカップをエグザルレイに差し出した。勧められるままに手を動かしてみる。もう、意識と肉体の 別離感は感じない、が……その腕はエグザルレイにとって見覚えの無い 異物のような姿だった。まるで枯れ枝に 皮膚を巻きつけたかのように細い腕……これが……私の腕?
「色々とショックがあるだろう。だけどまずは 喉を 潤しなさい。さあ……」
男は 屈むと、カップをエグザルレイの 口元につけ傾けた。数滴の水が口中に入るが、まるで舌と 歯茎がその水滴を全て吸収してしまったかのようで喉まで到達しない。続けて傾けられた2口目で、ようやく喉に水が流れ込む。喉に何かが張り付いているような違和感が解消された。3口目を傾けられた時、エグザルレイは男からカップを 奪うように受け取り、あとは身の欲望のまま「ゴクゴク……」と音を立てながら水を喉に流し込んだ。
「ゆっくりでって言っただろ?……まあ、大丈夫か……お代わりは要るかい?」
エグザルレイは 空になったカップを男に渡し 頷く。とにかく水を飲みたい。喉だけでなく、身体全体がまるで 乾き切った砂漠のように感じている。
「一応……内臓器官に負担がかからないよう、保護魔法は施しておいたけど……欲するままの暴飲暴食は 控えなさい……まずはこれを……」
男は 懐から、見慣れない茶色く 薄い板のようなものを取り出した。手の平サイズほどのその「板」の 端を、男は指先程度の大きさに 割ると、怯えた目で見ているエグザルレイの口の中へ押し入れる。思わず舌の条件反射でその「異物」を押し出そうとしたエグザルレイに男が告げる。
「大丈夫だ。食べてごらん……元気になるから」
信頼できる者の指示だと認識する意識と、「異物」を口中に含む事への不安が 葛藤したが、エグザルレイは声に従う事を決断し、意識的に「それ」を口中に受け入れた。
「それ」は今まで味わった事の無い甘みとほのかな苦味、そして固形であった物が口中全体に溶け渡り、薄い 膜のように口内壁を覆う不思議な食感……。渇き切っていた口中に 唾液が 溢れ、その薄い膜を洗い流すように溶け合い、喉を伝わり胃の中へ 溜まっていく。数回「洗い流され」ると舌上に感じた味は薄れたが、その甘みと 心地好い苦味、そして不思議な香りが口の中にいつまでも残っている。
「さあ……もうひとかけら」
その様子に満足したような笑みを浮かべ、男はさらに、先ほどより少し大きめに「それ」を割るとエグザルレイの唇に押し当てた。与えられた「異物」が安全で心地好い「食物」であると知った口は、今度は吸い求めるようにそれを受け入れる。
「これは、この世界ではまだ作られていない食べ物らしいね。お菓子屋さんでも始めれば 大儲けなんだろうな……『本物』とは少し違うけど、充分に『チョコレート』だと思える味になったんだ。おいしいだろ?」
男はエグザルレイを見つめ、無邪気な笑みで 尋ねる。
チョコレート? 何だ……それは……初めて聞く名前の食べ物だ。でも……とにかく 美味しい! 口一杯に 頬張りたい……
エグザルレイは微笑む男を落ち 窪んだ目で凝視しながら、口中の不思議な心地好さに口を動かし続けた。
「その顔でそんな風に見られると……かなり 怖いなぁ……さぁ、今はこれで最後だ。どうぞ」
男はエグザルレイの口に、先ほどと同じ位の大きさのチョコレートを割り入れると、エグザルレイから受取った木のカップを手に水のお代わりを注ぎに行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「えっ!? チョコレート!……食べたんですか? ここで……この世界で?」
篤樹はエルグレドの口から飛び出した「耳慣れた食品名」に、思わず大きな声で尋ねた。
「なぁに? その『チョコレート』って……」
エシャーも興味をもって尋ねる。本能的に「美味しい食べ物」だと認識したのだろう。レイラとスレヤーはお互いに目線を合わせ、首を横に振った。
「私達も……知らない食べ物ね」
「大将の話だと……それは薬の一種ですかい?」
エルグレドは微笑みながら篤樹を見つめる。
「薬……ではありませんよ。ね? アツキくん」
レイラ、スレヤー、エシャーの視線が篤樹に向けられる。
「あ……はい。『薬』じゃなくてお菓子です……子どもから大人まで好きな……」
「でも、元々は薬のようにも考えられていたんですよね? 薬草のように」
「えっ? そうなんですか?」
篤樹の返答に対し、エルグレドが少し勝ち誇ったように補足を入れた。
「……そうおっしゃっていましたよ。『昔は恋の 媚薬とか強壮薬にも使われる高級なものだったらしい』と、彼は教えてくれました」
「……あ……でも……確かにそんな話も聞いた事があります! ただ美味しいお菓子っていうだけじゃなくって……雪山で 遭難した時とかに食べて助かったとか……元気になるとかって……」
篤樹も記憶を 辿り、チョコレートの情報を 搾り出す。ほとんどがテレビで観た記憶に過ぎないが……それよりも!
「あの! エルグレドさん……その人は何でチョコレートを持ってたんですか?……こっちの世界には無い食べ物を……」
一同の視線がエルグレドに戻される。エルグレドは嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「そうですね。この世界には無い植物が原料のお菓子らしいですね。でも彼はその植物に似たものを『創り出した』そうです。長い時を1人で過ごす『あの森の中』で……。彼は持ち 得る知識や経験を元に、あの森の中で多くの不思議な術を見せてくれましたよ」
「『あの森』って?」
レイラがエルグレドの言葉を聞き逃さず問いかけるが、エルグレドはその問いには直接答えず、ただ微笑みを見せた。そして、当時を思い出すように少し間を置き気持ちを整えると篤樹に語り掛けた。
「アツキくん。『ミツキさん』を御存知でしょう?『スギノミツキ』さん。アツキ君のドウキュウセイの方……ですよね?」
え?……ミツキって…… 三月?……は?……なんでエルグレドさんが?……え?
エルグレドの口から唐突に飛び出した級友の名に、篤樹は混乱する。まるで、県外に家族旅行をした先のレストランで同級生にばったり 遭遇した時に、思わず二度見三度見をしてその存在を確認するかのような、突発的なパニック状態……しかし目の前の事実を理性的に受容出来た時、混乱は困惑に変わる。
「 三月知ってますよ! そりゃ!……同じクラスだし……ずっと友達だし……この前も 亮と一緒に卓也の家で集まって遊んで……え? まさ……か……」
篤樹は自分の中に在る「杉野三月の姿」を思い出しながらエルグレドに答えた。そう……修学旅行の前に卓也の家でダラダラと男4人で過ごした時間……ゲームをする篤樹と勉強机の椅子に座り篤樹にゲームの説明をする卓也……卓也のベッドの上に座って漫画を読みふけっていた亮と三月……何気ない日常の姿がまざまざと思い出される。
確かに……亮も……盗賊の村で高木さんと一緒にいた……いい歳の「中年夫婦」として……。それに卓也は……300年も昔に、有名な法術士になっていたらしい……もう……とっくに死んでしまったとか……。じゃあ……三月は……800年前に?
エルグレドは、篤樹が自分の中で情報をまとめるだけの時間を待ち、言葉を続けた。
「ミツキさんに……私はその森の中でお会いしてたんです。……もう……ずいぶん昔の話にはなりますけどね。……彼のおかげで、今の私が在ります」
「じゃあ……何ですかい……」
エルグレドの話が大きく 転換した事に言葉を失い、 呆然としている一同の中、スレヤーがようやく口を開いた。
「その……約束破りの 卑怯なエルフ野郎……っとスミマセン……北のエルフ兵に森の中で攻撃されて倒れたところを……その……アッキーのお友達とやらに助け出された……ってことですか?」
スレヤーは兵士・戦士として絶対に許す事の出来ない 騙まし討ちをしたエルフ兵に対する怒りを込める余り、うっかり、エルフ属に対する 蔑称を口走った事を後悔しながらチラリとレイラに目を向けた。しかし、レイラは意にも介さない様子でエルグレドの返答に注目している。
「いえ……そうではありません。この話は……もう少しだけ複雑なんです……」
エルグレドはカップに残っていたピピを飲み干し喉を潤すと、改めて口を開いた。




