プロローグ
陽の光も 遮られる薄暗い森の中を、賀川篤樹は走り続けていた。
くそっ! なんだよあのバケモノは! それに……ここはどこなんだよ!
追いかけて来る「なにか」から逃げ込んだ森の中―――落ち枝や蔓草に足を取られては何度も転び、身に着けている学生服は泥だらけになってしまっている。中学2年生になって急に伸びた背に合わせ、冬休みを前にとうとう新調した学生服。まだ半年も着ていないのに「新しさ」は見る影もなくなってしまった。
『卒業するまで大事に着てよね! 学生服って高いんだから……』
母の言葉が頭の中を 巡る。「卒業まで着れるように」と入学時に両親が選んだワンサイズ大きかったはずの学生服―――丁寧に畳みながら「予定が狂ったわ……」と父に愚痴る母の声。しかしそれは、決して文句を言ってるわけではない。「我が子の想像以上の成長」を単純に驚き喜びつつ、想定外の出費に苦笑いを浮かべていた両親の姿―――
帰ったら母さんに叱られるだろうなぁ……
篤樹は呼吸が苦しくなり、心臓を掴むように、制服の胸ボタン辺りをギュッと握り締め走り続ける。酸欠でボンヤリし始めて来た頭に不安がよぎる。
「帰ったら」って……帰れるのかなぁ……?
不意に目の前が開けた。他の木々より樹齢を重ねた大樹が1本、その開けた地の中央に立っている。篤樹は大樹の裏へ回り込み、太い幹に背中を預けて身を隠した。
激しい鼓動に脈打つ血管の音が、鼓膜に「ドドン、ドドン」と響いている。自分の呼吸音が森の静寂を破る騒音のように聞こえていた。
ついつい口で大きく呼吸をしてしまったせいで喉が乾燥し、吸い込む空気にさえ刺激され咳込んでしまう。
ヤバイ!「ヤツ」に聞かれてしまう。呼吸を整えなきゃ……
『口で呼吸するんじゃない! 鼻で呼吸するんだ!』
メガホンを通し運動場に響く岡部の叫び声を思い出す。保健体育の教師で陸上部顧問の岡部。体育の授業でも部活でも、とにかく異常なほどに走らされた。
小学生の頃には「呼吸を考えての走法」なんて聞いた事も無い篤樹たちにとって、岡部の「鼻呼吸指導」は意味不明の 難癖、横暴な大人による「 虐待行為」のように感じた。
自分が口で息をしてるのか、鼻で息をしてるかなんて考える余裕も無く、ただ何時間も無駄に運動場を走らされ続けた嫌な記憶。
入学最初の記録走がほんの少し速かっただけで、篤樹はほぼ無理矢理に岡部から陸上部へ入部させられた。好きとか嫌いとかではなく「従わなければならない 強権な大人」、授業でも部活でも毎日のように顔を合わせるしかない先生。しかし……
しまった……ついパニくって「口呼吸」だったせいだ。喉が痛い……気持ちを落ち着けないと……
篤樹は「頭で考えて」呼吸方法を変える。2年間の陸上部生活ですっかり「鼻呼吸」が身についていたつもりだったが、あんな「バケモノ」に追いかけられたせいで無意識に呼吸法が乱れてしまっていた。意識的に呼吸を整えると、篤樹の気持ちも落ち着きを取り戻し始める。
喉の痛みをこらえ、鼻から大きく息を吸い込み、ゆっくり口と鼻から吐き出す。「ゼェゼェ」と口を開いて荒く呼吸をするよりも、 幾分か「音」も小さくなった気がする。
そのまま、いつでもすぐに走り出せる体勢を維持し、なるべく長く大きく鼻呼吸で息を整える。少しずつ体全体に酸素が行き渡り始めたのを感じながら、篤樹は樹の陰からそっと顔を覗かせ、走ってきた方向を確認した。
大丈夫……追って来る気配はない……よし! 逃げ切れた! 陸上部なめんなよ!
静まった森の中、心臓の鼓動と、規則正しさを取り戻した呼吸音だけしか聞こえない。篤樹はようやく「考える余裕」が生まれた。
卓也ぁ。アイツは一体なんなんだぁ?
小学生時代からの親友、相沢卓也……ゲームやアニメに詳しく「二次元少年」と呼ばれている。悪い意味ではなく、その知識の広さと深さゆえに、男女を問わず重宝されている二次元情報提供者だ。
卓也の部屋でのやりとりを思い出す―――最新型のゲーム機もある卓也の家は絶好のたまり場だ。シューティング系ゲームで襲い来る敵をとにかく撃ち倒し楽しむ篤樹に、卓也が話しかけてきた。
『篤樹はRPGやんないの?』
『え? だってRPGって面倒じゃん! 色々考えなきゃいかんし。考えるの苦手ぇ』
ベッドに腰掛け語りかけて来る卓也に、篤樹はテレビ画面から目を離さず返事をする。
『RPGのストーリーも楽しめると思うけどなぁ……』
そうは言っても好き・嫌いは好みの問題だからなぁ……。RPGみたいな戦略系って気持ちが入る前にあきちゃうんだよなぁ……
つい2日前の出来事……修学旅行準備のため、部活も休みになった機会に卓也の家で久し振りに集合した放課後の記憶……クラスメイトの牧田亮と杉野三月、小学時代からの友人男子4人組でダラダラ過ごした時間……
篤樹は卓也の部屋を思い出していた。
テレビ台の横に、山のように積み上げられたゲームソフトのケースや攻略本。「二次元少年」と呼ばれる卓也らしい「そっち系のオタク」を思わせる本類……
その中の一冊の表紙を篤樹は思い出す。グロテスクに崩れた顔を持つ巨体の「モンスター」が、大きなハンマーを振り上げているイラスト。パッと目に入っただけだったが、「うえっ! 気持ち悪ッ」と感じたことで記憶に強く残ったのだろう。だが……
やっぱり「アイツ」って……「アレ」だよなぁ……
樹の陰から様子をうかがっていた篤樹は、「アイツ」が追いかけて来ていないのを確認すると、再び樹の陰に身を隠した。しかし……
振り向くとそこに「ソイツ」は立っていた。グロテスクに崩れた顔からは表情をうかがい知る事は出来ない。大きく肩を上下させながら荒い息を整え、篤樹の倍以上はありそうな巨体からは汗が薄っすらと湯気のように立ち上っている。「ソイツ」は、ようやく追い 詰めた 獲物を「もう逃がさない!」という決意を全身から滲ませ、巨大なハンマーを振り上げた。
え? やっぱり「コイツ」って……あのハンマーで俺を潰そうとしてるの? そんなの……絶対に死ぬじゃん……
完全に 虚を突かれた驚きと恐怖で、篤樹は疲労した身体を支える気力を失う。現実とは思えない光景に目を見開き、もたれた樹に体重を預けたまま、ズルズルとその場に座り込んでしまった。