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第24話 命名

第24話 命名


あのゲームでは「ケミー」さんとか、可愛いめの名前だったが、

アパートの住民はじめ、あのケミカルな猫を知る人物は全員、

彼女を「あのケミカルな猫」、「あれ」としか呼んで来なかった。

だって本当にそうとしか呼びようのない、嫌な猫なのだから。


「あのケミカルな猫」、俺は問診票にそのまま記入して提出した。

あのケミカルな猫の名前は「あのケミカルな猫」、それ以外にない。


「『あのケミカルな猫』ちゃん?」


獣医のおっちゃんもやはりこの名前を不思議がった。

そしてあのケミカルな猫のデカさと、バキバキの筋肉に驚いていた。

しかし、彼女が避妊手術を受けることは叶わなかった。

彼女はあまりにも歳を取り過ぎていたからだった。

それも獣医のおっちゃんにはまた大きな驚きとなった。


「立派な身体をしてはいるけど、もうおばあちゃんだから子供を産む事もないし、

手術はかえって寿命を縮めるだけかと…。

これからは穏やかな余生を送れるように、気を配ってあげましょう」


そう言って、獣医のおっちゃんは俺に、世話の仕方や、しつけ方、

それから今後の受診のタイミングなどを教えてくれた。



しつけの効果なのか、老齢による衰えなのか、

それからのあのケミカルな猫は少しだけ大人しくなった。

副業をする時、いつものようにキーボードの上に座ろうとするので、

俺は自分の膝を叩いて、彼女を呼んだ。

あのケミカルな猫は、変な鳴き声を返した。


「にょっ」


それ以来、俺の膝の上が彼女の定位置となり、

俺が仕事をするのを飽きもせず、じっと見入って過ごすようになった。


名波さんことあぇるぅすさんからは、子猫の写真を何度も見せられた。

そのたびに長々と自慢されて、もううんざりだし、

猫はあのケミカルな猫だけで十分だった。

時間の経過による毛の生え変わりと、繰り返されるシャンプーで、

だいぶ色は落ちて、普通の猫に近づいて来ても、

あのケミカルな猫は、まだまだ「あのケミカルな猫」だった。


名波さんがあんまりちょくちょくやって来るので、

そのうちアパートの住民らから、結婚を言われるようになったが、

それは違うと、俺たちは話し合って再確認し合った。

だって彼女から見たら、俺はあんたをめぐる恋敵でしかないのだから。


それから間もなく、名波さんことあぇるぅすさんに縁談があり、

さんざん泣いてごねていたが、家族によって故郷の神戸へと、

彼女の飼う猫達の群れの一匹のように、

車という箱に荷物と一緒にまとめて詰められ、強制連行されて行った。

実家で禁じられたのか、うざいくらいだった彼女からの連絡は途絶えた。

もちろん俺から連絡なんかする訳なんかない。



店は相変わらずヒマだったが、あれから俺の方にも環境に変化があった。

前に出した本がやはりヨーロッパで再び評価され、そこそこ大きな賞をとった。

それをきっかけに、日本の出版社から国内で本を出してみないかと誘われ、

新しく作品を書くことになったのだった。


新しい作品とは言っても、若い人向けの恋愛ものという依頼だったが、

コピペを繰り返したような日記のような毎日を送る、

枯れたおっさんなんかに、物語にするような、

華やいだ出来事なんかあるはずもなかった。

あるのはあんたとの間に流れたような、ただただくだらない思い出話ぐらいだ。


かつてはプライバシーを守る防波堤だった、あのケミカルな猫も、

今はそのまま俺の孤独になった。

膝の上からじっとモニタを見つめる彼女に、俺は話しかけるようになり、

色の染み付いた、艶のない、ぱさついた幾何学模様の毛を、

繰り返し繰り返し、撫でては自分の淋しさを実感した。


ゲームは終わって、連合のみんなは現実をまた歩き始めた。

らめーんさんやサーニャだって、過去と折り合いをつけて、乗り越えて、

今はもう新しい別の道を歩いている。

なんだか俺だけがあの頃のまま、取り残されたような感じだ。


どうして前を向いて歩かなければいけないの。

どうして過去を乗り越えなければいけないの。

どうして変わらなきゃいけないの。


俺は前なんか向きたくもないし、過去を乗り越えたくもない。

だってあんたは生きた、生身の人間として確かにこの世に存在した。

それをまるでなかった事のようにして、新しい道を歩きたくなんかない。

あんたは今も、少なくとも、俺の中にはまだ生きている。


取り残されたついでに、このまま踏みとどまってやるよ。

1日だって未来の話なんかしてやるもんか。

どれだけ環境が変わっても、俺自身は少しも変わらずに、

後ろだけを向いててやるよ…。

そう思うと、自然と書くテーマも絞られて固まって来た。


あのケミカルな猫は、言葉が、物語が、画面の上に消えながら流れて行くのを、

まばたきもせずにじっと見入っている。

言葉なんかわからないくせに、面白いのだろうか。

…面白いんだろうな、普段は多くを語らない飼い主がこれほど饒舌に話すんだから。


「ゲームとどっちが面白い?」


カラフルな幾何学模様を手でなぞりながら、俺は聞いてみた。

あのケミカルな猫はにょうと鳴いて振り返り、青い目で俺を見つめた。

その時、彼女の顔にあんたがぴたりと重なった。


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