僕の部屋に女の子が……
ドーンバルドには、城と町を取り囲む、背の高い壁がある。かつて、この国は、隣国と戦争をしていた時代があったらしいが、この物々しい壁は、その名残りであるらしい。アンネが統治者となってからは、隣国とも良好な関係が築けていたため、壁の取り壊しも検討されていたらしい。しかし、近年、魔物の増加と共に、その計画も中止せざるを得ない状況になってきたのである。何よりも、『あの者』たちの襲来に、備えなくてはならなかったのだ。
カタリナは、副官を連れて城壁の上を歩いていた。そこでは、町を守るために配備された兵たちが、物資の運搬や砲台の手入れなどを行っている。カタリナは、城壁における防備の状態を視察しに来たというわけだ。ちなみに、報告によると、城壁に備えられた砲台は、既に百基を超えているらしい。
「滞りなく進んでいるようだな……それで、魔導研究所の方から何か連絡は?」
「以前の任務で捕らえた、ミノタウロスの件についてですね? 魔装化には成功したそうですが、未だに制御するまでには至れていない、とか」
「やはり、あの猛牛を手懐けるのは、難しいか」
そう言ってカタリナは、苦笑いした。
「ですが、サイクロプスたちで構成された、タイタン部隊は、いつでも実戦に投入する準備が整っているようです」
「彼らは、頼もしい味方になってくれるだろうな」
「はい。それに、我々には『魔導要塞』があります。あそこは、我が国の有史以来、一度たりとも堕とされたことのない、難攻不落の砦ですからね」
「そうだな……」
これだけの備えがあるにもかかわらず、カタリナは、何処か浮かない様子であった。
これから迎え撃つ敵は、隣国の軍隊でもなければ、蛮族たちでもない。災害に例えられることもある程の強大な勢力、『霧の軍勢』と呼ばれる者たちなのだ。
霧の軍勢は、何処の国家にも属さない、そもそも人であるかさえ分からない、得体の知れない勢力であり、彼らに関する情報は、あまりにも少なすぎる。ただ、一つだけハッキリとしているのは、彼らの目的は、略奪や版図拡大などではなく、国そのものを地図上から消し去ってしまうこと。すなわち、それは、その国がこれまで築き上げてきたもの全てを滅ぼすことを意味するのだ。霧の軍勢とは、それ程までに強力なのである。
そのことを知っているカタリナからしてみれば、この程度の備えで本当に返り討ちに出来るのか? と、不安を抱かずにはいられないのだ。
それに……
カタリナは、町の方に目を向ける。かつては、明るく華やかであった城下町も、今は、活気が失われ、少し寂れてしまっていた。
この国は、間もなくして『霧の軍勢』に滅ぼされるんだ!
あの男の言い放った言葉は、最初は、単なる戯言とされていたが、近年における魔物の増加と共に真実味を増していき、噂が町中へと広まってしまったのだ。そのことに怯えたのか、民の中には、故郷を離れ、隣国へと逃れようとする者まで現れ始めたのだ。 しかし、それだけならまだ良かったのかもしれない。問題は、他にもあったのだ。
「ところで、徴兵の方は、どうなっている?」
城壁から外に出て、町へと向かう道中、カタリナがそう尋ねる。
「それが、思う様に集まっていないようですね。民の間では、陛下への不満が募っているためか、志願する人も少ないようで……」
そこまで言って、副官は、自らが失言したことに気が付く。
「も、申し訳ありません。つい、出過ぎたことを……」
もっとも、カタリナは、そのことを責めるつもりはなかった。
「口を慎め……と言いたいところだが、今、この場には、私たち以外には誰もいない。キミの意見を聞こうか」
「はい、では……民は、陛下が霧の軍勢の存在を頑なに隠し続けていることに対して、不信感を抱いているようです。兵が募らないのも、そのためかと」
「それは、もし公にしたりすれば、混乱は避けられんとの判断なのだろう」
「ですが……」
副官は、そこで言い淀んだが、やがて決心がついたらしく、こう続けたのだ。
「何も知らぬままその時を迎えるよりも、知った上でどうするべきか、民にも選ぶ権利はあるのではないでしょうか? もちろん、民の多くは、霧の軍勢に恐れを抱くでしょうが、少なくとも、私は、真実を知らされた時、騎士として、この国を守るという覚悟が一層強まりました。民の中にも、我らと同じ志を持つ者が現れるのではないでしょうか?」
「ふむ……」
カタリナは、彼女の言うことにも一理ある、と思う。陛下に対する批判の声は、日に日に増えている。ならば、真実を明らかにすることで、信頼を取り戻さなければならないのではないか? 少なくとも、今のままでは、何をしようにも彼らの協力は得られないだろう。カタリナは、その結論に至った。
「確かに、キミの言う通りだ。私たちは、もっと彼らを信用する必要がある。分かった、民に真実を打ち明けるよう、陛下に進言してみよう」
「はい!」
二人は、城へと戻るために、町の中を歩き出すが……
「おい、アイツは……」
「ああ、なんでこんな所をウロウロしてやがるんだ?」
「まったく、汚らわしいわ」
町人たちは、カタリナの姿を見るなり、隣に居る者たちとヒソヒソと話をしだしたのだ。彼らの目は、汚れた物を見るかのような眼差しであり、かつて尊敬の目で見られていたあの頃とは、まるで様子が違っている。
「カタリナ様……」
副官が心配そうに声を掛けるが……
「案ずるな、もう慣れたよ」
と、カタリナは、いつもの調子で返す。しかし、その表情は、何処か寂しげに見えた。
霧の軍勢の噂と共に、呪われた姫君のことも民の間で広まってしまったが、それ以来、かつて英雄として称えられていたカタリナの名声も地に堕ちてしまったのだ。魔物たちが増えているのは、この呪われた姫君のせいではないか、などと話す者まで出始める始末だ。
例え民にどのように思われたとしても、私は、この国の為に、騎士団長としての使命を全うするだけだ。そのことに変わりはない。カタリナは、自らにそう言い聞かせるが……
「……ッ?」
こめかみ辺りに鋭い痛みを感じる。何かが当たったようだ。
突然の出来事に対し、カタリナは、慌てて辺りを見渡すが、目の前に一人の少年が立っていることに気が付く。少年は、むすっとした表情でカタリナを睨み付けるが、その手には、小石が握られていた。
この子が、石を投げたのか?
「おい、キミ……」
カタリナは、少年に声を掛けようとしたが……
「ばけものめ! ぼくがころしてやる!」
そう叫んで再び石を投げつけると、何処かに走り去ってしまう。石が直撃した額から血が流れ出すが、カタリナは、ただ立ち尽くしているだけだった。
私が、ばけもの?
自分が普通でないことは自覚していたが、面と向かって、それも幼い子供に石を投げつけられてまでそう言われると、言いようの無い気持ちに襲われたのである。
この時、その様子を見ていた町人たちがざわつき始める。副官は、何か嫌な雰囲気を感じ取ったらしく、カタリナにこの場からすぐに離れるよう進言しようとしたが……
「ば、化け物め! この町から出て行け!」
少年に触発されたのか、周りで見ていた一人の男が叫び、石を投げつけてくる。
「そうよ、出て行きなさいよ!」
今度は、若い女が石を投げてくる。よく見れば、かつては、カタリナに憧れを抱いていた者だ。
「お前さえいなければ、俺達は、死なずに済むんだ!」
「そうだよ、平和なこの町に、化け物の軍勢を連れてくるんじゃないよ!」
「呪われた姫君に死を!」
「さっさと消えちまえよ! 存在自体が罪のゴミクズが!」
憎しみを込めた罵倒共に、次々と投げ込まれる石。カタリナの体に傷が一つ、また一つと増えていく。副官は、彼らをいさめようと立ち回るが、収まる様子はない。それどころか……
「カタリナ様、ひとまずここを離れましょう。カタリナ様……きゃあっ!」
とうとう、巻き込まれてしまい、彼女にも石が投げつけられていく。
カタリナは、彼らのことを怒る気になれなかったし、何も言い返さなかった。ただ、黙ったまま立ち尽くし、その身に投石を受け続けるだけだ。痛みなどまるで感じないが、様々な思惑が入り混じった感情が、カタリナを押し潰そうとするのだ。やがて、頭の中が真っ白になっていき……
私は、陛下の忠実なる僕……私は、暁の騎士団を率いる者……私は、民の剣であり、盾でもある……わたしは……わたしは……何のために彼らを?
わたしは……ばけもの……?
カタリナは、無意識のうちに剣の柄を握り締めていたが、その手を徐々に前に動かし、刃を鞘から引き抜こうとする……
「うわあああぁぁぁッッッ!!!」
絶叫と共に、カタリナは、悪夢から目を覚ます。
この時、同じ部屋で寝ていたシャーロットを起こしてしまったらしく、驚いた彼女は、急にガバッと起き上がる……が、何故かベッドから飛び出し、壁に立てかけてあった箒を手にしてこう言った。
「ど、何処ですか? 『アレ』は、何処にいますか?」
寝ぼけているのだろうか? カタリナは、そう思ってしまったが、箒をガッシリと握り締めて辺りを警戒している彼女の様子を見て、何のことか察することが出来た。
「あの黒くて素早いおぞましい奴のことか? それなら何処にもいないよ」
そう答えると、シャーロットは、肩の力を抜いてホッと一息つく。
「なんだぁ、いきなり叫び出すから、アレが出現したかと思ったじゃないですかぁ」
「すまぬな、起こしてしまって」
「いえいえ。それじゃあ、アレじゃないとしたら、姫様の身に何が……あ、もしかして、悪い夢でも見ていたんですか?」
「まあ……そんなところだ」
「そうでしたか。でも、そういうことってよくありますよね。この前の私なんて、巨大なニワトリに追いかけられる夢を見たんですよ。しかも、ソイツは、火まで吐くんです。きっと、私が日頃からチキンばっかり焼いているから、夢の中で復讐しに来たんでしょうね」
「そ、そうか……」
火を噴く巨大ニワトリ、か……それはそれで恐ろしいな、などと思いつつ、カタリナは、悪夢の内容を振り返った。
あれは、紛れもなく自分自身の過去の記憶だったわけだが、あの後、副官が花火を放つ威嚇用の魔法を使ってくれたおかげで、あの状況をなんとか脱することが出来たのだ。
あの時、私は、剣を抜こうとしていたのか? 彼女が機転を利かせてくれなければ、どうしていたのだろうか?
まさか、私は、民を斬るつもりだったのか?
そのことを考えると、自らのことが恐ろしくなってきたのだ。私は、彼らが言う様に、やはり化け物なのだろうか。そう考えた時、右手の甲が疼き出すが……
「ひぃーめぇーさぁーまぁー?」
我に返ってみると、シャーロットの鼻が間近にあった。
「うわっ?」
驚いたカタリナは、思わず仰け反る。
「どうしたんですか? さっきから何度も呼んでたのに、全然、返事がありませんでしたよね?」
「そうなのか? それは、すまぬな……それにしても、どうも気持ちが落ち着かんな。このままでは、あまり眠れそうにないな」
「じゃあ、私とボードゲームでもして……あっ!」
シャーロットは、何か名案が思い浮かんだらしく、ポンと手を打つ。
「眠れないのでしたら、ローガンさんの部屋に行ってみてはどうでしょうか?」
突拍子もないアイディアに対して、カタリナは、戸惑ってしまう。
「な、なにゆえにアルの部屋に?」
「はい。ズバリ、彼氏さんに慰めて貰うんです」
「な、慰めて貰うって……」
慰めて貰う……その言葉を聞いた時、カタリナの頭の中には、アルベルトによしよしと頭を撫でて貰っている光景が思い浮かぶ。
「わ、私を子ども扱いするでない! そもそも、あの者の方が年下なのだぞ?」
カタリナは、頬を真っ赤にしながら怒る。
「えーっと、何か誤解されているみたいですが、慰めて貰うということは、彼氏さんに甘える、ということで御座いますよ」
シャーロットは、内緒話をするように、カタリナの耳元でこう続けた。
「そうやってかよわい所も見せておけば、どんなに愛想の無い男でも、ときめかれること間違いなし、好感度もうなぎのぼりですぜ、旦那」
誇り高き騎士であるカタリナが、そのようなことに興味を持つはずが……
「……そういうものなのか?」
……なくはないようだ。
カタリナは、顎に手を当て、考え事を始める。恋人に甘えるように身を預けてくる彼、あるいは、お互いに肩を寄せ合う二人……うむ、それも良いではないか。カタリナの気持ちが少し前向きになるが、一方、気になることもあった。
「しかし、嫁入り前の女が殿方の部屋を訪れるというのは、如何なものだろうか? はしたない女だと思われぬか?」
「そんなもんじゃないんですか? それに、今どきの若者なんて、街中で○○○したり、×××したりするもんですよ?」
シャーロットは、伏字が必要な程はしたないワードをあっけらかんと口にするが、一方のカタリナは、顔を真っ赤っかに染めて、こう言い放った。
「は、破廉恥な!」
「まあ、それは流石に冗談ですけど、でも、部屋を訪れるくらいなら、別にいいんじゃないですか? お互いのことを知る上では、重要だと思いますしね」
シャーロットの言っていることにも一理ある。一目見た時からこの人こそ運命の人だと直感が告げ、勢いで婚約者認定してしまったわけだが……婚約者と呼ぶには、アルベルトのことをあまりにも知らなさすぎるのではないか? ならば、これを切っ掛けに彼のことを知り、同時に自分のことも知って貰おう、そう考えたのだ。
「では、そなたの提案通り、アルの部屋に行ってみようと思う」
カタリナが決意を口にすると、シャーロットは……
「姫様、よくぞ決心された。婆やは、嬉しい限りですぞ」
などと言って、大袈裟に涙を拭うリアクションをとる。
「それで、場所は……」
「あ、住所でしたらお任せを。ちょーっと待っててくださいね」
シャーロットは、早速、机に向かうと、簡単な地図を描いてそれをカタリナに渡す。意外と絵心もあるらしく、何処に何があるのか一目で分るものであった。
「はい、どうぞ。これが、この店からローガンさんのご自宅までのルートです。もし、分からなければ、近くを歩いている人を捉まえて聞いてみてください。あの人、この辺じゃ有名人ですからね……この辺ではね」
遠回しにアルベルトをディスるシャーロットの発言に対して、カタリナは、苦笑いをする。
「では、支度をするか」
カタリナは、支度に取り掛かるが、何だかんだ言いつつもアルベルトの部屋に泊まるつもりらしく、着替えなども用意し始めたのだ。
それから、一通りの準備を終えた後、二人は、店の入り口まで下りる。
「では、行って参る」
「はい、いってらっしゃいませ」
シャーロットは、手をブンブンと振って、店から出て行くカタリナを見送る。
「あれ、もしかして……」
この時、シャーロットは、あることに気が付く。
「姫様が出て行かれたってことは、今夜、私、一人ぼっちじゃないですかぁ! うわーん、寂しいよぉー」
意外と寂しがり屋なシャーロットであった。
『僕の部屋に女の子が……』
その頃アルベルトは、特にやることもなかったので、自宅のリビングルームで小説を読みながらくつろいでいた。
タイトルは、『アイザックの冒険譚第四章』、かつての英雄のダンジョン探検記を元に書かれた人気シリーズだ。本作は、小説として読んだ場合、些かドラマに欠ける点は否めないが、徹底した取材と調査に基いて執筆されているため、学者たちからは、参考文献としての価値があると評されているらしい。
ちなみに、アルベルトは、このシリーズを全巻持っているだけでなく、何度も何度も繰り返し読むほどの、熱狂的なファンなのである。つまり、こうしてソファーに座り、ページをめくる間は、彼にとって、まさに至福の一時だと言えた。
ブブブー
テーブルの上に置いていた石のようなものが震え出す。これは、『テレストーン』と呼ばれるもので、遠くにいる人とテレパシーで会話できる魔法のアイテムであった。ちなみに、会話したい時は、持ち主の顔と名前、それからストーンに刻まれた暗号を思い浮かべるだけでいいらしい。(極稀な例ではあるが、名前が一緒で顔がそっくりな上、暗号が一文字違いとかだった場合は、間違って繋がってしまうこともある)
「まったく、誰だよ? 今、いい所なのに……」
アルベルトは、悪態を付きつつテレストーンを手に取る。すると……
「ローガンさんッ!」
いきなり大きな声が頭の中に鳴り響いたので、アルベルトは、思わず石を落としてしまいそうになった。
「その声は、シャーロットかい?」
「ご名答! あなたのシャーロットです!」
「はいはい……で、何の用だよ?」
「えっとですね、今からそっちに姫様が向かいますので、迎えてあげてくださいね」
一瞬間が開く……え? 今、なんて?
「ちょっと待ちなよ。姫さんが来るって……」
「そういうことなので、よろしくお願いしまーす。ではではぁ!」
シャーロットは、アルベルトの話を聞かず、一方的に切ってしまった。相変わらずせっかちな奴だな……いや、それよりも、姫さんが来るって、どういうことだ? アルベルトが困惑していると……
トントン
ドアノッカーの音がした。
「そういうことか……」
アルベルトは、やれやれと溜め息をつくと、玄関の扉を開く。そこには、カタリナが立っていた。
「こ、こんばんわ、アル。そ、その……驚かせてしまったかの?」
そう言って彼女は、頬を赤らめ、気恥ずかしそうにモジモジしていた。
本当に来ちゃったよ……それ以前に、僕の家の場所なんて教えていないはずだけど。となると、シャーロットが? あいつ、何勝手なことしてくれたんだよ。
アルベルトは、余計なことをしてくれたシャーロットに対して怒りを募らせつつも、出来るだけ平静を装ってこう尋ねる。
「それで? 姫さん、僕に何の用だい?」
「いや、用という程のことではないのだが、急にそなたに会いたくなってな。こうしてやって来たわけだが……今晩、そなたの世話になっても良いかの?」
「ああ、えっと……」
セーブポイントからここまでは、相当な距離がある。そのことを考えると、追い返すのも悪いとは思うものの、アルベルトの中では、既に答えは決まっていた。
「悪いけど、帰ってくれないかい? 付き合ってもいない女の子は、家に入れない方針なんだ」
アルベルトは、そう言ってお引き取り願おうとしたが……
「ふむ、では、婚約者である私は、問題ないということだな」
「は?」
「では、世話になるぞ」
そう言ってカタリナは、なんと、許可を得る前に、家の中に入って行ってしまったのだ。
「お、おい、ちょっと姫さん?」
このお姫様、時々、強引な時があるよね。王族の人って、皆こんなものなのかな? アルベルトは、そんなことを思いつつ、そんな彼女を説得するのは、諦めた方が良さそうだ、との結論に至り、肩を落とす。女の子は、絶対に部屋に入れない、そんな妙に堅気なポリシーを、意図も容易く砕かれた瞬間だった。
「これが、アルの部屋か……」
中に入るなり、カタリナは、部屋中を見渡し始める。
そこは、思いの外広々とした部屋であり、オーク材を使った内装は、温かみがあって、お洒落でもある。また、部屋の壁側には、本棚がズラリと並べられていて、そこには、哲学本から歴史書まで、あらゆる種類の本がズラリと並べられていたのだ。
「おおっ! 凄い数の本だな。これ、全て読んだのか?」
「まあね。ダンジョン探索に役立つと思って読んでいたら、こんな量になっていたんだ」
「そなたは、学者のように博識なのだろうな」
そう言いながらカタリナは、本棚に近付き、並べられた本の表題をなぞり出す。
「ふむ、『海賊になった姫君』とな? どれ……」
カタリナは、この小説が気になったらしいが、その分厚さからして500ページはゆうに超えるであろう大作である。
「も、もしかして、今からそれを読む気なの?」
気が済んだら帰って貰うつもりだったアルベルトにとっては、早くも大誤算である。まさか今日ここに泊まる気じゃないだろうね? いや、それはさすがにダメだ。アルベルトは、何とか説得して帰って貰おうと考えたが……
「ほお、この本の挿絵には、色が付いておるのだな」
カタリナは、早速、ソファーの上にうつ伏せで寝転がり、足をバタバタさせながら本を読み始めていたのだ。まるで、ここが我が家であるかのような振舞である。
「ちょっ、あんた、何勝手にくつろいでいるんだよ!」
アルベルトは、思わず声を荒げてしまうが、フリーダムな姫君は、お構いなしだ。
「それにしても、このお姫様は、随分と可愛らしく描かれておるな。アルは、こういった女子が好みなのかの?」
「ち、違っ!」
「あ、そうだ」
カタリナは、何か思い出したようにこんなことを口にする。
「何か飲み物が欲しいな。つまみもあればなお良いの」
「!?」
なんて我儘な姫君なんだ。人の家でここまで好き勝手振る舞うなんて、大した器だな。アルベルトは、半ば呆れていた。一方、こんな調子が続けば、このまま家を乗っ取られるんじゃないか、そんな心配すら出てきたのである。
「戸棚の中に酒とチーズがあるから、好きなのを持って行きなよ」
そう言ってアルベルトは、ぶっきらぼうに親指でキッチンの方を指すが、カタリナは、不満げにこう言ったのだ。
「そなたには、客人に対するおもてなしの精神というものが無いのか」
「無いね」
「むう、では致し方あるまい……ふむ、待てよ?」
カタリナは、いいことを思いついたと言わんばかり口元を緩めたのだ。
「なあ、アル。厨房を借りても良いかの?」
「別に構わないけど……何をするつもりだい?」
「ふふふ、それは、秘密だ。まあ、そこで楽しみに待っておれ」
そう言ってカタリナは、厨房に向かって行くが……あいつ? 何をする気だろう? まあ、好きにさせたらいいか。そう思ってアルベルトは、読みかけていた本を開いた。
十分後……
あれ? 帰ってこないな?
食べ物を漁りに行った筈が、中々戻ってこないカタリナのことが少し心配になったアルベルトは、自らも厨房へと向かおうとするが……
「きゃあぁっ!」
悲鳴が上がる。
「お、おい、どうしたんだよ?」
まさか、『アレ』が出たのか? アルベルトは、慌てて現場へと向かうが……パパパパパンと何かが炸裂する音が聞こえてきたかと思うと、モクモクと黒い煙が漂ってきたのだ。彼は、咳き込みながらもキッチンへと入って行くが、そこには、かまどの前であたふたしているカタリナの姿があった。彼女は、何故か料理をしようとしていたようだが、何をどうしたらそうなったのか、フライパンの上では、火花が弾けていたのである。
「うわっ? な、なにやってんだよ、あんた!」
「す、すまぬ、アル。どうやら失敗してしまったようだ」
カタリナは、かす揚げを握り締めたまま謝る。言いたいことは色々あるものの、それよりも今は、この花火をどうにかする必要がある。アルベルトは、水桶に溜めてあった水をぶっかけて火を消すが、ひとまず、それで騒動は収まった。
「おお、止まったぞ。やはり、慣れないことは、するべきではないな」
「じゃあ、なんで料理なんてしようと思ったんだよ。それも人の家で」
「まあ、その……以前、シャーロット殿に『からあげ』という料理を教わったのでな。東国の料理らしいのだ。それで、これから世話になる身だ。その礼に振る舞ってやろうと思ったのだが……」
そう言ってカタリナは、後ろ手を組んで、気まずそうにしていたが……
「なんだよ、そういうことだったのか」
アルベルトは、思わず笑みをこぼす。その気持ちだけは、嬉しかったのだ。とは言え、これ以上トラブルを起こされても面倒なので、自分で準備しようと考えたのである。
「いいよ。飲み物とつまみは、僕が用意してあげる。だから、姫さんは、座って待っていなよ」
「アルぅ、頼りになるのぉ。そなたは、良い嫁になれるぞ?」
そう言ってカタリナは、うりうりと肘で小突いてきた。
「い、いいから向こう行きなよ」
厨房からカタリナを追い出した後、アルベルトは、早速、おつまみの準備に取り掛かった。普段の食事は、外食で済ませることの多いアルベルトだったが、簡単な料理なら作ることが出来たのだ。
「出来たよ。待たせたね」
五分も経たないうちに、酒とつまみがテーブルの上に置かれた。
外はサクッと、中はジューシーな、鶏のもも肉を使ったからあげと、レモンの風味が効いた爽やかなエールの組み合わせだ。
「おお、美味しそうだな。どれ……」
カタリナは、早速、目の前の料理にがっつくが、それを口にすると、頬に手を当て、味わう様に噛み締める。
「どう? 味の方は」
アルベルトがそう尋ねると、カタリナは、笑みを浮かべてこう答えた。
「うむ、おいしいぞ。いくらでも食べたくなる味だ」
「そうか、お気に召したようで、何よりだよ」
「これならお酒もすすみそうだな」
カタリナは、エールが注がれたグラスを手に取り、それを口にするが……一口含むと、すぐさま口を離し、渋い顔をする。
「こ、このお酒は、少々、苦みが強いのではないか?」
「なんだよ。エールは、初めてだったのかい? 普段は、ワインとかを?」
「うむ。日頃は、我が国の名産品であるブドウを発酵させたワインを口にしていたな。しかし、このエールというものも、これはこれで良いものだな。私は、気に入ったぞ」
そう言ってカタリナは、再びグラスに口を近づけるが……
「おや、この本は……」
この時、テーブルの上に置かれていた一冊の本のことが気になったらしく、それを手にしたのであった。アルベルトが読んでいた、アイザックの冒険譚第四章だ。
「これは、以前、そなたが話していた、アイザック殿について書かれた本のようだな」
「うん、そうだよ。彼が実際にダンジョンで体験したことが書かれているんだ」
「ほほう。それにしても、そなた、随分と読み込んでおるようだの」
カタリナは、ページをめくりながらそんな感想を口にする。本の紙の色が手垢などで変色してしまっていることから、そう判断したのだろう。
「まあね。その本は、子供の頃から何度も読んでいるんだ」
「そなたは、まことにアイザック殿のことを尊敬しておるのだな」
「うん。当時の僕にとっては、生きる希望を与えてくれた、ヒーローだからね」
アルベルトにとってのヒーロー……カタリナは、そのことについて、もっと詳しく知りたいと思ったのか、こんなことを言ってきたのだ。
「そなたの子供の頃の話、是非とも聞いてみたいものだ」
「僕の子供の頃? えっと、大した話なんてないと思うけど?」
アルベルトは、そう言ったものの、カタリナは、聞く準備は万端だと言わんばかりに、両肘を膝に乗せ、両手を頬に当てる。参ったな……アルベルトは、そう思いつつも、別に隠すようなことではなかったので、話をすることにした。
「そうだな、僕がアイザックのことをヒーローだって言ったのは、僕自身、彼と同じく、ここ、旧市街で生まれ育ったからなんだ。それに、僕達は、似たような境遇だったから、共感出来るところもあったんだろうな」
アルベルトは、エールが注がれたグラスを手に取り、一口飲んでからこう続けた。
「物心がついた時には、既に親がいなかったってところもね……僕も、孤児だったんだ」
「あ……」
「当時の僕は、とにかく暗い奴だったな。誰とも口を利かなかったし、そうしたいとも思わなかった。自分に自信が持てなかったんだろうね。僕は、必要のない子供だったから、親に捨てられた……そんな風に考えていたんだと思う」
「そうであったのか……アル、そなた……」
カタリナは、同情するような表情を浮かべていたが……
「おいおい、そんな顔しないでくれよ。こんなのは、ただの昔話さ」
一方のアルベルトは、過去のことは忘れたと言わんばかりに笑い飛ばす。
「もちろん、親のことは、未だに気にすることはあるけどね。でも、きっと何らかの事情があったんだろうし、そう信じることにしているんだ」
「そなたは、強いのだな」
「どうだろう? まあ、でもね。もっと前を向いて生きていこう……そう思う様になったのは、この本と出会えたからなんだ」
そう言ってアルベルトは、アイザックの冒険譚第四章を手に取る。
「アイザックはね、どんな苦境に立たされても、決して諦めない不屈の精神を持っているんだ。読み始めた頃は、主人公なんだから当たり前じゃないか、なんて、捻くれた見方してたけどね。でも、この人が実在した英雄だってことを知ったら、素直に凄いって思えるようになったんだ。それで、アイザックのことをもっとよく知りたいと思って色々調べているうちに、彼が僕と同じ旧市街で育った孤児であること知ったんだ」
アルベルトは、本をテーブルの上に置くと、こう続けた。
「それ以来かな、僕がアイザックに対して強い憧れを持ったのは。この人みたいに前向きに生きていきたい……そう思った時、世界が大きく変わったんだ。それまでは、後ろを振り返ってばかりの人生だったけど、前を向いたことで、世界が一気に広がった。あの時は、そんな感覚だったな……」
そう語るアルベルトの目は、まるで少年のようにキラキラと輝いていた。彼にとってアイザックは、後ろめたい人生を変えてくれたヒーローだったのだ。
「僕の話は、これで終わりさ。やっぱり退屈だったかな?」
アルベルトは、そう言ったものの、カタリナは、首を横に振り、口元を緩める。
「そんなことはない。そなたことを知ることが出来て、私は、嬉しく思うぞ」
そう言って貰えて、アルベルトは、「そっか……」と呟き、思わず口元を緩める。
「アルは、前向きな男だと思っておったが、なるほど、それもアイザック殿の影響であったということか」
「まあ、そう……なのかな?」
少し照れくさいと思ったのか、アルベルトは、頭を掻くが……
「あとは、困っている者の為に手を貸せるような男にならねばな?」
そう言ってカタリナは、意地の悪い笑みを浮かべる。
「な、なんでだよ! 僕は、アイザックみたいな冒険者になりたいって思ってるけど、ヒーローになるつもりなんてないからね!」
「ほお? 私は、信じておるぞ。真のそなたは、正義感溢れるやさしい男であるとな」
「うわあぁっ!! や、やめろよ! 気持ち悪いなぁ」
アルベルトは、それ以上聞きたくないと言わんばかりに耳を塞ぐが、そんな彼を観て、カタリナは、クスクスと笑い始める。
「それにしても……英雄と呼ばれる者の生き様は、後世の人々を勇気づけ、生きる道標となることもあるのだな……」
そんなことを口にしながら、カタリナは、エールを口にするが……いつの間にか、飲み干してしまっていることに気付く。
「アル……」
カタリナは、申し訳なさそうにこう言った。
「すまぬが、もう一杯くれぬか?」
「へえ、本当に気に入ったんだね。いいよ、幾らでも開けてあげるよ」
話を聞いて貰ったことですっかりと気を良くしたアルベルトは、催促されるまま、もう一本エール瓶を開けた。しかし、この姫君に酒を提供してしまったことは、過ちであることを思い知ることとなった。
それからというもの、カタリナは、エールを何杯も飲み続け、すっかりと出来上がってしまったのである。
「あーるぅー? もういっぱいぃ!」
ベロンベロンに酔ったカタリナは、更にエールを催促してきた。テーブルの上には、空き瓶が十本ほどある。流石にこれ以上飲ませたら何をしでかすか分かったもんじゃない。アルベルトは、上手く誤魔化そうとするが……
「えーっと、悪いんだけど、お酒はもうないんだ。さっきので仕舞だよ」
すると……
「またまたぁ、どっかに隠しているのではないのかぁ? んん?」
そう言いながら詰め寄って来たのである。うわっ、酒くさいっ!? アルベルトは、思わず顔を引くが、カタリナは、グイグイと迫って来たのだ。しかも……
「それにしてもぉ、こうしてよくみると、そなた……かわいい男子だのぉ、フフ。思わず食べてしまいたいほどだ、フフフ」
まさかの肉食系である。カタリナは、更にグイグイと迫って来て、アルベルトをソファーの隅っこまで追い詰めたのだ。
「ひ、姫さん? あ、あわわわ……」
アルベルトは、このピンチを脱しようとするが、逃げ場は何処にも無く、ただ、カタリナから顔を遠ざけるしかなかった。一方、アルベルトがあたふたする様子を見て、カタリナは、微笑を浮かべる。
「照れておるのか? そなたは、かわいいやつだな……」
そして、アルベルトの頬にそっと手を当て、トロンとした青い瞳で見つめながら、こんなことを言い出す。
「なあ、わたしとキスでもせぬか?」
心臓が口から飛び出しそうになる! それから全身を物凄い速度で血液が巡っていき、頭の中が真っ白になっていったのだ。
き、キスだって? こ、コイツ、何を考えてるんだ? 僕達、恋人同士でもないのに、そんなこと許されるわけないじゃないか。ぼ、僕は、どうしたらいい? あ、アルベルト、と、とにかく落ち着け、冷静になるんだ!
そうやって何とか自分に言い聞かせ、心を鎮めようとするものの、相手は、抗えないほどの魅力を持つ麗しき姫君だ。アルベルトのちっぽけな自制心が爆発するのも時間の問題だ。
カタリナは、目を閉じ、麗しい唇を近づけてくる。
「う、うわあああぁぁぁ#$%&???」
どうしていいのか分からず、アルベルトは、思わず目を覆い隠してしまうが……
ドスン
この時、胸の辺りに軽い衝撃が走る。目を開けてみると、カタリナがアルベルトの体の上に倒れ込んでいたのだ。どうやら、酔い疲れて眠ってしまったらしい。
「はぁ、はぁ、や、やばかったぁ……」
アルベルトの全身からドッと冷や汗が流れ、彼は、思わず安堵の溜め息をつく。
それから、姫君を起こさないように体を起こし、そっとその場から脱すると、彼女をソファーの上に寝かせた。
「まったく、散々手を焼かされたな……それにしても、本当に何しに来たんだろう?」
今は、静かに寝息を立てて眠っているカタリナを見て、そんなことを思うが……この時、ソファーから垂れ下がるカタリナの手に目が行く。今日も手袋をしているようだが……
「そういえば、姫さんが手袋を外している所って、見たことがないよね?」
料理を食べる時も、衣装を変えた時も、手袋をはめたままだった。そのことは、前々から気になっていたことだったのだ。
「今なら、バレない……かな?」
アルベルトの心に魔が差す。まるで、何か見られたくないものを隠しているようで、それがかえって彼の好奇心を掻き立てたのだ。もっとも、詮索というよりは、むしろ、悪戯心に近い感覚であったが。
カタリナは、熟睡しているようだが、これなら仮にコップを落として割ったとしても、起きることはなさそうだ。そう考えたアルベルトは、カタリナを起こさないように、そっと手袋を外していく……すると、絹のような滑らかで美しい手が現れるが、その甲に目を向けた時、アルベルトは、思わず「えっ?」と、声を上げてしまった。
「うーん……」
やばいっ!?
さっきの声で姫さんを起こしてしまったかも? アルベルトは、慌てて彼女の顔に目を向けてみるが、どうやら、ただ唸っただけのようであり、まだ夢の中にいるようだった。アルベルトは、ホッと胸を撫で下ろす。
「ちょっと焦ったな……」
カタリナが起きてしまう前に、元通りにしておこう、そう考えたアルベルトは、手袋を付け直す。それからコッソリと自室に戻ろうとするが……
「このまま放っておいたら、風邪ひくかな……」
そう考えたアルベルトは、カタリナの為に毛布を用意し、そっと掛けた。
「それじゃあ、おやすみ、姫さん」
そう言ってリビングのランプを消して、自室へと向かった。
「今日は、災難だったな。はあ……」
部屋に戻った途端、アルベルトの身にドッと疲れが押し寄せてきた。今すぐにでも就寝したい所であったが、その前に、アルベルトは、本棚へと向かい、本を探し始める。ベッドで横になる前に、どうしても調べておきたいことがあったのだ。
「僕の記憶が正しければ、アレは……」
アルベルトが見てしまったもの、それは、カタリナの手の甲にある特徴的な『あざ』であった。彼女が日頃から手袋をしていたのは、まさにそのあざを隠すためだったのだ。
アルベルトは、一冊の書物を手に取る。それは、アイザックの自伝だった。彼もまたカタリナと同じく手の甲にあざを持っていたが、彼のものは、太陽の形をしており、その色も金色のように輝いていたそうだ。一方、カタリナのあざも太陽の形をしていたが……
彼女の場合、禍々しい程までにドス黒かったのだ。
アイザックの印は、英雄の証とされているが、では、カタリナが持つ印が意味するのは、一体なんなのだろうか? そのことについては、気になる一文が記されていたのだ。
『黒き太陽の印を持つ者は、闇に飲まれる運命にある』、と。
なんとも不吉な予言であったが……まさか、カタリナの身に何らかの災いが降りかかろうとしているのだろうか? だとしたら、どうすれば、その望まぬ運命を変えることが出来るのだろうか?
「秘密を知ってしまった以上、さすがに他人事ではいられないよね」
いずれは、姫さんからあの印について聞き出すべきだろう。そう考えたアルベルトは、一旦本を閉じ、物思いにふける。
ドーンバルド崩壊の謎、カタリナがあの神殿に封印されていた理由、そして、あの印が意味する不吉な予言……これらは、一つに繋がっていると考えられるが、その答えは、ダンジョンの深部へと進むことで分かるようになるのだろうか?
いずれにせよ、やるべきことは、一つだけだ。
「バカンスは、お仕舞だ。明日からダンジョン探索だ」