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目の前のその深い闇のスプレンダー

 誠一郎はビレッジにある大学の映画製作学科を卒業した。子供の頃から悶々と頭の中に浮かび上がっては消えていく絵を、生まれて初めて十六ミリフィルムを使い短いモンタージュ映像に置き換える方法を学んだ。多くの映画製作学科を保有する大学が、商業映画に直結する実践的なカリキュラムに移行していた時代にも関わらず、誠一郎の通った大学には、サブカルチャーとしての実験映画、ドキュメンタリー制作を学ぶコースがささやかに存在した。誠一郎にとって起承転結のはっきりした万人受けするハリウッド的映画言語は正直物足りなかった。基本を学ぶ事の重要性は頭では分かっていたが、それらよりどこか詩的な矛盾や破綻を感じさせる自由奔放な実験映像に惹かれた。在学中、クリス・マルケル「ラ・ジュテ」、セルゲイ・パラジャーノフ「火の馬」、そしてジャン・コクトー「詩人の血」を初めて知り影響を受けた。誠一郎はこれらの作品世界から視覚・聴覚だけでなく臭覚や味覚までに及ぶ刺激を受けとる事が出来た。中でも「火の馬」から受け取るイメージは観る度に誠一郎を魅了した。その映画が持つ物語や視覚的情報以外に、瞑想に似たある映像が誘発され、その土地に彼を誘った。それは少しずつ変化する瞑想体験ではあるが、おおむね似たような風景のバリエーションだった。


 それらの映画に共通した点は、ある一定の観客はすぐに寝入ってしまう事だった。遅々たる映画進行、ハリウッド的娯楽映画との展開の相違の為か途中で席を立つ者が多かった。誠一郎も心地よい睡魔に身を委ねそうになることもあったが、その誘惑に陥ることなく知覚を維持することが出来た。そのちょっとした我慢を通り過ぎさえすれば、その皮膜下には風景が広がってくる事を知っていた。その広がりは睡魔の誘惑を我慢させるだけの魅力を十分に備えた風景であり、その限りなく薄い皮膜を抜けると、ターメリックやシナモン、オルガノなどの香辛料、そしてざくろ、干し柿、マンゴらのフルーツの甘い匂いに包まれた。一面青草の牧草地を幼い誠一郎は歩き始め、時より微かなゴートチーズの香りを含む風を受けては、その草の上で横になった。草の間をはう青虫や尺取り虫、そしてバッタを掴まえ、冷血にもそれらの虫をその手で二分した。引きちぎられた体から流れる白や緑の体液を眺めていると、口中に特殊な味覚が広がった。酸っぱい砂のようなざらざらした味覚やら、鼻がつぶれそうな臭いとともに体液と混じりあいながら出てくる寄生虫が舌の上で身をねじらせる味覚を経験するのだった。映画の物語が進行するにつれ、誠一郎はこのような瞑想に似た空間に移動し、そこを自由に歩き回り予期せぬ知覚に遭遇した。そしてこれらを感受することが、それらの映画が約束する特殊な体験だった。それは他の映画では決してかき立てられることのない経験であり、誠一郎にとって一旦その地の匂いや味覚を感じ始めると、物語の詳細や英語字幕の複雑さなどは消滅した。その映画の皮膜下に隠された同時進行する第二の物語に招かれることが、誠一郎の中では優れた映画の基準になった。それらの限られた映画はいくらでも浸り続けることの出来る居心地の良いオアシスとして、また誠一郎の映像の教科書になった。彼はこれらの作品を在学中模倣した。彼の作品は実験的で詩的な評価を得ることは出来たが、物語として観客をA地点からB地点へ、明確な道筋とともに丁寧に運ぶという映像には程遠かった。あえて例えるなら暗闇の中でお客の口へ乱暴に食事を放り込む類だった。


 「フォークを挟んだプリペアド・ピアノ、ジョン・ケージ作曲『バッカスの祭』、皿の出し入れ、バナナ、皿の出し入れ、赤貝の刺身、皿の出し入れ、岩塩の粒とヒマワリの種、皿の出し入れ、おたまじゃくし、皿の出し入れ、チェダーチーズのマカロニアンドチーズ、皿の出し入れ、紫蘇の葉、エンドクレジット」。


 点と点をつなぐ道筋は、おおかた受け取る側、観客の想像力に委ねられた。ほぼ思いつきであるそれらの点を、独自の飛躍で楽しめなければ不可解な映像、不親切でまずい伝達でしかなかった。そこに何かがあるとすれば、誠一郎にとって未知なものに輪郭を与え自己化しようと試みる意志があるだけだった。ほとんどの学生は彼の作品をもったいぶった意味不明な作品として扱った。誠一郎にとってそれらの評価は全く気にならなかった。それよりも白昼夢という心の目でしか今まで見ることのできなかった映像を、生まれて初めて具現化することに誠一郎は夢中になった。それらの白昼夢を彼なりに事細かく精査しながら、現実の場所やら小道具、役者に置き換えていく作業はあまりにも魅力的だった。それらの映像がどのような意味を喚起し、物語上の役割を果たすかなど、映像を学び始めたばかりの誠一郎にとっては二の次であり、他者との共有という意図はすっかり欠如していた。そういった配慮不足から誠一郎はクラスで異端児扱いされた。そしてその扱いは映像詩人気取りの本人にとっては賞賛に等しかった。しかしビレッジでの三年間の楽園生活も卒業とともに急速に冷めることになった。


 就職の当てもないまま頑なに帰国を拒み、滞在資格を確保しながら生活費を捻出するというもっと現実的な問題と直面した。帰国拒否という選択肢は、若さ故の思い込みであったが、辿り正せばなんの事もない小さな心のささくれにまで遡り、その帰因を突き止める事も出来た。しかしその頃の誠一郎には妄想の深い所まで、細い糸をたぐる忍耐力もなければ、客観的にそれらを見つめ分析する論理的な視座もなかった。全ては安易な自己憐憫と、愛情欲しさのわがまま、それら二つがセットで情けないほど行動の陰に見え隠れした。結果、彼の行動は否定と黙殺を行うことにより、自らの尊厳を保つという自己暗示に陥った。その暗示には強力な黒い業務用ゴミ袋さえあれば事足りた。そのゴミ袋の内側に広がる無限の暗闇に思いつく全てを放り投げることで完結した。全てはいとも簡単に事運ぶ段取りに思えた。しかしながらその遊戯まがいの忘却のつけ、母国に根を張ったままその地に切断し取り残してきたはずの自身の影は、決して切り離されることもなく、誠一郎が予想しないところで露呈することになった。日々少しずつ肥大化していく不安を糧に、その影は確実に不安を憂鬱に変化させた。そしてそれらさえ無視し帰国拒否を続けるうちに、憂鬱は得体の知れない絶望に無限の闇を含んだ業務用ゴミ袋の中でその姿を変えた。誠一郎はこのことに気づいていなかった。その黒い業務用ゴミ袋の存在は、三十半ばを過ぎた頃、偶然仕事で関わることになったネイティブアメリカンの長老との出会いまで彼に認識されることはなかった。

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