3.無駄飯食らいじゃいられない
ベッドから身を起こし、窓を開けて朝の光と風を顔に受ける。そこからの眺めは一昨日ベッドに寝かせられる寸前に見えた通りで、その印象もまた変わらなかった。
山の表面に沿って、階層を成して街が広がっている。煉瓦や石造りの建物。山を切り開いて出た岩石をそのまま再利用しているのだろうか。石畳の道は当然、坂が多い。
そこかしこの階段や坂道はそれなりに人が行き交い、発展していることがわかる。最下層のさらに下では草原や荒野がやや急な斜面となって続いている。さらにさらに遠くに見える谷間のあたりでは黒い森や川があるみたいだ。
印象の話でしかないけれど、こんな高地での共同体といったら都市と隔絶された伝統残る村落という気がするが、むしろ高地にこそ都市があった。
ここいら一帯、山脈となった連なりもあるが、円錐に隆起したような単独の山が多くありこの地もそのひとつだ。谷間を挟んだ隣の山も、同じく頂上付近に街が張り付いている。
そんな景色はまったく奇妙というほかなく。
「もっと低い山とかてごろな岩山を利用して、とかなら外国のそんなんを写真やテレビで見たことあるし、日本でも小山を開発した団地がそれっぽいけどさあ……」
まるで、古代遺跡の空中庭園だの天空都市だのがまだその機能を保っているような。まったくもってファンタジックな景色だ。
異世界。その言葉がとてもふさわしい。
「キソさんー? 起きてますー?」
ドアをノックする音と同時に声が聞こえ、返事を待たずイネスが部屋に入ってきた。不意の居候、無駄飯食らい、最底辺層にプライベートなど必要あるかとばかりに。
「イネスお嬢さんおはようございます。この通りちゃんと目覚めてますよ、ええはい、起床の手間はかけさせませんとも、今日も一日元気元気、なんなりとご用命くださいませ」
「わあ、な、なに気持ち悪い」
「いや身分をわきまえようとしてるだけで、へえ」
「やだ、この人すごい揉み手と卑屈な笑みが自然に出てる……」
浪人すると言い張りつつ自転車で外を駆け回ってる日常を過ごすなら、「申し訳なさの空気」ってやつを自然に身にまとえなければならないんだよ。その場しのぎであったとしてもな。大店のお嬢さんには分からないかな、この領域は。
「でもねぇキソさん、逆に失礼かもだよそれは。見た目とか。目線がいやらしーい感じになってるし」
「うそだろ熟練の使用人みたいな安心感を目指してたのに。ここを起点にゆくゆくは執事キャラ狙ってたんだけど!」
「いやいや良家のお嬢様に下心抱いてる下男みたいな雰囲気がすごかったよ……」
イネス・バンデラス。俺が最初に会った少女だ。高山病でダウンした俺を、人を呼んで自分の家である『バンデラス商店』に運び込んでくれた。
この店を街のほとんどの住民が利用しており、そこに俺は一昨日から世話になっていた。初日は高山病で動くのもしんどかったが、昨日からは雑用をこなすことで客間を借りることをなんとか許されていた。
掃除や薪割り、商店の方では品物の仕分けや積み下ろし。言葉は通じるが文字はさっぱり読めないので失敗も多く、何度も叱られたがなんとか労働初日を終えた。無茶苦茶疲れたものの、助かったという気持ちが強かった。
やはり右も左も分からず当てもないような心細い状況で、「生活」してるって実感をえられるのは大きい。少しずつ様々なことを把握していこう。
だが正直、行き倒れも同然の怪しい人間にどうしてそこまで? と思わなくもなかったが。
「私もう荷受けに行ってくるんで、キソさんもご飯食べたらしっかり働いてくださいね。ちゃんとララさんのいうこときいて」
「ああ……大丈夫、今日は昨日よりうまくやれるはず」
ララさんというのは今の俺と同じく住み込みで働いているおばちゃんだ。イネスが生まれる前から、どころかイネスの父親である現在の店主が子供の頃からこの店にいるらしい。
ちなみに仕事には厳しく、テキパキ動く人で、俺は昨日だけでこれまでの人生の半分くらいの怒鳴り声を聴き、己がいかにノロマであるのかを思い知らされた。
「んじゃ、いってきまーーす」
声の最後の方が廊下の先から聞こえるほどの素早さでイネスは行ってしまった。再び窓に目を向けると、もう外に出ている。
バンデラス商店は街の中腹に位置し、ここより上層にはよそからの積み荷を集める倉庫があり、商店が取り寄せたものもそこにある。イネスは荷印の確認と輸送の手配をしに行ったのだった。
しかし、イネスは上層へ続く階段ではなく、下層に臨む敷地の縁へと歩を進めている。迷うことのない足取りで、崖も同然のその先へと身を投げ出してしまった。
しかし俺は動じない。いや、昨日、同じような場面に遭遇した時はむちゃくちゃ動揺して外に飛び出してしまったのだけど。
イネスは重力に従い落下――したが、地面に腰までが隠れる程度でそれは止まった。向こうに足場がある、というわけじゃあない。イネスは一瞬身を沈めると、けっこうな勢いで駆け出す。坂道を上るように位置を高くしていき、ついにはこの店の屋根を超えて街の上層へと向かっていった。
その足元は虹色に煌めいている。俺がここへ来る前に自転車で走っていたのと同じだ。そういうものらしい。あの虹色の靄はいたるところにあって、流れて、漂っている。
昨日、イネスはこれをエーテルというのだと教えてくれた。何故知らないのか、というふうに、不思議そうに。それほどまでに当たり前にあるものなのだ。
この世界に満ち、一際濃いと島のような塊となって空を漂い、ひと連なりにたなびき道のようになっているものは、これを特に『虹路』と呼ぶ。
なんともファンタジィ、とびきり異世界。それが、俺が今生きている世界のありようだった。
「おはようございます、ビダルさん」
「うン」
家人用の居間に入ると、すでにイネスの父でありバンデラス商店店主、ビダル・バンデラス氏が着席してパンを齧っていた。娘と似通っているのは褐色の肌のみで、青い瞳はとても鋭く、その筋肉で盛り上がった腕は店を守る男の説得力に満ちていた。
俺の事情を尋ねてこないあたり、細かいことを気にしない性格なのだろうか。
いや、商店の仕事を手伝わせる際、けっしてお金には触らせなかったあたり最低限の警戒はしているのだろうけど。無闇に放り出さないでいてくれるのはありがたい。
「今日は倉庫の品出しからだ。粉類が多いからキツイぞ」
「ぜんぜん大丈夫っす」
指示を出され、まず安堵する。仕事を任されるということは、少なくとも今日、まだここにいていいということだ。「……で、キミぃ、いつまでウチにいるの……?」な空気を出されたら泣いてしまうかもしれん。
「どうだ、体の調子は。たまに麓の民が上がってきた時にあんな感じになるけどよ」
「もう大丈夫です。しばらく動いてれば慣れて平気になるもんですし。今日は昨日に増して動けると思うんで」
「はは、ララさんに伝えとくよ」
俺も席に着き、スープとパンの朝食をいただく。薄味に感じられたが気圧が低いせいだろうか、それともこういう味付けなだけか。まあ十分に美味いし慣れるだろう。慣れるほどいられればいいけど。
先に食事を終えて居間を出たビダルさんだが、すぐに戻ってきた。なにやら眉間にシワを寄せておられる。
「イネスのやつ、今朝くる荷の一覧を忘れて行きやがった」
そう言い、手にした紙をぴらぴらと振る。
「おやまあ」
「あいつもアホじゃないからウチの荷自体は分かるだろうが、産地だの分量だの細かな荷印までおぼえてっかなあ。まあ忘れたのに気づいて戻ってくるだろうが」
「あの、俺、届けてきましょうか?」
「ああ? いや、上層街の倉庫までは遠いからな。間に合わねえし行き違いになるだろ。さすがに『靴』を貸すってわけにも、なあ」
ビダルさんは何やら渋っているが、イネスが出て行ってからまだそんなに経ってないのだ。自転車で行けば十分追いつけるだろう。それに、靴? 靴なら自前のがある。
「大丈夫ですって。それ渡せばいいんですね?」
ビダルさんの手から荷の一覧表を取ると、俺は客間に戻った。今はバンデラス家の好意で部屋だけじゃなく服まで借りているのだが、自転車と一緒に洗濯したジャージも部屋に置いてある。自転車に乗るなら正装にてつかまつらねば。
準備完了し、庭に出る。イネスが出発したのと同じ敷地の縁に向かって自転車を押し進めた。
ビダルさんが駆け寄ってくる。
「おいキソ、本当に行くつもりだったのか。いや、お前なにしようってんだ?」
「ああ、ここから追いかけようかなって。街の地理詳しくないんで、同じ道辿った方が確実でしょう?」
この虹路は見える限りのところ分岐せず上層へと続いていた。倉庫の正確な場所とかは人に訊けばすぐ分かるだろう。
「バカなことはよせ! 何考えてんだ」
何故か慌てるビダルさん。
バカなこと……だろうか? 何か噛み合ってないような。あれ、もしかしてビダルさんは俺の速度を疑ってらっしゃる? それは、ちょっと、ううん、捨て置けんなあ。
オーケイ、スピードこそパワーであることをご覧にいれよう。
「サクっといって渡してきますから。すぐ戻って倉庫の品出しやりますんで!」
「あっ」
軽く助走をつけてビダルさんの不意をつき自転車に飛び乗る。事前に確認したが、店の横を通る虹路の幅は二メートルはある。自転車で乗り上げてもそのまま向こう側へ落ちるということにはならないだろう。
イネスが飛び降りた位置を少し横へとズレたところから進入する。上層へ向かい虹路は坂になっているので、僅かでも段差をなくすためだ。
とん、と。
またあの妙な靄の上に降り立つ。あらかじめ軽くしておいたギアはペダルをスムーズに回させて、タイヤをしっかりと路面に噛ませた。いい感じの坂だ。走り出す。虹路は何度かゆっくり折り返し、徐々に高度を上げていく。どんどん視界が高くなり、胸がどきどきしてくる。
ふと下のバンデラス商店を見ると、ビダルさんが目を見開いてあんぐり口を開けていた。
その表情の意味は非常に気になるが、それは後回しにして前を向く。このせっかくの生活基盤をできる限り維持するために、俺は俺の有用性をしっかり示していかないとな。
ようやく……自転車でなんか運んでる……