2.アニメのオープニング的なやつ
アニメだ。まず思ったのはそれだった。
さきほど俺は自転車ダウンヒルからの崖下ダイブをキメて、四、五十メートルは下の川に落ちたはずだった。浅い川のこと、さすがにそこまでの高さからだと水泳の飛び込み競技のようにはいかず、俺の分割パーツが川下に流されていくのは確実なのだが。
(なんで俺は、自転車に乗ってるんだ……?)
どうみても織部山の舗装路にはみえない、うっすら虹色に光る靄の上を、自転車で走っている。いつもの愛車、白いロードバイク。頭の上には青空。風がやや強い。そんな現状を自覚して、まっさきに思ったのがアニメみたい、だった。
ほら、よくある演出だ。オープニングでウユニ塩湖みたいな空を映す水面に佇んでたり、雲の上を飛んだり走ったりしてる感じの。
そんな連想が走ったのは俺がそういうものに馴染み深いからだが、雲の上を走るだなんて現実にできるわけがない。なので導き出される結論としては、これは夢であるということだ。
俺はまだ布団の中におり、実際には織部山になんて向かっていない。もちろん自転車で下り最速を目指してなんかいないし、ならばもちろんもちろん、崖から飛び降りたりもしていない。論理的帰結。
他の可能性も浮かびはしたが、考えたくない。
アニメのオープニングならこの後さまざまなキャラがキメ顔して次々と飛んで行ったりヒロインがもの悲しげな顔してるカットが挿入されたりするが、今は俺ひとり。孤独のサイクリングだ。
しかしこうしていると、まるで空を飛んでいるようだ。昔から、自転車である程度スピードにのってからペダルを漕ぐのをやめた時の滑空感は、地面すれすれを飛んでいるように感じられた。
某国民的アニメでも主人公の魔女に憧れるおっちょこちょいの少年が自転車をベースに飛行機を作ったり、日本で最も大きな湖で毎年夏に開かれる飛行機大会の人力飛行部門では自転車の機構を利用していたりするし、レシプロ飛行機ならば自転車とは従弟関係ぐらいには近い存在といえないだろうか?
某国民的アニメ、飛行機、となると続いて連想されるのは飛ぶ豚だが、あれには印象的なシーンがある。ロアルド・ダールの小説から着想を得たという、死んだ飛行機乗りたちが雲ひとつない空を大行列で飛んでいる場面だ。
人間の頭ってやつは、ひとつ浮かぶとそれに関連して別なことにも繋がるようにできてる。まったく無関係にみえても関連性を見つけて飛躍する。なので、この回り道の果てに俺は、無視し続けていた今の状況についての「他の可能性」に戻ってきた。
「俺……もしかして、死んだ?」
一回口にしてしまうと、もはや無視し続けることはできない。雲の上を走っているようなこの状況、臨死体験というか死後の世界というか、いかにもそれらしかった。
「まだこっちに来ちゃいかん」と一昨年に死んだおじいちゃんが引き戻してくれはしないかと期待したが、周辺にはやはり誰もいない。何故だおじいちゃん。お通夜で夜番をしている時にどうしても気になって木魚でビートを刻んだのがだめだったのか。
なんだか頭がぼうっとしてきた。本格的に死の段階に入っているのかもしれない。
いつまで自転車を漕いでいるんだろうと気づき、ブレーキをかけた。一見して不安定な虹色の靄に足を乗せることを躊躇したが、運動の止まった自転車なんて倒れるだけなのだからもう遅い。
それまで自転車で走っていたのだから当然というべきか、見た目とは裏腹に沈み込みもせずしっかりと俺の体を支えた。あたりを見回す。
遠くの方には陸地のようなものが見えるが、全体的に足元の靄と同じものが雲のように立ちこめており視界はよくない。唯一見通しがいいのは上空、抜けるような青空だ。
どうしよう……と不安に襲われる。どうせ死んだ身ならばもう何も怖くないはずだが、それについて俺はまだ諦めきれていなかった。自分は大丈夫、と無根拠に信じる典型的な一般ピープルなのだから。
ならばこれはどういうことだというのか。現実感がまるでない。少なくとも、俺がこれまで十八年生きてきた現実とはそぐわない。ほんとにアニメの世界だ。
自転車を倒し、しゃがみこんで靄に触れてみた。熱くも冷たくもなく、固くはないが柔らかくもない。不思議な感触だ。見た目にそぐわず平面で、手のひらにまったく凹凸を感じない。突然底が抜けるようなことにはならないようだ。
が、
とはいえ、それでも心理的な不安はぬぐえない。先ほど見えた陸地に向かってみよう。ふたたび自転車に乗って漕ぎだした。
いつの間にか、周りにあった靄がすぐ近くまで迫ってきていた。小さな(とはいえ十メートルはありそうな)入道雲みたいな塊だ。構わず走り続ける。
しかし俺は忘れていた。自分が何の上に立ち、走っているのかを。それと同じであろうものが迫っているというのに、何故ふつうの雲や煙のように中を突っ切れると思ったのか?
「うおっ!?」
例えるなら、トラックに幅寄せされたような。横からの圧力で進行方向を強制的に逸らされ、それでもしばらくはバランスを失わず走り続けた。見た目からして意外でもないのかもしれないが、そんなに重量を感じなかったのだ。しかし俺はすっかりうろたえ、ハンドル操作を誤った。やがて靄に押し出されるようにして、本日二回目の落車とあいなった。
俺と自転車は、さっきまで走っていたものや押し出した入道雲モドキとはまた別の靄に倒れこんだ。そいつもどうやら入道雲モドキ同様、風に乗って流れているようで、俺は倒れたまま自分の間抜けさを噛みしめていた。
頭は依然ぼうっとしたままだし、少し痛む。なんだか気だるく、本当に死ぬかもしれん。もうめんどうになってきた。色々ありすぎだろ。もう限界だ。疲れた。
靄の流れるままにこの身を任せていると無性に泣けてきた。ここが死後の世界だというのならもうそれでいい。だから、早く何か起きてくれ。成仏でも転生でもなんでもいい。
――俺を、助けてくれ。
「大丈夫、ですか……?」
幻聴かと思った。頭を動かし、声の方を向く。どうやら、俺が乗った靄は流れに流れ陸地に近づいていたようだ。俺の乗った靄はその上を浮かんでいた。
陸、というか山肌のような。それも織部山みたいに樹木生い茂る日本の多くの山というよりは、ヨーロッパの自転車レース映像でよく目にする、草原の丘陵と切り立った岩をもつ高山地帯のような。地元にこんな所はなかったはずだけど。
そんな場所の斜面、俺と視線の合う位置にその少女は立っていた。心配と恐れと不安がないまぜになった琥珀色の瞳は確かな存在感で、幻覚のたぐいではなさそうだ。
中学生か高校生か? それぐらいの年頃だろう。所々カラフルなあしらいの民族衣装と褐色の肌、整った顔立ち。髪は黒いが日本人ではなさそうだ。しかしさきほどかけられた言葉は日本語だった。ならば話は通じるはず。
焦ってはいけない。さきほどまでの俺も不安で押しつぶされそうになっていたから分かる、この少女もまた未知の男性(それも雲に乗った)に恐れを抱いているのかもしれない。ようやく人と会えたからといって、ガっつくようでは逃げられてしまう。油断させ、じゃない、安心させなければ。
オーケイ、まず己が身をかえりみよう。服装は自転車ジャージ。お肌にピッチリセクシーモードだ。この通り紳士の装いなので問題なし。加えて虹色に輝く靄に寝そべり、中空を流れてきたというこの状況。
一種の神秘体験といえるのでは?
少女の宗教観がどのようなものか分からないが、なにかしらスピリチュアルなサムシングを与えてしまったかもしれない。
「あのぅ……?」
人の子よ……恐れる必要はありません……今あなたの頭に直接語りかけています……さあ、ゆっくりと心と体を開くのです……。
「顔色真っ青ですけど、大丈夫ですか?」
「えっ」
そういえば、さきほどから頭痛がひどくなっている。ゆっくり体を起こすと、天地が逆転したような感覚に陥りまた倒れこんだ。その拍子に靄から下の地面に転げ落ちた。
「こふっ!?」
背中から落ちて肺の中の空気が一気に口から逃げていった。しかしそんな苦しさも、目の前に広がる光景で意識の外においやられる。
少し視線の高い位置には、さきほどまでいた虹色の靄。かなり大きく、そりゃあ自転車で走り回れたはずだ。風に流される様はまるで雲だった。どんどん遠ざかる。そしてその下、今着地した山肌に繋がる眼下の景色は。
「どこだここ……」
朦朧とした頭では考えがまとまらない。しかし、それでもはっきりと分かる。ここは俺の住んでた街じゃない。織部山ではない。
海外旅行などしたことがない俺が、テレビや雑誌でしか見たことがないような光景。アルプス? アンデス? どっちでもいい。数千メートル級の高山地帯が広がっていた。
しかしその他の部分は、今まで見たことがない。虹色の雲があちこち浮かび、筋状にたなびき、何かの冗談めいて頭抜けた高さの槍みたいな山が何峰もそびえる。それらの周囲にはやはり虹色に輝くものが螺旋を描いてまとわりついている。
顔を横に向けると、さっきの少女が駆け寄ってくるのが見えた。俺は体を倒す。土のにおいがした。乾燥した空気はすうっと鼻を抜けていく。
ひとつ、理解した。さきほどからの頭痛や気だるさの正体。これはいわゆる高山病だ。そしてそんなものにかかる以上、俺は生きてる。
次の疑問、「じゃあここはどこだっていうんだ?」はあの少女に訊くとしよう。
そう決めて、俺は意識を手放した。
プリズムの煌めき