九歩目
余りにも暗過ぎる夜道。
月の光は背の高い、高過ぎる樹木に遮られ、足元がまったく見えない。何度でも樹の根元に足を引っ掛け、転びそうになってしまう。ヒカリバナもこんな場所には咲いておらず、咲いていたとしても月の光が射し込まない為、輝きもしないだろう。
(……いや、『ツキカガミ』だったっけ……あはは、馬鹿みたい)
あの時ヒミは、己の行為を激しく恥じた。というより、恥じる以外に選択肢がなかった。図々しくも既知の物を発見者気取りで名付け、それを記した紙束を他人に見られて。しかもそれが、実の母親だからこそ。
それを否定し、一切認めようとしないムラ長だったからこそ──苛立ちは募り、恥は更に溜まり、こうやって思い切り飛び出してしまったわけだ。
かれこれもう何刻程は歩いているだろうか。ヤマトノムラには明確な『時間』の概念はなく、従って時計も無いわけで、どれだけ歩いたなどの明確な情報は知れないが……感覚的には、気の遠くなる様な時間をこの歩行に費やしたように思える。あくまでも感覚的には、だが。
そして彼女はここまで来て、やっと一つの事実に気付く。それは──自分は所詮、独り立ちなど叶えられない存在なのだということだ。
これだけ、いくら歩いても彼女の望む景色は視界には入って来ず、それどころかこの劣悪な環境に屈してしまいそうになる。満足な月の光を眺める事すら出来ず、彼女は身体中の力を使い果たしそうになっていた。
前回はキュリオの創り出す木馬とかいう乗り物に乗ったが故に早く着けた。が、今回はこの二本の脚しかない。屋敷の奥でひたすら座ってばかりいたこの軟弱な脚共しか。一度ムラ長への報告で屋敷に訪れた兵士を見た事があったが、彼のような筋骨隆々な肉体は、彼女には到底再現出来ないものだ。
ふと彼女の中に、ある感情が浮かんできた。
────怖い。
大樹の海であるこの森は先述した通り全く月の光が無く、というか光源自体が無に等しいため、彼女は既に慣れ始めていた夜目を凝らして先を睨み付ける事でしか視界を確認する事が出来ない状態である。
そして先が見えないという事は何処に危険が潜んでいるか分からないというわけで、即ちそれは自ずと恐怖へと変換される。例えば、彼女の後ろから、得体の知れない怪物がその牙を向けてくるかもしれない。彼女が幼い頃に聞いた百鬼夜行とかいう代物が、この奥で見えてしまうかもしれない。
例えばその足元に、伝説であるヤマタノオロチが卵となって、着々と復活の準備を進めているのかもしれないのだ。迷い込んだ者を喰らいながら、この地を破壊する為に────。
ふと、彼女の足元からガサガサという音がする。
「きゃあッ‼︎⁉︎」
思わず飛び跳ね、身構えてしまう。まさか本当にヤマタノオロチの卵なんてものが……という発想が彼女の脳裏を過るが、どうやら森の小動物だったようだ。ただし光が無いためどんな動物だったかも分からず、再びそれにより恐怖心を煽られてしまうのだが。
「……も、もう無理……」
足腰は疲労と恐怖により震え、すくんでいるとも言えるような状態である。未だ先は見えないし、危険な部分も沢山ある事は承知しているため、もう戻ってしまおうかとも考える。────これ以上は、精神的にも肉体的にも保たない気がしてならないのだ。
だが彼女は既に気付いていた。勢いで入ってきた手前、そもそも戻る方法もなく、道無き道を潜ってきた為に来た道を戻れるかどうかも疑問なのだという事に。
「……行かなくちゃ……!」
もう、引き返せない。
その先がどんな暗闇だとしても、もう進むしかない。まだまだ月の光は見えないが、それを見るためにはこの軟弱な脚を一歩、また一歩と進めなくてはならないのだ。
そう、例えどんな怪物が現れても────
瞬間、背後から足音がした。
「ッッ‼︎⁉︎」
それは彼女が振動により浮いてしまうと錯覚する程に巨大な地響き。つまり決してそれは人間のものではなく、加えて言えば決して無害なものですらないという予感が、彼女の危機管理能力の中を駆け巡る。
更に気付いた事が一つあった。それは自分のすぐ後ろから聞こえたという事だ。
つまり彼女は今──猛烈に危険なのだと、そう割り出していった。
ぎちぎちと、その首を錆びた鉄の筒のように後ろへと向けるヒミ。あまりの恐怖に身体が竦み、自ずとぎこちない動きになってしまうのだが、それを訂正する余裕も、ましてや目の前の物に驚く余裕すらも、彼女にはなかった。
何故なら──彼女の目の前に、獣の爪が飛び出してきたから。
「きゃあッッ‼︎‼︎」
咄嗟の判断だった。
ヒミは瞬間、頭を低く下げ、転がる様に前へと転がった。それは半ば転ぶようにではあったが、それによって命を奪われる事はなかった。身体中に土が跳ね、妙な湿気を纏った泥が髪や服を汚す。だがそんな事を気にする余裕すら消え失せる程に、その一撃は彼女の心の臓を震え上がらせた。
ガアアアアアアアッッ‼︎‼︎ と、獣の咆哮が辺りに駆け巡る。当然それはヒミの耳にも入ってくるわけで、しかもこの近距離であるため、一瞬何も聞こえなくなる程に耳の中でそれは暴れ出した。
それと共に気付いた──このままでは、死ぬ。ようやく利いてきた夜目に映るその獣は、彼女が今までに見た事の無いものだった。
瞳は黄色く、闇の中で光り輝く。体長は六メートル程もある巨体、牙を剥き出しにするそれは、彼女が知る筈もないが──大きな熊の怪物だった。赤い体毛に黒がコントラストと化した毒々しげな体色、激しい剛腕に誇る巨大で長く鋭い爪。絶えず涎を垂らし、二足歩行をするその大熊は、その双眼で真っ直ぐにヒミを捉えていた。
「ひっ……ああ、あ!」
殺される。
本能的にそう察したヒミは泥で汚れた身体を起こすと、一目散に走り出した。大熊とは逆方向に、その姿を振り返りもしないまま、ぜいぜいと息を切らしながら。
────森には、こんな危険な怪物がいるものだと知った。それに今まで出くわさなかったのは、キュリオの影の努力だという事を、今となって知ったのだ。
そういえば、彼は夜はいつでも火を焚いていた。あの周りでは何故だか安全に眠れた。きっとこの怪物も、火に対して何か苦手な意識があるに違いない──が、今の彼女に火を点ける余裕は無いし、そもそも火の点け方すらも知らない。とにかく今は逃げる事だけを考えるのだ。
ふと振り返ると、後ろからは大熊が追って来ている。もはや彼女は捕食対象として認識されたのか、相変わらず涎を垂らし続けたままその爪と脚で四足になって走ってくる。
何度も何度も転びかけ、その度にバランスを取ってなんとか耐える。
何故だろう、とふと考えてみる。こんな非常事態なのに考える事が出来るのかが不思議であり、しかもそれは案外どうでも良い事だった。何故あちらは四足、こちらは二足なのに、こんなにもあちらの方が速いのだろう。樹々に邪魔をされなければ、今はもうあの胃袋の中にいるかもしれない。
そして、その無駄な思考こそが命取りだった。
「ッ──きゃあッッ‼︎⁉︎」
元々走るのに適していない草履を履いていたせいもあり、彼女の走りはあからさまに不安定だったのだ。さらに余計な思考が頭を渦巻いていた。それらが災いして、注意を向けられなかった足元に更に注意を向ける事が出来なかった。
ヒミはそのまま派手に転び、再び彼女の服が泥まみれになってしまう。そのアンバランスな駆け足は一転して終わりを迎え、立ち上がる事も叶わない。変に足首を挫いたのか、再び身体を起こそうとするだけでそこに激痛が走るのだ。
そしてその瞬間、暗かった視界が一層暗転する。
ゆっくりと振り返った視界に映るのは──ぎらりと野蛮に光る、黄色い二つの目。
「……あ、あ……」
樹々を蹴散らし、すぐに動けないヒミの目の前へと移動する大熊。その恐怖にヒミは身体全体を強張らせ、震える。
────こんな事なら、こんなところ来なければ良かった。一見綺麗な世界に見えたこの森も、裏を返せば幾らでも危険が潜んでいるのだから。それを知っていてなお、何故自分はこんなところに来たのだろう。
あのムラで大人しく巫女になっていれば良かった。あのムラにいれば命だけは助かったし、将来的にはムラの長になる事が決定していたのに。
自分は恵まれていたのかもしれない、という事に、命が消えかかる今だからこそ気付いてしまう。余計な羨望などせずに、自分の今を続けていれば良かった。
だが、余計な願望も後悔も、全てここまで。
既に目の前の赤い大熊は、その爪を振り上げている。それを振り下ろせば、たちまちヒミは絶命してしまうだろう。恐らく痛みすら感じず、喉元を掻っ切られて。
(……馬鹿。私の馬鹿……!)
ぐっと、恐怖に目を瞑る。もう、終わり。
大熊の鋭い大きな爪は今、彼女に振り下ろされる。
────瞬間、大熊の身体が横に大きくブッ飛んでいった。
ヒミが、大熊が悲鳴を上げる間も無く、何者かの手によって、いきなり大熊がきりもみ回転をしながら森の暗闇へと弾き飛ばされていったのだ。ガガガガガガガッ‼︎‼︎ という、地面を激しく抉るような轟音と共に、熊の身体は地面を削り、大樹の一つに勢い良くぶつかって止まる。
「…………?」
ヒミはその光景を理解出来なかった。
そして、そこにいる何者かの存在を確認する事も出来なかった。夜目は利いているはずなのに、咄嗟に瞑った瞳から溢れ出してきた涙のせいで、視界がぼやけているのだ。
「だ、れ……?」
震える声で、静かに呟く。
そこに居るのが人か、はたまた大熊より更に巨大で野蛮な怪物かも知れずに。だが、彼女も何となく分かってはいた。そこにある真っ黒なシルエットは、何処かで見た事があるからだ。
ただ、そのシルエットの奥にある更に巨大な影は、彼女がこれまで見た事の無い物だった。
ふと、その見覚えのあるシルエットが、言葉を発した。
「……むやみやたらに森に立ち入ったらダメだよ。ちゃんと準備をして、どんな事があっても対応できるようにしないと」
その声に、ヒミは少ししょぼくれてしまう。静かに『……ごめんなさい』と呟く彼女に、シルエットは安堵の声でこう言った。
「でも、間に合って良かったよ。大丈夫、ここからは僕が付いているからね」
するとシルエットは、辺りを走り回り始めた。何をしているのかは分からないが、ヒミの周りを幅広く走り回っているようだ。
────すると、先程の大熊が、黄色い眼光をぎらりと光らせ、突進してきた。目標はまだ途絶えず、相変わらずヒミの方を狙っている。今度は爪だけではなくその牙さえも剥き出しにし、地が震える程の咆哮を飛ばして襲い掛かる。
……だが。
ヒミは、悲鳴を上げなかった。何とな安心感に包まれて、彼の加護がある事に気付いて、彼女は心の底から安心できた。────例えの目の前にその野獣が迫ってきたとしても。
「────いくよ、木の巨人。獣人を襲っちゃいけないってことを、彼に思い知らせてやろう!」
刹那、ヒミの目の前の地面から巨大な腕が飛び出してきた。それは怒り狂う大熊を下から弾き飛ばし、尚且つヒミを守護する。そしてそれと同時に、周囲の樹々が、地面へと飲み込まれていく。
ヒミの前に現れた腕、そしてそこに立つ暗いシルエットは、そこに居てヒミを守る。
そのシルエットの手はぱああっ、と光り輝いており、その輝きはまるで──その手に、何かの加護が宿っているように見える。
それらは地面を通して周りの樹々に命令し、それらを地面へと飲み込み、そしてそれらを糧とした何かがどんどん姿を現していく。
暗闇の中で、かすかに笑ったそのシルエットの向こうで現れ出でたのは──大熊の体長を遥かに上回る、超巨大な木製の巨人。
「……す、ごい……!」
周りの樹々を全てその巨人の創造に費やした事によって、空を覆い隠していたものは全て消え去り、彼女が望んでいた月の光が辺りを照らし出す。それと同時に辺りの風が巻き上がり、その巨人の登場を一層盛り上げていく。
それはまるで、森が巨人を歓迎しているかのよう。
そして巨人と共に、月の光によって露わになったそのシルエットは、声の主は、その赤い瞳を楽しそうに輝かせながら、その巨人に命令する。
「いけっ、木の巨人! その剛腕で、彼を懲らしめちゃえ!」
命じられるがままに、大熊に向かう木の巨人。同じく月で露わになったそれは、不思議な造形をしていた。無骨なデザインの頭部はとても小さく、身体はそれに反するように巨大だ。腰から下はベーゴマのような造形になっていて、それはどういう原理だか分からないが浮いている。そして極端に大きな肩、細い二の腕、そしてそれだけ丸太四本を束ねてもまだ足りないほどに巨大な腕、大きく握られた硬そうな拳。
全て樹で造られており、その身体の所々には樹の節目が見え隠れしている。だがそのツルツルしたボディはこの瞬間に造られたとは思えない程加工されきっていて、不思議極まりなかった。
が、今の彼女はそんな事を考えるより、その体躯が繰り出す一撃の方に意識がいってしまう。
大熊も怒り狂う事によって正気を保てていないのか、自身より何倍も巨大なそれを見てなお、それに突進していく。そんなちっぽけな獣に、巨人は────
────その人差し指を、小さく弾いた。
それだけで、大熊は先程の一撃よりも大きく、樹々をへし折りながら森の奥へと弾き飛ばされてしまう。
指を弾くだけ……だがそれだけでも、スケールの小さい者達には爆風が巻き起こる。ヒミはその場から風圧が弾き飛ばされそうになるが、その手を彼が握って押さえた。
月の光によって正体を現したその少年。
彼はヒミに向かって心配そうに、こう言った。
「怪我は無い、お姉さん?」
その優しさに、その強さに包まれたヒミは、一瞬だけぼーっとしてしまっていたが、すぐに我に返る。
そして大きく笑うと、こう返した。
「ええ、大丈夫です。────……ありがとう、キュリオ」
そう聞いた彼は、にこっと大きく笑い、月の光を浴びながら、
「……良かった」
と、呟いた。
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