六歩目
「本当に、ありがとうございます……こうやって、外に連れ出していただいて。私、本当に感謝しております」
「感謝なんていいよ。僕はお姉さんが暗そうにしてるのが嫌だっただけだからね」
「……そう、だったんですか?」
彼らが屋敷、ひいてはヤマトノムラを飛び出してから既に三日が経っていた。現在は再び夜──もう日が暮れ、日付けが変わろうとさえする、そんな時刻。
辺りを走り回って疲れ切った彼らは、何にも邪魔されずに月が見える、草原のような丘の上に寝転んでいた。森からは既に抜け、気持ちの良い風が彼らの真横をすり抜けていく。
「お姉さん、外に出られないのが嫌で仕方無かったんだよね。もっと色んなものを見てみたくて、だから何も知らない僕に当たっちゃったんだよね」
「そんな……えと、すみません……」
「謝らなくても大丈夫さ。……僕も旅に出る時はそうだったんだ。お姉さんみたいに窮屈じゃなかったけど、どうしてもムラの外の世界が見たくて、僕は家を飛び出したんだ」
「そうなんですか?」
「うん。だから、僕はお姉さんの気持ちがすっごく理解出来るんだ。……でも、そろそろ戻った方が良いんじゃないかな。オキミさんも心配してると思うし……」
済まなそうに忠告するキュリオ。
確かに、そんな事は薄々気付いていた。自分は既に巫女という重要な役職に就く者であり、自分が居なくなればムラは大きく揺らぐ。きっと自分が消えた事はまだ口外されておらず、家から出られない為に自分の姿は知られていない為、現在のムラはオキミが仕切っているのであろう。
そう考えたヒミは、どこかでホッとしたと同時に、自分について少し考えてみた。
(……そういえば私、今何も……無い……)
巫女であるヒミが消えた彼女。
そう、巫女というフィルターを無くしてみれば、今の彼女には、何も無い事に彼女自身は気付いたのだ。
周囲に顔は割れていない為、ムラの人間からは他所者の小娘としか呼ばれないだろう。いや、顔で何処と無く母の、オキミの娘だと分かってくれるだろうか。
結局、あの広い屋敷で生活できていたのも、みんなオキミの娘という称号と、巫女という役職のおかげ。このヒミという一人の少女の価値は──ゼロはおろか、存在すら知られていないのだ。
あのムラには、巫女としてしか見られていない。母親には、自身の選択による責任回避の、いわば罠避けとしか見られていない。
「……ふ、ふふ……」
笑う。
それは、明らかに嘲笑。しかもそれは自分への嘲笑。
「……お姉さん?」
そうだ。
この広い草原を、森を、動植物達を見て分かった。あの遠い月をこの状態から改めて眺めて、やっと気付いた。
私は────
「ふふ、ふ、はは……ははっ……」
────こんなにも小さい、何も無い存在なんだ。
まるでこの世界を丸ごと視界に収めた時の、この広大な世界の中の、ほんの小さなこの草原の中に隠れている、小さな一粒の米粒のような。
この身体を構成する細胞の、数億個とある細胞の、ほんの一つを構成する更に小さな何かのような。
それは、意識しなくても、いや、意識しても決して気付かれないような、そんな存在なのだと。
巫女ではない『ヒミ』は、こんなにもどうでも良い存在なのだと気付き、笑ってしまった。
「……ふふっ、はははっ……」
「ど、どうしたの……? 急に笑って……」
心配そうにヒミに声を掛けるキュリオ。いきなり隣に座っている人間が笑い出したら、そりゃあ気が触れたのではとも考えるだろう。彼を落ち着かせるように、ヒミは言葉を紡ぐ。
「大丈夫、です……ちょっと、思い出し笑いを……」
「でも、お姉さん……泣いてるよ?」
「え……?」
そういえば、なぜこの両手は、自分の顔を擦っているのだろうと、今になって考える。笑っている時に思わず顔を覆って、それから無意識的になったのか。
でもそれは──彼女が、泣いていたから。
(……やだ……なんで、私……!)
自分は、こうなる事を望んでいたのではなかったのか。
親の呪縛から離れて、巫女という役職の呪縛から離れて、ムラという呪縛から離れて──自由に、どこまでも自由に、縛るものもなく、森や草原を駆け回りたいと思ったのではなかったのか。
そうだ、自分は実際に喜びを感じていたではないか。草木を見る事に、草木に名前を付け、草木を描く事に……最大の喜びを感じていたではないか。
なのにこのザマはなんだ。自分は、何故今泣いている?
「……寂しいんだね。離れてみてから、やっぱり元の居場所が恋しくなることもあるよね」
全てを理解したというように、キュリオは月を見たまま呟く。
「今まで自分は守られてきたんだって、飛び出してから気付くんだよ。でも、それでも僕は帰らなかった。もちろん帰るっていう選択肢もあるし、現に今お姉さんは帰らなくちゃダメなんだけど……」
「……ダメ、ですよね。……えと、キュリオ……様……は、その……」
「キュリオでいいよ。歳上から様付けなんて、こっちもかしこまっちゃうよ」
「じ、じゃあ、キュリオ……その、やっぱりキュリオも……寂しかったんですか?」
彼はどうなのだろう、と。
ヒミは当たり前の質問をしてみた。自分と彼は同じなのか、それとも彼は初めから自分とは違うのか、と。
その答えは、すぐに返ってきた。
「そりゃあそうだよ。ホームシック、ってやつだね。最初の野宿をした時、お母さんと話が出来ないのがスゴく寂しかったんだ。まだムラまで帰れる距離だったし、戻ろうかとも思ったんだ。でも……」
月を眺めていたキュリオは、その言葉の後に、満面の笑みでこちらを見る。それは眩しいくらいの笑顔だった。
「やっぱり、旅をしたいなって思ったし、一度決めた事だから戻ったら恥ずかしいなって思ったんだ。僕、飛び出す時は『世界全部を獣道にする!』なんて宣言したから、戻ったら笑われるに決まってるからね」
「……!」
てへへ、と照れ臭そうに笑む。
「……お願いがあります、キュリオ」
それを見た彼女は、それまでとは一転、険しい顔で彼の瞳を見つめる。
「私を、その旅に同行させていただけませんか」
それは、思い切った発言だと思った。
ヒミは最初に森の中に入り、あのヒカリバナを見つけた時から、ある夢を思い描いていた。それはあのムラで巫女をやっていては絶対に叶えられる事ではないし、更にはキュリオの助けが絶対に必要だった。
もちろん、簡単に承諾してもらえるとは思えなかった。厄介者が増えるだけだし、きっと進行も遅くなるだろうし、何より彼自身に迷惑を掛けるだろうから。
だから、少し時間を置くかと思ったのだが────
「いいよ!」
あまりにも簡単に、彼の承諾が返ってきた。
「え、……い、いいんですか?」
「名付け帳、もっともっと描きたいんでしょ?」
「は、はい……でも、お邪魔にならないか、と……」
「そんな事ないよ! 僕だって一人は寂しいもん、一緒に来てくれる仲間が欲しいよ! ……でも、前のムラじゃ誰も来てくれなかったんだよね。やっぱり、旅は危ない事もあるからね」
「わ、私は! 大丈夫ですから! ……私にも、目標が出来たんです! それが達成できるまで、私は死に切れませんから!」
「ふふ、何となく分かるけど、お姉さんの口から聞きたいなっ」
ワクワクしたような笑顔を浮かべ、キュリオはヒミを見る。本当に、彼はこういう笑顔の時が一番輝いている。彼を構成している感情の九割は好奇心ではないのかと、そう勘違いしてしまう程に。
「えへへっ、じゃあ言いますよ? それはですね……!」
月の光を浴びながら、彼らはそれからも笑い合った。
次の投稿は今日の12時頃です!