五歩目
────満月の下に無数に広がり、延々と続く森。
それらは全てあるがままの姿で、何一つ繕わないでそこに存在している。例えば、この花一つでさえも。
「キュリオ、キュリオ! これは何という花ですか?」
ヒミはまるで幼子のようにはしゃぎ、丈の長い巫女服のまま森を駆ける。そしてその視線の先に、小さく咲く花を見つけた。
それはまるで光るように咲く花。と、いうか実際に僅かに光を放っており、その微かな光が、何だかとても儚げに見える。
「何っていうか、この森はまだまだ未開拓だからね。多分その花にも、まだ名前は付いてないんじゃないかな。僕も初めて見る花だし」
「キュリオでも見た事のない花、ですか……ってことは、この花を最初に見つけたのは私、って事ですか⁉︎」
その花に優しく触れ、満面の笑みを浮かべながら、ヒミは嬉しそうにそう言う。
「そうなるね。ここにしか咲かない花とかだったら、お姉さんが名前を付けるべきなんじゃないかな?」
「わ、私が名前を、ですか⁉︎ ……えと、その……!」
その花をまじまじと見つめながら、彼女は楽しそうに思案に暮れる。後ろ姿からでも、彼女が楽しんであれこれ悩んでいるのが目に取れる。『光ってるから……』とか、『でも、それじゃあ……』などとあれこれ呟きながら、彼女はキュリオの事も忘れ、ひたすらに考えていた。
そして遂に、彼女はキュリオの方へと向く。
「……『ヒカリバナ』っていうのは……どうでしょう?」
少し照れ臭そうに、彼女は呟いた。名前を付けるなど初めてで、何だかとても恥ずかしい気分になるのだ。それに、彼女はこの名前はあまりに安直過ぎないか、とも思っていた。光るから『ヒカリバナ』だなんて、いくらなんでも、と。
だが、目の前の少年はふわっと笑うと、
「良いんじゃない? 特徴が名前に出てて」
「そ、そうですか! ありがとうございます!」
彼はそう言うと、懐から何やら取り出した。
それは、紙を何枚にも束ねた物と、木を棒状にした物らしかった。紙自体はヤマトノムラにも存在したが、巻物となっているのが一般的だった。対してキュリオが差し出したそれは、紙の端に穴が空いていて、そこに紐を通して束ねられていた。
それと、手の長さ程度の木の棒は、先が黒くなっている。どうやらその棒の中に、更に細長く黒い芯が入っているようだった。
「これ、あげる!」
「これは……?」
「見た事ない? これ、紙と鉛筆って言うんだけど……」
「紙は知っています。でも、この鉛筆というのは……?」
彼女はそれを手に取ると、色々な角度からそれを見やる。が、そんな事をしてもそれはただの棒、何か分かるわけでもなかった。
「それはね、紙に文字を書く物だよ。これは一つ前に立ち寄ったムラでもらったんだけど、中に黒い芯が入ってて、いつでも文字が書けるんだ」
「へえ……ヤマトノムラで言う、筆のような物ですか。でも、墨がなくても使えるというのは、中々に便利ですね」
試しに貰った紙束に試し書きをしてみる。
すると、それは筆で文字を書くよりも手軽に、しかも細く文字が書ける。そもそも書き心地が違う。何というか、紙にしっかり墨を叩き付けて書くというよりは、さらさらと素早く書いているようだ。
その書き心地に暫し心を奪われながらも、ふとしてからヒミはキュリオに聞く。
「……で、でも。なんでこれを私に……?」
「今お姉さんが名付けた物の名前を、それに書いていきなよ。名付けて、『お姉さんが名付けた物帳』!」
つまりそれは、これから埋まっていく印、彼女が外に出た事の証という事だ。
この森は未開拓である以上、名前の付いていない、所謂名無しの植物や動物が限りなく生息している。それに名前を付け、記録を残していけば良い、と言いたいのだろう。しかしキュリオのそのネーミングは無いな、と少しヒミは笑ってしまった。それがつい顔に出てしまい、それを見たキュリオは顔を真っ赤にして怒る。
「な、なにさ! なんで笑うんだよ!」
「いや……いいんじゃないでしょうか。可愛らしい名前で」
「ば、馬鹿にするなー!」
むきーっ、と恥ずかしさを誤魔化すようにヒミの肩を揺らすキュリオだったが、その仕草すらも可愛らしく、彼女は更に微笑ましく笑ってしまう。それがますます、彼の羞恥心を煽るのであった。
「……でも、ありがとうございます。早速、書いてみますね」
彼女は振り向き、彼女が名付けた『ヒカリバナ』を見つめながら、その名前を『お姉さんが名付けた物帳』改め『名付け帳』に書き記す。だが、それでは何となく物足りないというか、余白が勿体無い気がした。んー、とヒミはしばらく考え込むと、何やらそこに書き込んでいる。
「お姉さん、何書いてるの?」
「内緒ですっ。ちょっと待っててください!」
がばっ! と紙を隠して、ヒミはキュリオに離れるように言う。訳が分からず彼女の言うままに待ち続ける事五分程、やっとヒミはキュリオに紙を見せる。しかし先程とは打って変わって、自分から彼の目の前にバッと紙を広げた。
そこに描かれていたのは──見事に、まるで紙の中で生きているかのように生き生きと描写された『ヒカリバナ』だった。
「すっ……すごいね、お姉さん‼︎ こんな上手い絵が描けるの?」
「外に憧れて、 屋敷の中で色々と想像して描くのが好きだったんです。最近は外に出る事にすら興味が湧かなくって、こうやって描くのもご無沙汰だったんですが……案外、手が覚えているものですね」
そう言って、随分と自慢げに笑うヒミ。そんな彼女を、キュリオは本気で尊敬した。
白黒のハズなのに、本当に光っているかのように見える陰影の付け方、花の儚げでいて柔らかな部分が表現されている質感、それが合わさり、まるで紙の中に咲いているかのような印象を与える。
キュリオはその絵を手でそっと撫で、それが紙の上に刻み込まれた黒い芯の粒だという事を再確認してから、ワクワクしたように大きく笑って、
「お姉さん! 他にも何か描いてよ! あ、この木なんてどう? あとこれとか! 面白い形してるよ!」
はしゃぎながら、彼はあちこちの草木やら虫やらを指差す。ヒミはそれにやれやれと笑いながら、次々と名前を付け、それを紙の上に模写していく。
────まるで渦巻きのような、バネのような奇妙な形をした植物──これは、『ラセンソウ』。
────小さな花びらが集まり、大きく咲き誇る赤色の花。その大きさは二人をも凌ぐ程である──その花の名は『オオベニ』。
全てキュリオは見た事が無く、ここにしか咲かない花、ここにしか存在しない植物だというそれらは、何度でもヒミを魅了した。夜である事もあってか全てが淡く綺麗に映り、なんだかロマンチックな心持ちになる。
それに、彼女は楽しかった。
名前を付け、それを紙に記す事によって、まるで自分が新しい発見をしてるように錯覚させる──いや、これは間違い無く、新しい発見なのだろう。何しろ、これは彼女が書き連ねなければ、人々に知られていない存在なのだから。
思うがままに、やりたいままに、彼女は鉛筆を走らせる。書けないほどにまで丸くなってしまっても、キュリオから携帯用のナイフを借り、鉛筆の先を研ぎ、再び書き続ける。書き、描き、自分の証を創り出していくのだ。
それが何よりも──楽しかった。
こんな経験、一度もした事が無かったから。
今まで人々を騙し、神のお告げなどと嘘をついて非生産的な事をし続けてきた自分が、今初めて──何かに名前を付け、それを記すという、歴史的に生産的な事をしているという事実。
息遣いさえも感じるこの深い森の中で、彼女は真の喜びを見つけた気がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
あくる朝、ヤマトノムラでは────
「……キュリオ様とヒミがいない?」
従者からその旨を伝えられると、オキミは焦った様子を見せた。どたばたと慌てた様子で渡り廊下へと赴くと、そこには、まるで何かの生き物の蹄のような跡があった。それだけではない、庭と外の森の仕切りが消え去っているのだ。破壊されているのではなく、忽然と消えている。
「……まさか……!」
全てを察したオキミは、近くに居た従者に告げる。
「直ちに捜索隊を編成してください。きっと、キュリオ様もそう遠くまではヒミを連れていけないハズ。恐らく彼女が、キュリオ様に無理を言って頼んだのでしょう──外に出たい、と」
明らかに普段の落ち着きを無くした様子で、彼女は呟いた。
「……ヒミ。あなたには、まだ外の世界は早すぎます」
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