四歩目
あのキュリオとかいう少年は、どうやら旅人であるらしい。歳はヒミより二つ下の14歳。一年にならないくらいの間、様々な場所を旅しており、今回立ち寄ったのがこのヤマトノムラだったのだという。
厠の扉をのそりと開き、その無個性な足音を響かせながら渡り廊下を歩くヒミ。障子の向こうから、青白い月の光が反射して、その長く冷たい黒髪を照らしていく。
今は大体、日付をまたいでいく頃。当然ながら屋敷の中は静かで、誰一人として起きている者は居ない。巫女としてお告げを受ける部屋に籠り、こんな時間に一人寂しく冷めた食事を口にする自分以外は……誰も。
「……こんな事、いつまで続けていればいいんだろう」
重い溜め息を吐きながら、ヒミはあの少年と出会った、庭と月が見える場所へと一人座った。
「神様なんて……いるわけないのに」
真っ暗な、いや、星々の輝きによって青白く自身を照らす空を見上げながら、ヒミは馬鹿にしたように口にした。
────彼女は、ここから見上げる月が大好きだった。
月は良い。あの幾千の星々と共に光り輝くあの巨大な星は、まるで獣人などちっぽけであるとでも言うようにこちらを見下ろしている。獣人の存在も、その獣人が創り上げた伝説、くだらない英雄の話でさえも。
ヒミは、自覚していた。
それを、あの少年の一言により蒸し返されたようで、余計に腹が立ってしまったのだ。何故、あの少年は自分より物を知っているクセに、こちらに尋ねようとしたのだ。
こちらは、何も知らないというのに────
「やあ、やっぱり会えると思ってたよ。お姉さん」
もう一度、ヒミが重い溜め息を吐いた時だった。
────彼女が見上げる月に被さるように、一人の少年が──上下逆さまに姿を現したのだ。
「きゃっ⁉︎」
「しーっ。みんな寝てるよ、静かにしなきゃ」
人差し指を立て、口の前に置くと、その少年はにやにやと邪気の無い薄ら笑いを浮かべながら、そう言った。
驚き後ずさってしまったヒミだったが、恥ずかしげに顔を背けると、彼女はその少年―――キュリオを、咎めるように呟いた。
「何故この時間に、こんな所にいるんですか? 既にお母様は床に就いたはず……あなたも、眠ったのではないのですか?」
「だってお姉さん、晩ご飯の時にも居なかったじゃないか。せっかく話を聞きたかったのに。だからこうやって、一回会った所で待っていたわけさ」
よく見ると彼は、どういうわけかこの屋敷の屋根の木材を伸ばし、その出っ張りに脚を回してぶら下がっているようだった。まるで猿のような動きに、ヒミは少し呆れたような態度を取る。
「……だから、こんな所で小一時間私を待っていたというのですか。全く、自由きままと言ったら良いのか、神出鬼没と言ったら良いのか……」
「いや、僕はお姉さんを待ってるだけじゃなかったよ。このムラの景色を眺めていたんだ」
よっ、と一言呟き、彼は地面に降り立った。そのままヒミの隣に座り、同じく月を眺めながら言う。
「このムラは良いね。まるで時間が止まったみたいで……家が全部木造りだからか、どこか古風な雰囲気を感じるよ。僕、こういうの大好き」
「あなたは旅人なのでしょう? こんなムラ、何処にでもあるのではないですか?」
「……オキミさんにも言ったけど、僕はまだまだ旅の途中さ。ムラは今まで二つくらいしか寄ったことがない。こういうムラを見るのは初めてさ」
おぼろげに虚空を見つめるキュリオは、ふとヒミを振り返り、顔を近付けて再び問うた。
「僕はもっと、この世界の事を知りたいんだ。だからさ、巫女の事も、このムラの事も教えてよ! オキミさんだけじゃない、色んな人からの話を聞いてみたいんだ!」
それはキラキラと輝く子供の瞳だった。物事を何処までも純粋に捉え、それを感動へと結び付ける汚れのない心。
こんな薄汚れた、真っ黒な瞳の自分とは違って、なんと美しい事だろう。
「……私が知っている事は、全てお母様が知っています。私が何か言う必要はありません」
「そんな事ないよ! お願い、お話だけでも!」
「……ッ、無理なものは無理だと、先程も申したでしょう! あなたはワガママすぎます! 人の事情も知らないで、そうやって……ッ!」
────その瞬間、ヒミは口を滑らせた。
その言葉を聞いてから、キュリオはハッと気付いたようにヒミを見つめる。何十秒もそれが続き、ヒミはぷいっと顔を背けてしまう。
「事情……そうか。お姉さんには、そうやって思い詰めちゃう事情があるって事なんだね。ごめんね、気付いてあげられなくって……」
ホッとするヒミ。
口を滑らせたかと思ったが、どうやら事態は良い方向に進んだようだ。このまま余計な事を喋ることなく、彼も自身の部屋へと戻ってくれるだろう────
「でも、」
と。
思っていたのだが。
「────僕は、それでも聞きたいんだ。なんでお姉さんがそこまでして僕に話したくないのか、僕に教えてくれないかな?」
ギリリッ! と、耐えようもない程に苛つくヒミ。その歯軋りの音が頭の中にうるさいほど響き、彼女は冷静さを欠いてしまった。
「……私は、あなたみたいな人が大嫌いです。私より何でも知っているクセに、尚私に何か聞こうとする人が」
驚く程静かな怒りが、彼女の身体を包み込む。ドスの効いた声が、キュリオの耳に入っていく。
「私が知っているのは、あなたが追い求めるような純粋なものではありません。私は、汚い騙しの手段しか、この小さな脳味噌に詰まってないんです」
キュリオは、何も言えない。
「……私は巫女です。皆の導く先を神に委ね、神の声を聞くために生まれてきました。このムラの人々に言わせれば、私は神の代行者、というらしいですね」
ですが、と彼女は呟く。
「私は神の代行者ではありません。言ってしまえば、このムラを裏から支える──お母様の代行者、と言った方が正しいのでしょう。神なんて所詮ありともしない絵空事ですし、神の声を聞ける一族なんて存在しないんですよ」
「……どういう事?」
キュリオが首を傾げて尋ねると、ヒミは俯いて答える。
「このムラにおける巫女、というのは──……神と偽り、ムラ長の命令を都合良く人々に解釈させる、いわば調教の為の道具のような役割なのですよ」
それが、全てだった。
ムラ長というのは、本来このムラを背負って立つ者。だが背負う者が出す命令というのは、将来の為に良くても、時として民の反乱を買ってしまうものでもあるのだ。
このヤマトノムラでこれを上手く受け流す役割が、巫女という存在。ムラ長には権限が少なく、実際に采配を出すのは神の声を聞く巫女とする事。
これにより、ムラを左右するのはムラ長の命令ではなく、神の命令という事になる。更に巫女とムラ長は世襲制であるという事実から考えると、母がムラ長、娘が巫女という構図が延々と続く。これにより、巫女は表ではムラ長より上の立場でも、実質的には母親に逆らえない娘による、操り人形の政治が誕生するというわけだ。
「どうです? これがあなたが聞きたがっていた、巫女の仕事、巫女の役割です。くだらないでしょう? あなたが知りたがっていたのは、こんなにも汚い、責任逃れの構図だったのですよ」
自嘲気味にニヤリと笑み、その真っ黒な瞳を薄く開くと、彼女はキュリオを見やる。
「ちなみに、私はこれ以外には何も知りません。巫女はこの事に気付いても口外させない為に、ムラ長になるまで家から一歩も出てはいけないのです。だから私はこの屋敷から外に出た事は無いし、この庭から見える月以外、自然というものを見た事がありません」
ヒミは静かにキュリオへと近づくと、何も言わない彼の顎に触れて、ゆっくりと持ち上げ、自身へ目線を合わせる。
「────言ったでしょう? 何も知らない、と」
その一言は、何一つ間違ってはいなかった。それどころか、真実を忠実に述べていたのだ。
家から一歩も出た事のない箱入り娘が、旅をしている少年より物を知っているはずがない。知っているのはこんな汚れたムラの仕組みだけ。だから話したがらなかったのに、この少年は──全くもって、愚かだ。
くくく、とヒミは笑う。
どうせ、この少年には何も出来ない。周りを疑心暗鬼の目で見ながら、そそくさとこのムラを出ていくのだろう。彼に実害は無いにしても、この仕組みを知ってしまったという事実が、彼の心を蝕んでいく。
少女は、既に諦めていた。
幼い頃から夢見ていた、外の景色を見るという事を。
子供のうちの、ちょうどこんな少年のような──純粋な瞳で、一度自然を見て回ってみたいという事を。
だからこの少年には、何も期待しない。こうやって俯いているのも、きっと返す言葉が無いからだ。
「ごめんね、お姉さん」
ほら、というようにヒミは笑む。自らを馬鹿にするような笑みを。
だが、次の瞬間、彼は────
「人に聞く時は、まずは自分から、だよね! いいよ、僕がお姉さんに、良いものを見せてあげる!」
予想だにしない言葉だった。
再び目線があった時の少年・キュリオの瞳は、諦めてはおらず、むしろ──この先の彼女の反応を、楽しみにしているとでも言うかのようだった。
刹那、ヒミの手は少年には固く握られ、勢い良く引っ張られる。彼女はそれに上手く反応出来ず、転びそうになりながらもついていく。
「ちょっと……! 一体、何を……⁉︎」
そんな声も聞かず、キュリオは庭に建てられた仕切りの板の全てに、右手でタッチしていく。そして、
「本物はこの辺りには居ないと思うけど……馬っていう生き物がいるんだ。彼らは、僕らを乗せて走るには都合の良い身体をしてるんだよ!」
そう言ったキュリオの右手から、薄く輝く光のようなものが垣間見えた。そしてその右手は、まるで何かを組み上げるような動きをすると、最後に指を大きく鳴らし、キュリオは大きく叫び出す。
「見てて、これが僕が見せる最初の面白いものさ!」
それと同時に、彼は大きく跳び上がる。ヒミもそれに引っ張られて跳び上がってしまうが、何が何だかよく分からない。
だが、その間に──なんと、彼らが居た足元から、木が部品のように組み合わさり、どんどん形作られていく。それはヒミが何か言葉を発する前に──馬の形となり、彼らをその背に乗せた。それは、先程キュリオが右手で触れた仕切りの板で作られており、彼が触れただけでそれは馬そっくりの形状を作り上げるための、パーツと化していた。
ヒミが知る由もなかったが、それはこの世界の『馬』と全く同じ大きさであり──その動き、走り方でさえも、全く本物のようであった。
「何が──起き──……ッ⁉︎」
ヒミがやっと声を上げた時、木で出来た馬、さしずめ木馬と言うべきだろうか──は、蹄を地面に叩き付け、ムラの外へと走り出した。
「これから君に、このムラの外の景色を見せてあげるよ! お姉さん、まず最初に何が見たい?」
眩しい笑顔で、キュリオは後ろを振り向いて尋ねる。ヒミはもう──なるがままになれ、と思い、そして叫んだ。
「……花が、」
喉から絞り出すように。
心の中の欲望を、全て吐き散らすかのように。
無意識の内の、満面の笑みで。
「花が見たいです! それと、木と、えっと……加工された木じゃなくて、ちゃんと地面に生えた樹を! それと川も、動物も!」
「オッケー! しっかり掴まっててよ!」
木の皮を重ねて造られたような手綱を引きながら、キュリオは木馬を制御して走り続ける。既にムラの外へと飛び出しており、彼らは遠い森の奥へと向かった。
────そして。
気付いてはいなかったが、この瞬間のヒミの瞳は……これまでに無い程に、そう、キュリオの純粋な瞳と比較しても大差無い程に、子供のようなキラキラした光を携えていた。
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