一一八歩目
「────ブランカぁぁあああああああッッ‼︎‼︎」
身体が、いきなりその場を離れる。
視線が角度を変え、ぐんと歪む。そしてその身体を、不意に温かさが包み込む。今までの熱とはまた違う、別の温度。
「ッ……ぐ、あッ‼︎」
聞き覚えのある男の人の声。
その呻くような声は、自らの目の前で聞こえてくる。
同時に、痛覚がブランカを襲う。瓦礫が彼女の身体に幾つもぶつかり、肌に食い込むような感触さえ感じる。
けれど、その痛みは小さい。その温かさが、柔らかさが、彼女を守ってくれたから。
(……ッ、……が……ッ⁉︎)
回転が止まり、ブランカとその男はタイルの上に投げ出される。
その男性がブランカを救う為に横から飛び出し、彼女を抱えて避けてくれたのだと気付いたのは、数秒経ってからだった。そしてそんな彼は今、彼女の上に覆い被さるようにしている。
夕焼けを隠すような角度でこちらを見つめるその青年は────そう。
「いつつ……も、もう大丈夫だぜブランカ。僕がついてるからさ……!」
バッツ。
彼女が無意識の中で浮かべた、最も救ってほしかった青年だった。
普段はブランカの頭を真っ白にしてしまうその少年も、今のこの状況では、何処か落ち着きを与えてくれるような、オアシスのような存在になる。
(ば、バッツ……⁉︎)
「ほら、ぼけっとしてないで早く逃げるぞ! あいつがこっちに来る!」
バッ、とブランカが振り向く。
巨人はゆっくりとこちらを視認し、ブランカへと放っていた手を戻し、もう一度彼らへと向ける。再び滴る炎の泥の熱に、バッツは舌打ちをする。
「早く!」
立ち上がったバッツはブランカの手を引き、同じ様に彼女を立ち上がらせようとする。
(で、でも……!)
恐ろしいほど身体が震えている。巨人の手が再び目の前に迫っているというのに尚、彼女は立ち上がることは出来ない。
だが。
(……!)
ぐっ、と握るバッツの手によって、震えと心音が落ち着いてくる。先程まで何故だか地面をかするだけだった靴の踵が、今度は上手く地面を捉えてくれる。
自身の掌、バッツが握っていないもう片方の手を地面に押し付け、ぎこちない動きで立ち上がる。それを待っていたかの様に、バッツは彼女の手を強く引いて駆け出した。
「よし、逃げるぜ!」
こくり、と彼の言葉に従って頷くブランカ。
今度は身体が震えない。彼の体温がブランカに伝わり、震えを少しずつ緩めてくれているから。真っ白だった頭はクリアになり、自分で考える事が出来てくる。
幸い、炎の泥の巨人は鈍い。よく見ていれば動きは分かる。だが他のムラの人々がそれを出来なかったのは、あまりにもその数が多いからだろう。
ちらりと見渡しただけでも三体。そのどれもが、まるで庭の雑草を引き抜くかの様に獣人を握り締め、喰らおうと口を開く。
(────ッ!)
残酷な悲鳴。
それが周りの全てを包み込む。炎の泥で焼け死ぬ痛みは、もはや痛覚をも超えた何かだろう。痛みを感じる機能でさえ、溶けていくのだから。
「……っ、やべえ!」
そして、溶けて喰らえず、空腹を満たす為に次の標的を見定める三体の巨人。その次の目標は──もちろん、そこにただ二人残るバッツとブランカのみだった。
(こ、んなの……!)
「こっちだ! 抜け道がある!」
次々と伸びてくる腕。炎熱で視界が歪むようなそれが、合計六本。その全てが、二人の元へと向かってくる。
バッツはブランカの手を引き、走る。彼女の様子を少しだけ気にしながらも、彼はその足を動かし、速度を下げる事はない。
住宅と住宅の小さな間。人が一人通れるくらいの小さなスペースを、二人は縦に並んで駆けていく。元々はこの家屋の庭なのだろうが、今はそんな事を気にしている場合じゃない。生き残る為には、手段など選んでいられないのだ。
それに、どうせこの家の獣人も、もう────。
(……いや、考えちゃダメ……)
先程の少年の断末魔が、耳にこびりついて離れない。救えなかった後悔が、どうしても彼女の心に残る。たとえ何か力になれたわけじゃないとしても、ただ見届けるしかなかった己を悔やむ。
一方その時、バッツは己に感謝していた。
旅人にこのムラを案内するという仕事をしていたおかげで、バビロイドの地形、行く事のできるルートは把握出来ている。
やっと。
ようやくやっと、彼女の役に立てる機会に巡り会えたようだ。その事に、バッツはこの惨劇の中で僅かに希望を抱けていた。
(絶対にブランカには指一本触れさせねえ……僕がどうなってもだ!)
兄の消息は分からない。バッツが家に帰ってきたのち、彼は交代の時間帯で何処かへ出掛けていってしまった。けれどもう、生きているかどうかは調べる事が出来ない。
(死ぬわけねえだろ……あんな筋肉ダルマがこんなところで! 僕だって逃げ切れるような、あんなトロいバケモンに!)
息を切らせながら、バビロイド特有の石畳、家の庭の土、その他諸々を踏み付けて走っていく。時々背後のブランカに目を配るが、彼女も彼女で慣れない猛ダッシュに付いてきてくれているようだった。
手を握っているとはいえ、彼女は普段家に篭って紙芝居を描いているような、そんな物静かな女の子なのだ。そんな彼女にこんな事を強いるなど、あまりにもナンセンスなのだという事は百も承知。
だが、その代償が命なのなら話は別だ。死んでしまっては何も残らない。ましてや彼女を殺してしまう事は、即ちバッツの存在意義が消失する事になる。
────いいや、本当はそんな理屈を超えた何かが、彼の心を動かしているのだ。
「……っ、……っ!」
声は出ない。
けれど、彼女の辛そうな吐息は確実にバッツの耳へと届く。けれど彼女はそれをなるべく堪えようとしている。恐らく、バッツに心配をかけたくないのだろう。
「大丈夫か、ブランカ? 巨人は何とか撒けたみたいだ。あそこで休憩しようぜ」
こくり、と辛そうに頷くブランカ。断続的に聞こえる吐息が、彼女の身体を無理やりに動かした弊害の一つなのだという事を強く感じる。
二人の視界の先に、小さな公園が見えてくる。子供達が遊ぶ為の場所だ。普段は子供達で賑わうそれも、今はがらんとした無音が包み込んでいる。
この公園にバッツ達は来た事は無かった。どうやらここは小高い丘のようで、そこからはこのクニを一望は出来なくても、少し高い位置から確認する事は出来る。
「…………嘘、だろ……?」
バッツは、そんな所からクニの一部を眺めて、思わず唖然とする。
────バビロイドの国が、その全てが、あの炎の泥に包み込まれている。まるでそこだけ地獄だとでもいうように、全てが熱の塊であるあの泥に覆い被せられているのだ。
数十体……いや、もう既に百何十体に届くほどは居るだろうか。
それだけの量の、炎の泥を纏った巨人が、虚ろな姿勢で辺りを闊歩している。その身体から地獄の破片である泥を撒き散らしながら、彼方此方の建物を溶かして回っているのだ。
指先から、頭の先から、足元から。全ての物質の形を奪って己の糧とする泥を滴らせ、広げている。
バッツはもう、そこが自分が住んでいたクニだと思う事は出来なかった。何処か別の場所に連れ出されたような、この世の辺境に投げ出されたような、そんな絶望感を感じるのみだった。
(……ッざけんな! このクニから逃げるしかねえか? けど僕達は何も用意なんてない、着の身着のままだ。このまま森に出たって、名前も知らない動物達に殺されるに決まってる!)
バッツは舌打ちしながら、もうすぐ暮れそうになる日を見つめて歯ぎしりをする。あと数刻としない内に夜が訪れる。そうすれば森の動物達は活動を活発化させる。だからといって夜明けまでこのクニに留まれるとはとても思えない。
(どうすりゃいいんだ! 考えろ、考えろ……! 何か僕に出来る事は……⁉︎ あと少しすれば間違いなくあの巨人がこっちに来る。だからって闇雲に走っても…………────⁉︎)
そのチリチリのクセ毛をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら、必死に頭を回転させるバッツ。
と、そんな時、彼の腰の辺りに感触が表れた。
「ぶ、ブランカ……?」
バッツが正気に戻って少し下を見つめる。
彼の視界に映ったのは、銀色に綺麗に光る頭髪と、まだ恐ろしいというように震える獣の耳。感触として感じるのは、腰の辺りに触れる腕の震え。そして声が出ない彼女がそれでも恐さを紛らわせる為に出す吐息の温かさ。
自らの洋服越しに触れる彼女の唇の動きで分かる。彼女がたまにする、声が出ていた頃の名残。焦ったり頭が真っ白になったりすると、咄嗟に出る動き。
────声が出ないにもかかわらず、声が出ているかのように必死に口を動かす。それは音が出ているのが大切なのではなく、自分に言い聞かせているのだという事をバッツは知っていた。
『こ』『わ』『い』
『し』『に』『た』『く』『な』『い』
彼女の震えは。
彼女の恐怖は。
もはやバッツがいるかどうかで抑えきれるものではなかったのだ。
ぎゅっ、と腰が強く抱き締められる。公園の地面に膝をつき、情けなく震えながら声に出ない声を自分に囁きかける彼女は。
とても儚くて、とても弱々しくて。
「…………」
ただうわ言のようにそう呟くブランカの唇の動きが、変化する。
『バ』『ッ』『ツ』
彼の名を呼ぶように動き。
────『た』『す』『け』『て』と。
「…………────!」
間違えようもなく、そう分かった。
だから、バッツはもう迷わない。自分がどうすべきかも、直感で理解出来た。
「ブランカ……!」
そう、彼女の名を呼んだ。
少しだけ間を置いてから、彼女はゆっくりと顔を上げる。涙と上気した頬に支配され、夕焼けの茜色を浴びたその泣き顔。
バッツはもう、覚悟を決めていた。彼はゆっくりと、彼女と同じ様に地面に膝をつき、勢い良くブランカに向き直る。
────そして。
彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
「…………!」
直前に見えたのは、彼女の驚いた表情、見開いた瞳。
直後に見えたのは、継続されたその表情の後に表れた、満ち足りたような表情。
「…………ッ、〜〜! ぼ、僕にこんな事言う資格ないかもしれねえし、今だって不意打ちだったかもしれねえけど!」
瞬間、バッツはブランカの身体を力強く抱き締めた。
誰かに縋るようなそれではない。足りないものを補おうとする抱擁でもない。
その腕に抱き寄せた一人の大好きな女性を、女の子を、ただ安心させたいが為に────自らの腕と胸を使って、温めてあげたいが為に。
そして、彼女を守ると絶対に誓う、己への宣誓の為に。
バッツはその強くもない、けれども決意を帯びた腕で、ブランカを抱き寄せた。
「────けど、僕は君が大好きなんだ! どうしようもないくらいに‼︎ 絶対に……本当に絶対に、君を手放したくないんだ‼︎‼︎」
大好きだからこそ。
彼女をこの腕の中から逃したくないからこそ。
彼は、こうやって彼女に訴えかけた。
こんなの、どさくさ紛れの告白かもしれない。こういう状況だから踏ん切りがついたというだけの、勢いに任せた想いの伝え方かもしれない。
けれど、この温度は絶対に失いたくない。
この唯一無二の温かさだけは、バッツの中に永遠に残していたい。
誰にも真似できない、彼女だけの温度だから。
「だから、安心してくれよブランカ」
バッツは名残惜しそうにブランカの身体から手を離す。
彼女だけの体温が手の中から抜けていく。いつまでもこの甘い熱の中で眠っていたい。
けれど、彼のその腕には、決意も込められている。バッツはそのままブランカに目を合わせると、真剣な眼差しでこう告げた。
「────僕は、君に何度でも償わなきゃいけないんだからな」
そうだ。
こんなところで死なれては困る。
彼女の声を奪った罪を償う為にも、彼女の命は絶対に守る。そして、その為にもバッツ自身も生きながらえなければならない。
『死』なんていうのは逃げる事に等しい。彼を閉じ込める罪の牢獄の中で、彼女の為にひたすら自らを消費し果てる事こそ、彼にとっての償いなのだから。
つまり『死』とは、その牢獄の中で首を吊るようなもの。遂げなければならない償いから逃げるようなもの。
────そんな事、絶対に許されない。そんな自分だって許せない。
だから、バッツはいつまでもブランカと共に居る。彼女が満足そうに老いて逝くその日まで、何らかの形で彼女に償い続ける。
その為にも。
(その為にも、こんなとこで死んでられねえよ!)
彼の瞳はブランカの瞳を見つめ続ける。決意を自らに強く刻み直す為にも。
だがその時、ブランカの頬から一筋の涙が落ちる。
「ッ、あ、わ、悪い! 変な事しちまって……い、いやでも、ぼ、僕の気持ち、伝わればな、って……ごっ、ごめんなさい‼︎ すいません‼︎」
バッツは慌てて、ごちゃごちゃした自分の頭を整理しようとする。けれど彼の口から飛び出すのは、震えたよく分からない言い訳のみ。
泣き出すほど嫌だったのか、と思ってしまった。思わず土下座し、恥ずかしさと嫌悪感のあまり額が割れる程地面に強く頭を叩きつける。
だが彼の頬を、頭を上げるよう催促するように触れるブランカの手。それに催促されて少しだけ上を見上げると、途端に彼女は彼の身体に抱き着き、先程の彼がしたように不意にキスをする。
「っ⁉︎」
咄嗟の行動に驚きを隠せずにバッツが目を見開いていると、彼女の整った顔がゆっくりと遠ざかっていく。
────『しかえし』と。
先程まで触れていた彼女の唇が、そんな形を描き、最後に悪戯っぽく笑った。けれど彼女の気恥ずかしそうに染まった頬は、あんまり余裕があるというわけでもないという事を暗に示している。
そんなところが最高に可愛らしくて、最高に健気で、やっぱり愛おしい。
────ずっと、幼い頃から一緒に居たのに。
どうして、今の今まで気付かなかったんだろう。
バッツはぼうっと、放心したままブランカをじっと見つめていた。そんな視線があまりにも長く続いていた為に、ブランカはまたもや恥ずかしそうに頬を染める。
そしてわたわたとしながら視線を下にズラす。ふとここが公園の砂場だと気付いたブランカは、丁度良いという風に砂の上に指で文字を書いていく。
『────私もずっと、好きだったんだよ』
バッツはそんな文字を目にして、思わず慌てふためいたままバッと立ち上がった。
「〜〜! さ、さあ、早く逃げようぜ! こんなとこでイチャコラぶっこいてると巨人共に捕まっちまう!」
気恥ずかしさもあってか、彼女の手を掴んで催促するように立ち上がると、そのまま彼らは公園を抜け出す。
未だ砂の上にあった彼女の指、その軌跡を描く事を止めさせて。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『だから償うなんて、』
と、文字はここまで書かれていた。ただの粒の集まりに込められた想いは、そこで途切れてしまっていたのだ。
『そんな事考えないで』
と、そう伝えたかったのに。
それは、万物を溶かす炎の泥により掻き消されてしまった。
────全くの、跡形さえも無く。




