一一〇歩目
────夢を見た。
悲しい夢だ。
記憶の中にあるとある一つのムラが、突如として破壊されていく夢。全てが炎に包まれ、その中で一人の男が笑っている。
見知った男だ。前髪は右目に僅かにかかるくらいで、その色は漆黒のように黒い。瞳は赤く、背後で燃え盛る炎のように、どす黒く煌めいている。
その黒装束はまるで炎の影と同化するようで、その鎌はまるで悪魔の持つそれのよう。
そして彼が煙のように消えると、いつの間にかそこは血だまりの中。まさに血の海のそこには、おびただしい数の死体が浮かんでいる。
数多の、顔も見た事のない人間。彼らは身体の何処かが燃え、炭のように黒焦げている。
そしていつの間にか他の死体が消え、その中から知っている人間だけが取り残される。
「……マリー、さん。ベネットさん……」
額が見えるデコ出しの髪型で、金色の髪が特徴的な子供っぽい少女。
そばかすが特徴的で、茶色の髪を後ろにまとめた少女。
「ジェフリー……ルーチン……」
ツンツンした黒髪が特徴的で、常識人な少年。
黄金色の髪と、その自己意識の高さが持ち味の少年。
皆、既に命を失ったまま血の水面に浮かび上がっている。身体の何処かを焼け焦がせ、いつの間にか灰になって消えている。
そうして更に数が減り、そして残ったのは二つの骸のみ。
一人は緑色の髪を後ろに伸ばし、眼鏡をかけた少女。ただしそのレンズは欠けており、そもそも彼女自体の瞳すらも開いてはいない。
「カヤネ、さん」
一人は青色の髪を持つ、落ち着いた雰囲気の少女。今はもう落ち着いているどころか、音の一つすらも発しない。
「シスイ……さん、まで」
それらも消える。血の海に炎が燃え移り、全てが赤く燃え盛り、何もかもを飲み込もうとしていた。
ただ。
煙と血液、そして濃い闇の中で朦朧とするキュリオの意識は、無意識に残りの一人を探していた。
だが、それは虚ろな目で辺りを見渡しても、何故だか見つからない。先程までおびただしい死体で埋まっていたこの足元も、今は肉片の一つですら見当たらない。もちろん人の影も匂いもしない。ただ鼻に付くのは、燃え盛る炎の焦げ臭い匂いだけ。
そうして最後まで残りの一人を見付けられぬまま、キュリオの意識は炎に包まれていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
────瞳が、ゆっくりと景色を映し出す。
閉じられていた視界が、光を取り込み始める。それは最初少しだけ目に負担を与えるが、それが枕元に置かれた蝋燭の淡い光である事に気付いたのち、その負担は段々と消滅していった。
己の身体はベッドに横たわっているようだった。いつも額に装着しているゴーグルは蝋燭の隣に置かれ、同時に手袋もそこにあった。
いやに鼓動が静かで、ゆっくり落ち着いている。
(……今、は? ここ、は……)
まだ眠っているであろう脳が、慣れないなりに動こうと苦労している。今のこの状況を把握する為に、何とか整理をしようとしている。
今は恐らく夜で、そしてここはセリオニアの洞窟の中、その部屋の一つであろう。このムラは洞窟での生活を享受している為にいつも薄暗く、時間帯は測りにくいが、今は圧倒的に人の活気がない。その為、今が夜だという事が理解出来た。
ゆっくりと身体を起き上がらせる。自分の身体に巻かれた無数の包帯、そしてそれでも隠しきれない傷跡から、どうやら戦いは終わったと見て良いだろう。勝ち負けは別として、死だけは回避出来たという事か。
小さく俯くと、いつもは縛っている長い黒髪が視界に映る。気付けばそれは肩甲骨より下といった部分まで伸びており、キュリオは少しだけ年月の経過を感じた。
────そして。
「…………あ」
自分のそれと同じタイミングで、今度は別の黒髪も目に入った。それは艶やかな光を蝋燭の火から受け、それを綺麗に反射している。そしてそれは、本人の身体が揺すられる事によって、僅かに揺らめく。
どうやら眠っているようだった。ただしキュリオとは違って彼女は椅子に座ったままであり、また眠る事を意識では拒否しているかのように、彼女の身体は一定のタイミングでピクンと跳ねる。
キュリオはそんな彼女を見て、思わず。
「……ヒミ、姉……」
────そう、ぽつりと呟く。何の変哲も無い、ただの一言だった。
けれど、彼女の獣耳はそれを敏感に聴き取り、ぴくりと反応する。
「ん……」
その閉じていた瞼が、朧げな彼女の意識に負担をかけぬように静かに開く。その奥からは濃い黄色と薄い橙色が混じった、所謂琥珀色の光が徐々にその姿を現していく。
寝ぼけていたように、彼女は──ヒミは一度、何の意味も無い瞬きを経る。その後に彼女の視線はキュリオの赤い視線と一致し、静かな時が一瞬だけ、しかし永遠と等しい感覚で流れていく。
「…………きゅ、りお……?」
そう呟くヒミは、まだこれが現実とは認識出来ていないようだった。まだ頼りない意識と舌の感覚だけで、本能的に求める名を呼ぶ。
それに対して何か言おうとしたキュリオは、この瞬間になってやっと気付く。
キュリオの右手が、何かに握られている。それは細くて儚くて、少し振り解けば簡単に離れてしまいそうな、そんなか細い繋がりだった。
(こ、れ……)
迷うはずも無い、これは間違いなくヒミの掌。先程まで彼女が半分眠っていたからか、ぼうっと温かい。滑らかな指が己の指を頼りなく拘束し、その高い体温をこちらに移してくるようだ。
それはほんの少し手汗をかいており、そしてキュリオの掌には握られた感触が蓄積されたような感覚があった。それはきっと、いや確実に、彼女の一つの想いあってのものだろう。
キュリオはその、まだ未熟な自分の手にゆっくりと優しく力を込め、与えられた温度を与え返す。そして自分の掌の感覚を、まだ覚醒しきっていないヒミの掌に染み込ませると、力無い声で呟いた。
「────……うん」
言葉の余韻が、たっぷり数分間もその場を漂い続けた気がする。
半開きだったヒミの瞳に、小さな光が灯る。琥珀色の瞳は宝石のように暖かく煌き、その傍に体温の詰まった水晶のような涙が溜まっていく。
そしてそれがいつしかその場に留まり切れなくなり、音も無くその頬を伝って駆け下りた後に、顎の辺りから滴った、その瞬間。
「────……! キュリオ……‼︎」
いつの間にか、包帯だらけの華奢なキュリオの身体に、ヒミの両腕が伸び、絡み付いていた。その胸に、彼女の頭が埋められていた。
「キュリオ、キュリオ……! ……キュリオ……」
「ごめん、心配かけちゃって……」
ひたすら自分の名前を連呼する彼女に、キュリオは一番最初に詫びの言葉を呟いた。包帯の巻かれていない肌をヒミの髪がくすぐる。
彼女の際限無く溢れる涙と、言葉を発する度に一緒に飛び出す温かい吐息、そして彼女の自身の体温が、キュリオの冷めていた身体を温める。孤独が消し去っていた体温が、元に戻っていく。
同時に、彼がそれによって身体の感覚を取り戻したせいか、ヒミの両腕の小さな圧に反応し、微かな痛みが身体を駆け巡る。
「っ……!」
「あっ……ご、ごめんなさい、キュリオ。つい嬉しくて」
それに気付いたヒミは、慌ててキュリオの身体から離れる。彼に不快な感覚を与えまいと、しかし何処か名残惜しそうに。
再び自分の椅子に座ったヒミは、キュリオの顔をもう一度確認して、自分の溢れた涙を拭った。
「良かった……もう、目を覚まさないかと……」
「大丈夫だよ、もう」
「だって、もう五日も眠ったままで……」
その言葉に、キュリオは小さく驚く。
「五日……」
「そうですよ。チルフはもちろん、フレイドさんもきっと目を覚ましているはずです。チルフは右脚を折ってましたけど……傷の治りが早いからって、あと何日かしたら支え付きで歩けるみたいです」
「そんなすぐに?」
「はい。フレイドさんも何とか傷は塞がっていたみたいですし。みんな頑丈みたいですね、なんて」
ふふ、と小さく笑うヒミ。それは、先程まで心配そうだった彼女の、久しぶりの笑顔だったかもしれない。涙のせいで目頭が赤くなっていて、それが少し恥ずかしそうでもあった。
思わずそれにつられて、キュリオも笑ってしまう。
何故だろうか、彼女がそうやって笑うのが、この上なく嬉しいと感じる。さっきまで心配をかけていた事の負い目からだろうか。何となく鼓動が高鳴る胸に、キュリオは自らを抑えきれずにいた。
「ブレイアさんも良いようにしてくれました。私がこうやってここにいる間も、あの人は私を励ましてくれて……」
「そっかあ。後でお礼言っとかないとね、僕も」
「ええ、私も。ムラの人達も優しくて、みんな私たちを匿ってくれて……邪険にされるかも、なんて思ってしまいましたが」
救いもあるということの安堵に、キュリオは胸を撫で下ろした。そして、今度はヒミ自体に目を向ける。
「ヒミ姉は怪我しなかった?」
「え? え、ええ。フレイドさんやブレイアさんが守ってくれたので……でも逆に、私は何も出来なくて……」
「そんな事ないよ! 看病してくれたんでしょ、僕の事? それだけでも十分さ」
「看病だなんて、そんな。私はただ、何も出来ることが無かったから、ただここに居ただけです。────キュリオの側に居たかっただけで」
その瞬間、キュリオの心臓が跳ね上がったように感じた。最後の一言に、キュリオの言葉が詰まる。
いつの間にか、ヒミの上体はキュリオの方へと傾いていた。僅かに腰を浮かせ、彼の隣に手をつき、その整った顔が近くに来る。
「ひ、ヒミ姉……」
「私、気付いたんです。本当に今更ですけれど……自分の気持ちに」
「な、何を言って……」
思いがけないこの状況に、キュリオは何も出来ない。怪我で身体が動かない事もあってか、そもそもここがベッドの上だからか、後ずさる事が出来ない。彼女の思う通りに、距離を詰められる。
キュリオがよく見ると、彼女の頬は真っ赤に上気し、体温も上がっている。その琥珀色の瞳はただこちらだけを一点に見つめ、ほんの少し潤んでいる。
「私……キュリオが眠っている間、本当に寂しくて。あなたが話しかけてくれない事に、あなたが笑いかけてくれない事に、焦燥と不安を感じました。当たり前のものが欠けて、初めて気付いたんです」
彼女の甘い吐息がかかる。断続的なそれはキュリオの鼻をくすぐり、否が応でも彼の緊張を高め、気分を高揚させる。彼の心臓が、今まで経験した事のない程に早く脈打つ。
先程まで握っていた手が離れ、今度はそれがキュリオの頬へと当てられる。じんわりと汗ばんだ手は眠くなってしまいそうな温かさを秘めており、その繊細な指が肌を撫でるたびに、キュリオの身体はこそばゆさにビクつく。
「キュリオ。私の事、嫌いですか?」
「そ、そんなわけないよ。仲間だもん」
「仲間、ですか。……ねえ、キュリオ? もしも私が、あなたと仲間だけの関係じゃ満足出来ないって言い出したら……あなたは、受け入れてくれますか?」
そういう事に疎いキュリオでも、ここまで言われれば自ずと理解してしまう。この瞳と、この態度と、この積極的な体勢。
詰まる所、そういう事だ。
キュリオはこちらを見続けるヒミの視線に耐え切れず、思わず目線を逸らす。上に向かい、右に左に向かい、最後に下に向かう。
その時キュリオは気付く。先程までのやりとりや、恐らく五日ぶっ通しでの看病のせいで、いつもはきっちりとした彼女の巫女装束の胸元が、大胆にはだけている事に。
蝋燭から放たれる光が、彼女の見えている胸の一部に反射する。彼女のその豊満過ぎる一対の膨らみが、艶っぽく光を浴びている。
思わず唾を飲むキュリオ。その視線に気付いたのか、ヒミが妖しく笑いながら囁く。
「……キュリオ?」
「っ! い、いやその……」
「ふふっ。別に構いませんよ、それくらい。キュリオだって男の子ですものね」
かなり有利に立ち回られている。
まるで彼女の掌で転がされているような感覚に、しかしキュリオはどう反応するかも浮かばなかった。
「答えてください、キュリオ」
更に近付いて、ヒミは呟く。囁くような声が耳の中を通り抜ける。
「────もし私があなたを……愛している、といったら。あなたはそれに、応えてくれますか?」
改めて言葉にされ、キュリオは頭がぼやけるような感覚に襲われた。そして、己の中の感情に、それと一致するものがある事に気付いた。
(ああそうか、これって)
あまりにも簡単な事に、心の中で笑いそうになるキュリオ。それほどまでにぴったりな感覚は、もしかしたら生まれて初めてかもしれなかった。
(────好きって、事だったんだ)
気付けば、キュリオは頷いていた。ヒミの言葉に、何の抵抗もなく。
断る理由なんて、これっぽっちも無いからだ。
そして同時に、一つの感情の理由も分かった。バビロイドを出た時に、ヒミに抱いたあの感情。嫉妬という名のそれの、たった一つの理由が。
それもこれも全部、キュリオがヒミの事を好いていたからなんだ、と。
決定的な理解が、キュリオの中で巻き起こった。そしてそれと同時に、彼のモヤモヤした意識が鮮明になり、
「……ありがとうございます、キュリオ」
────触れた唇の感触で、再び朦朧となった。
「…………、……! ッ⁉︎ ッッ‼︎⁉︎」
そのたったそれだけの行動に、キュリオの脳内は焦燥と驚愕とに染め上げられてしまった。
温かくて、少し湿っている。まるでとろけるように柔らかく、彼女が吐息を洩らす度に、その欠片がこちらの喉の奥へと滑り込んでくる。閉じられた瞼はうっとりとしたようになっており、それを見ているこちらの気分まで変になってしまいそうだ。────いいや、もはや変になってしまったのだろう。こんな感覚、初めてだ。
ヒミの両腕が、先程と同じようにキュリオに絡み付く。まるで、これからもう絶対に離さないと暗に語っているように。
キュリオはそれに同調し、同じようにゆっくりとヒミの身体を抱く。自分より先に二年もの時を潜り抜けてきた獣人なのに、こんなにもか弱くて壊れてしまいそうな儚さに包まれている。
キュリオの腕がヒミの身体を抱き寄せた瞬間、重ね合った唇の奥から、彼女の小さな嬌声が聞こえてきた。それに少し驚き、ゆっくりと唇を離す。けれどヒミは、どこか名残惜しげだった。
「……おしまい、ですか……?」
「……嫌、……かも」
「私も……です」
お互い、軽く額を合わせる。開かれたヒミの瞳はとろんとして、甘く潤んでいた。
可愛らしいと。
美しいと。
そして綺麗だと、キュリオは思った。
もちろん、そんな感情は今まで何度も抱いていた。けれど、それに『好き』という要素が加わっただけで、こんなにも際立って見えるものだとは思わなかった。
だって、そう思わずにはいられない。こんな自分の事を愛してると言ってくれた少女は。
艶やかで長く、女性らしい黒髪を携え。
長い睫毛と琥珀色の煌く瞳を持ち。
太陽の光を浴びさえしなかったような、全く肌色の混じっていないとさえ思える様な白い肌で。
ともすれば本当に溶けてしまう様な甘い唇で。
女神の歌声の様に澄んだ声を持ち。
細くても肉付きの良い四肢と。
出るところは出て、締まるところはきっちりと締まっている身体であり。
そして最後に──自分にだけ向けてくれる、真っ直ぐで一途な愛を持っているのだから。
それが『好き』という感情に気付いたキュリオの、再確認の意味も込めて見つめた──ヒミという一人の少女の姿だった。
お互いの掌を合わせ、指を絡める。そうした後、ヒミは瞳を閉じ、もう一度顔を近づけ、その唇をキュリオのそれへと当てた。今度はキュリオも驚きさえせず、混ぜ合わさる様な感触に身を委ねた────。




