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蒼藍のラプターズ  作者: しろくろ
第一章
3/5

鋼鉄の翼

「ん……」

 ぼんやりと目を開ける。白い天井が目に入った。体の上には薄い布団が掛けられている。どれくらい寝ていたのだろうか。頭の中に靄がかかっているようで、なかなか思考が働いてくれない。

(確か、急に眠くなって……)

 何とか頭を働かせながら身じろぎする。仰向けに寝ているが、どうにも背中が気持ち悪い。

 初め、アイは背中とベッドの間に何かが挟まっているのかと思った。背中を浮かせ、その何かを取り出そうと手を回してみるものの、何かがある様子はない。しかし背中を下ろすとやはり異物の感触がある。

 ふと、アイはベッドではなく背中に背を回し、

(――「誰だって不安だもの。背中に穴を空けられるなんて」――)

 がばと勢いよく起きあがった。

「なに、これ……」

 背中をさする。ちょうど心臓の裏辺りだろうか、金属のような固い感触を指に感じた。

「目が覚めたようだね」

 不意に声がし、ようやくアデリナがいるのに気がついた。白衣を脱ぎ、タバコを吸っている。手にはバインダーを持っていた。

「気分はどう?」

「大丈夫です。いや、それよりも――」

 承知している、とばかりに、アデリナは部屋の隅にあった姿見をベッドの側まで持ってきてくれた。

「こ、れは……?」

 服をまくって自分の背中を写し、アイは絶句した。背中の真ん中――ちょうど心臓の真裏辺り――に円形の機械が埋め込まれていた。手のひらを広げたくらいの大きさで、特に痛みはない。

「その説明をする前に、これに着替えてもらおう」

 アデリナが差し出したのは、何着かの衣服だった。

「わぁ、これ、天地の制服ですよね!」

 アイの声が踊る。ラプターに憧れていたアイはまた、ラプター運用のトップシェアである天地の制服にも憧れていた。テンションが上がってしまうのも無理はない。

 早速着替えようと病衣らしき服を脱ぎ捨てる。トップレスとなったアイは渡された服を矯めつ眇めつし、アイはアデリナに問いかけた。

「あの、ブラがないんですが……」

 そう、渡された服の中に、成人女性必須のアイテムが入っていなかった。きっとアデリナが渡し忘れたに違いない。

「ん? ああ、渡し忘れていたよ。私は使わないからね」

 やっぱり忘れていたようだ。だが、後半おかしくなかったか。アデリナはノーブラなのか。

 そんな疑問が浮かぶアイの脳内は、差し出されたモノを見て真っ白になった。

「これ、は……」

 確かにブラに似ている。だが、カップの部分だけでサイドベルトも肩ひももない。いや、これはどこかで見覚えがある。確か――

「ヌーブラだよ」

 アデリナの言葉でアイは思い出した。肩ひもなどを使わず、肌に直接装着するブラだ。

「な、何でヌーブラなんですか?」

「不満か? ならこれもあるが」

 アデリナがさらに取り出したのはもはやブラでも何でもなく、単なるニップレスだった。最低限の仕事だけをしてくれる裏プロである。

「い、いやいや」

「これも不満なのか? なら絆創膏か、いよいよ何もつけないという選択肢もあるが……」

「これでいいです!」

 アイはアデリナの手からヌーブラをひったくった。ニップレスは何だか恥ずかしいし、ノーブラなど寝るとき以外では論外だ。

 ヌーブラは着けたことがなかったが、アデリナがレクチャーしてくれた。ここで初めて着けるものがほとんどだという。

 制服にも袖を通そうとして、アイは首を傾げた。

「破けてる、わけじゃないよね?」

 制服は背中の部分に穴が空いていた。考えるまでもなく、背中の金属を隠してしまわないためだろう。そして同時に思い当たる。普通のブラが駄目なのは、やはり背中を露出させるためなのだ。

「おお、似合う似合う。馬子にも衣装だな」

「それ、ほめてませんよね?」

 渋い顔をしつつも、アイの頬は赤く染まっていた。

 姿見に全身を映してみる。確かに制服に着られているという感じは否めなかったが、いよいよ自分が天地の一員となった自覚がわいてきた。

 背中を向けると、やはり金属の何かが目立っていた。制服に穴が空いているものの、肌が見えているわけではないので、露出しているという感覚は少ない。

 アイは今まで天地の社員を見ることも多かったが、そのすべてが背中に翼を宿した状態だった。その翼の下はこうなっていたのだ。だが、はたしてこれは――

翼箒シュトルツだよ」

 アイの心を読んだかのように、アデリナが言った。

「ラプターの代名詞とも言える武装。命も心も力も誇りも、何もかもを預ける翼、それが翼箒シュトルツさ」

 アイは思い出す、自分を助けてくれたラプターを。確かにラプターの背中には、巨大な翼が備わっている。だが。

「どう見ても翼には見えないんですけど……」

 背中についているのは、単なる丸い機械だ。これを翼と言うには無理がある。

 アイの疑問は予想の範囲内だったらしい。アデリナは大仰にうなずいた。

「キミは、巫力ふりょくについては理解しているね?」

「もちろんです」

 何をいまさら、とアイは拍子抜けした。

「私たちが生まれながらにしてもっている力、ですよね? なぜか女性のみですが」

「そう、それが巫力さ。その多寡には個人差があり、一定以上の巫力をもった者しかラプターにはなれない。当然だ。ラプターにとって巫力とはガソリンそのもの。少なければ満足に飛ぶこともできやしない」

「それがこの背中のと何の関係が……あっ!」

 何かに気づいたのか、アイはハッと口に手を当てた。

「これは、巫力を翼へと変換する装置、ですか」

「ご名答」アデリナは微笑む。「ものは試しだ。やってみよう」

 そう言うと、アデリナはアイをベッドから下ろし、部屋の真ん中へと誘導した。

「いいかい? 巫力を背中に集中させるんだ。そしてイメージする。自分の背中に大きな翼がある、そのイメージを」

「わかりました」

 アイは目を閉じ、胸に手を当てた。 体の熱を背中に向けるように、巫力を集中させていく。

 巫力は心のようなものだと、アイはイメージしていた。目に見えないし、体内のどこにあるかもわからない。だが、確かに存在しているのだ。

 カチリ、と鍵の開くような音が背中から聞こえた。シュトルツが巫力に反応しているのを確認し、アイはイメージを広げていく。

 頭の中に浮かんだ光景は、幼き日の丘だった。緑が広がる丘とは裏腹に、周囲ではぽつぽつと炎が上がっている。だが、幼いアイの心に、恐怖などというものはなかった。ただただ、憧憬の一念のみが目の前の大きな背中、そこに広げられた翼に注がれていた。

(今度は私が……)

 あの日の翼を強くイメージする。

(私が、誰かを……)

 瞑っていた瞼にぎゅっと力を込めたとき、アデリナの声が聞こえた。

「いいぞ、目を開けろ。そして見るんだ。キミの新しい力を」

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。始めに見えたのは、満足そうなアデリナの顔。そして、視界の端で大きな何かが揺らいだ。

「これが、シュトルツ……」

 首を回し、その姿を改めて視認する。

 銀色に煌めく、巨大な機械の翼だった。揺れる度に羽根の一枚一枚が金属のこすれ合う小さな音を立てている。片翼が二メートルくらいはあるだろうか。部屋の中央に連れてこられていなければ、今頃窓ガラスを突き破っていただろう。

「ふむ、初めてにしては上々だ」

 かぷかぷと煙を吐きつつ、アデリナはアイの翼に手を伸ばす。

「ひあっ!」

 翼を撫でられた瞬間、ぞくりとした感覚がアイの背筋を走った。

「可動性能はそこそこ。硬度は平均レベルか。その代わりに加護の力が強いのかな? 感度も高いな。いきなりこれほどの同調率とは……エロいのか?」

 ぶつぶつ言いながら、アイの翼を撫でくり回すアデリナ。本人としてはふざけているつもりなど一切ないだろうが、翼をいいように弄ばれているアイはたまったものではない。

「ちょ、待っ、いやっ……ふ、んぁ……」

 頬を赤く染め、身体をビクンビクンと震わせる。自らの身体を抱いて太股をこすり合わせる様は、非常に危険な香りがする。

 だが、そんな扇情的な光景も長くは続かなかった。

「もう、ダメッ」

 一瞬アイの身体が大きく痙攣したかと思うと、ガラスの割れるような音が響き、金属の翼は光の欠片となって砕け散ってしまった。光の粒となって霧散していくそれらは、まるで輝く雪のようだった。

「ふにゃああぁぁ……」

 へたり込んでしまったアイをよそに、アデリナはバインダーに何かを書き込んでいる。

「せ、先生……今の感覚は一体、な、なんなんですか?」

「ん? ああ、ラプターはシュトルツと感覚を共有している。飛ぶために巫力を流し込むからね、文字通り身体の一部となるわけさ。撫でられればくすぐったいし、傷つけば当然……痛いよ」

 凄んだアデリナに、アイは「ひぃ」と涙目を浮かべる。

「あっはは、やっぱいいい反応をしてくれるな、キミは。だが悪いことばかりではない。シュトルツと同調しやすいということは、それだけ飛行性能が上がるということだ。それに、シュトルツの強度や防御力を上げる改造だってできる」

「改造、ですか?」

「肉体を鍛えただけでは限界があるからね。まあその辺りのことはおいおい説明する機会もあるだろう。とりあえず私からの説明は、今日のところはこれで終わりだ。あとは配属先で話を聞くといい」

 配属先、と首を傾げるアイ。アデリナは頷くと、白衣のポケットから一通の封筒を取り出し、アイに手渡した。

「遠野アイくん。キミに辞令だ。配属先を書いた紙も入っているはずだから、そこに書かれているところに行きなさい。……まあ、何だ、がんばれ」

 そう言ったアデリナの顔は、ひどく複雑な色に染まっていた。

 嫌な予感がアイの脳裏をよぎる。

「あの、もしかして、私の配属先をご存知なんですか?」

「んん、まあ、そうだな」

「すごく評判が悪い、とか……」

「ん、んんん、ん~」

 眉根を寄せつつ、アデリナは携帯灰皿にタバコを突っ込む。しばらくうんうんとうなったあと、ため息を一つ吐いてアイの肩に手を置いた。

「天地でのFA権取得は三ヶ月だ。短い。短いと信じろ。きっと我慢できるさ」

 アデリナは笑顔でそう言った。ヒクつく眉と頬、流れる脂汗。紛れもなく無理して作った笑顔だった。


               *     *     *


『クレーエ三課への配属を命ずる』

 封筒に入っていた紙には、何の面白味もないフォントでそう記してあった。

 この書類を作った人は、ユーモアに欠乏しているのではないか。アイは目の前のドアと書類とを見比べながら、そんなことを思った。

(クレーエ……烏、だよね。どんなところなんだろう)

 アイの故郷では、烏はいいイメージの鳥ではない。ずる賢いとか不吉の鳥とか、むしろマイナスのイメージだ。そしてアデリナの顔に浮かんでいた、同情の二文字。不安にならないわけがない。

 ともあれ、ここでいつまでも二の足を踏んでいるわけにもいかないだろう。

(大丈夫、きっと大丈夫。天下の天地だもの。そんな変なとこなはずがないよ)

 自分に言い聞かせ、ドアをノックしようとしたその瞬間、背後から声をかけられた。

「あら、お客さん?」

「ひあぁっ!」

 飛び上がらんばかりに驚いた。

「あっ、あわわっ、す、すいませもふゅ」

 慌てて振り向き、頭を下げる。だが頭は全く下がらず、柔らかい弾力かつ圧倒的なボリュームの何かに埋まってしまった。

「あらあら、積極的ねえ。お姉さん嬉しいわぁ」

 耳朶をくすぐるような甘ったるい声は頭上から。そして頭が埋まっている物体に、アイは圧倒的な敗北感を抱いた。なぜかって、自分にはないものだからだ。

 などと思っている場合ではない。

「かっ、重ね重ねすいませがっ! ~~~!」

 慌てて飛び退いた拍子に後頭部に鈍い衝撃が走り、アイは頭を押さえてうずくまった。すわ殴られたのかと一瞬新入社員暗殺説が脳裏をよぎったが、何ということはない。ドアに自分でぶつけただけだった。恥ずかしさもあいまって、アイはますます小さくなってしまう。

「うふふ、愉快な子ねえ、誘ってるのかしら? さあ、立って?」

「す、すいません」

 手を差し伸べられ、アイは顔を赤くしながら立ち上がる。

 アイが小柄なのもあるが、その女性も少し身長が高いらしい。自然と目の前に来たその二つの膨らみに、アイの目は釘付けになった。

 ボリューミー。圧倒的。豊かな実り。ダブルインパクト。様々な単語が頭に浮かんでは、目の前のそれに吸い込まれていく。

「やだもう、そんな熱い視線を向けないで。お姉さん火照っちゃうわ」

 その声にハッと我に返るアイ。

 声の主は、長いブロンドの女性だった。ほんわか、という表現が似合うだろうか。糸のように細められた目、薄く微笑んだ口元、そしてほんのり朱に染まる頬。それらすべてが「お姉さん」という属性を醸し出している。圧倒的包容力さえ感じさせるその雰囲気に、アイは故郷のシスターを思い出していた。

 が、その幻想はもろくも崩れ去る。

「こんなところにぃ~、何の用かしら~? ……ヒック」

 ん、とアイの片眉が下がった。

 気のせいだろうか、と一瞬だけ思考を止めかけたが、気のせいで済ますには強烈すぎるスメルが、ブロンド女性の口元から漂ってきていた。

(お、お酒臭い?)

 そう意識すると、火照った頬も違う意味に感じてきた。

(いやいやまさかね。就業中のはずだし、お酒なんて……)

 頭を振って否定しようとするアイだが、ふと女性の手元に気づいてしまい、言葉を失った。

 一升瓶、である。ラベルには『漆黒霧島』という力強い文字が踊っていた。

「あの、それ……ひぐっ!」

 指摘しようとしたアイの後頭部を、またもやドア(鈍器)が襲いかかった。つんのめったアイは、またもブロンド女性の双丘に頭を埋めることになった。その柔らかさを楽しむ余裕もなく、アイの頭上で星が踊る。

「あら? 鈍い衝撃が……」

 どうやら内側からドアが開けられたようだ。部屋から赤い髪の女性が顔をのぞかせた。

 胸に頭を埋めているアイと、その頭を優しく撫でているブロンド女性。

 何が起きたか一瞬で察した赤髪の女性は、にっこりと微笑んだ。

「ようこそクレーエ三課へ。お待ちしていましたわ、遠野アイさん」


 招き入れられた部屋は、広くも狭くもないオフィスだった。ついたてで奥と手前を区切っているらしい。奥は見えないが、手前には仕事机が四つとなぜかルームランナーが置いてある。

 その仕事机の一つに腰を下ろし、赤髪の女性はドアの前で突っ立っているアイに微笑みを向けた。

「自己紹介しますわ。私がこのクレーエ三課の課長、リュゼ・ルナールです。リュゼでもルナールでも課長でも、お好きに呼んでくださいな」

「わ、私は遠野アイです。よろしくお願いします、リュゼさん」

 答えるアイは、緊張感を全面に出していた。なぜ、と問われるとアイ自身も答えに困る。何となく、と答えるしかない。

 リュゼと名乗った女性は、これまた美人だった。物腰も穏やかで、後頭部で結った赤く長い髪もよく映えている。柔らかい微笑みとですわ口調もあいまって、一見すると良家のお嬢様のようだが、なぜかアイは「油断ならない人」という印象を抱いていた。

 そんなアイの心中を知ってか知らずか、リュゼはついたての向こうへ声をかける。

「フリーダ、あなたも自己紹介なさい」

「え~、めんどうね~。私はフリーデリーケ・ティーガー。フリーダでいいわ。よろしくね~。あははは~」

 最後は別に自分の言葉に笑ったのではない。ついたての向こうからはフリーダの声以外に、別の音声も聞こえてくる。テレビを見ているらしい。どうやら部屋の奥は、くつろぎスペースになっているようだ。

 ともかく、とリュゼは咳払いする。

「安心しましたわ。これでようやくこの課も三人。フリーダと二人だけでのお仕事には、そろそろ飽きていましたもの」

 私のセリフよ~、とついたての向こうから気の抜けた抗議がふわふわと飛んでくる。

「え? 二人?」アイは首を傾げた。「確か天地では、三人か四人での出撃が基本なのでは?」

「普通はね」リュゼは苦笑し、頬に手を当てた。「ここに人が配属されても、なぜかすぐに異動してしまうのですわ。こんなに過ごしやすいところですのに。ねえ、フリーダ?」

「あははは、萌えるわ~。……え、何か言ったかしら?」

「ほらね?」

 何が「ほらね」だと言うのか。アイがひきつった笑いをどうにか返した、そのときだった。

「ティーガーはいるか!」

 大声とともに、勢いよくドアが開けられた。ドアの前にいたアイが心底驚いたのは言うまでもない。

「ど、どどどちら様ですか?」

 振り返ると、そこには髪を結った女性が立っていた。やや強気がちな顔をしている。

 アイを見て一瞬ぽかんとしたあと、その女性は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「そうか、君が例の子か……」

 などと呟き、リュゼを睨みつける。

「ルナール、ドラフトでの一件、絶対に忘れないからな」

「あら、何のことですの? 勝手におかきなった赤っ恥を人のせいにしないでもらいたいものですわ」

「いけしゃあしゃあと、この女狐め……」

 ぎりぎりと歯を食いしばる謎の女性。そのままリュゼに殴りかからんばかりの勢いだ。だが、間にアイがいることを思い出したのか、少し表情を和らげた。

「すまない、君の話だが、君には関係のない話だった」

 頭にはてなマークを浮かべるアイに、女性は改めてたたずまいを正した。

「紹介が遅れたな。私はファルケ二課課長のヘルガ・エステンだ。こんなところに配属されて災難だったな。三ヶ月経ったらぜひうちに来るといい。こんなところでくすぶっているのはもったいないからな」

 最後の一言は、明らかにリュゼに対する嫌みだった。当のリュゼは素知らぬ顔をしてカップを口に運んでいる。「食えない奴」とヘルガが呟いたのを、アイは聞き逃さなかった。

「ところで」

 不自然なまでに笑顔を作るヘルガ。だが、額には青筋が浮かんでいる。

「胸に余計な脂肪をぶら下げた、ブロンド女はここにいるかい?」

 全体的に恨みがこもった言葉だったが、特に「余計な脂肪」の辺りに深い怨嗟を感じた。アイはヘルガの胸元に目をやる。

「仲間ですね」

 という言葉はすんでのところで飲み込んだ。代わりに、ついたての方へ指を差す。

「ありがとう。――おいティーガー! お前またうちに配給された酒を盗っただろう! 今日という今日は――あれ?」

 つかつかと肩を怒らせていたヘルガだったが、ついたての向こうをのぞき込んだとたん、素っ頓狂な声を上げた。そしてアイの方を振り向く。

「おい、いないぞ」

「そんな!」

 慌ててアイも駆け寄り、ついたての奥をのぞいた。ソファー、テーブル、テレビ、食器棚と、くつろぐためのものが所狭しと置いてある。だが、そこにフリーダの姿はなかった。

「さ、さっきまでいたはずなのに……」

「どうやらそのようだな」

 ソファーのひとつをさわり、ヘルガは深々とため息をつく。僅かにぬくもりが残っていたのだろう。よく見ると、テーブルの上にもコップが置きっぱなしになっている。ご丁寧にも、それに注いでいたであろう一升瓶はなくなっていたが。

「私の声を聞き、窓から逃げたのだろう。大声を出したのは失敗だったな」

「え、でもここ三階ですよ?」

「奴ならそれくらいやる。身体能力の無駄遣いだ」

 頭痛でもしてきたのだろうか。ヘルガは頭に手をやると、きびすを返した。

「今日は出直すとしよう。気が向いたら君からも言っておいてくれ」

 アイの返事を待たず、ヘルガはドアへと向かう。リュゼのそばで足を止めた。

「オイレが、お前たちお荷物課の処分を検討しているらしい。解隊されたくなければ、それなりの成果を出すんだな」

「ご忠告、傷み入りますわ。あなたたちの方こそ、人数が足りないのでは?」

「誰のせいだと思ってる、このバカ」

「さて、バカな私には見当もつきません」

「ふん」

 不機嫌そうに鼻を鳴らすと、今度こそヘルガは部屋を出ていった。

 嵐のような人だったな、と思うと同時に、この課はやはりろくなところではないのでは、という憶測がアイの中で強まっていく。食えない課長、昼間から酒(しかも他人の)を飲んでいるブロンド、解隊処分、お荷物課。憶測を裏付ける材料は余りある。

 相変わらずにこにこしているリュゼを見て、アイはこの上なく不安になった。憧れのラプターに近づくべく、ようやく天地に入社できたのだ。きちんとやっていけるのだろうか。思わず独りごちる。

「大丈夫かなぁ」

「大丈夫じゃないわよ~」

 不意に背後で声がし、アイは口から心臓が飛び出そうになった。

 振り返ると、いなくなっていたはずのフリーダが立っていた。

「ふ、フリーダさん、どこかに行っていたはずじゃあ……」

「ええ、今帰ってきたの。疲れたわ~」

 見ると、フリーダは何かしらの書類を手にしている。

 リュゼがころころと笑った。

「ほら、私の言った通りだったでしょう? 五分以内にヘルガが突入してくる。賭は私の勝ちですわね」

「まったく、人使いが荒い上司だわ」

 ぼやきつつ、フリーダは書類をリュゼに手渡す。リュゼは満足げにうなずいた。

「あの、リュゼさん、その書類は何なんですか?」

「模擬敵機使用許可証ですわ。賭に負けた方が取りに行くと、フリーダと話してましたの」

 リュゼは腰を上げる。

「さてアイさん、出かけましょうか。ほら、フリーダも行きますわよ」

「え~、私も~?」

「出かける? どこにです?」

 その問いに答えるように、リュゼは指を立てる。その指は、真上を指していた。


 アイが入社したのは、天地に数ある支社のうちのひとつだった。とは言えさすがは業界トップシェア、支社とは言えその規模は決して小さくはない。

 野球ドーム四つ分ほどありそうな土地にの中に、オフィスビル、社宅が建っている。建物に比べて土地が広いのは、訓練用の面積を多くとってあるためだ。天地は民間企業とは言え、その仕事内容は軍隊に近しいものがある。日々の訓練は欠かせない。

 また、支社の土地は大陸の端にある。ラプターたちの仕事場は、ほぼ空の上にあるからだ。また、天地の周りには、他のライバル企業や輸送会社などが並んでいる。内地の方には住宅街や歓楽街も見ることができた。

 浮遊大陸の下には、紫海と呼ばれる紫色の雲が一面に広がっている。紫海のさらに下には何があるのかわからない。なぜなら、そこへ行って帰ってきたものはいないからだ。そのため、神出鬼没のニミジスたちは、紫海から生まれているのでは、という説も有力視されている。

 などといったことを思いながら、インカムを装着したアイは遙か高みから俯瞰していた。

「ひ、ひえぇ~~」

 地面に這い蹲り、情けない声を上げる。

 紫海の上に浮いているのは、何も大陸のような超広大なものばかりではない。小さいものでは相撲の土俵程度の浮き島も存在しており、そこで一番取った力士もいるという伝説が残っている。

 もっとも浮き島自体はそこまで多くなく、まさに点在と言ったところだろう。

 アイがいるのは、そんな土俵程度の浮き島の上だった。大陸よりも数百メートル上空にあり、真下はちょうど大陸の端になっている。落下したとして大陸に落ちるか紫海に落ちるかは風次第だが、どちらにせよ天国直行便に乗れるのは間違いないだろう。高所恐怖症ではないが、さすがにこの高さは腰が引けてしまう。

(ど、どうしてこんなことに……)

 涙目のアイは、数分前の会話を思い出していた。


「訓練をします」

「い、いきなりですか?」

「アイさんには一日でも早く現場に出ていただかなくてはいけませんからね、時間は有効に使わないと。それとも、早速現場に行きますか? それもいいですわね。軽く被弾した方が、のちのち慎重になるかも知れ……」

「いえ! 訓練させてください!」

「あらあら、やる気十分ですわね。でしたら、デコイの数を増やしましょうか」

「え?」

「じゃあフリーダ、いつもの場所まで連れてきてあげてね」

 そんな感じでアイがまったく口を挟む暇もなく、あれよあれよとこの浮き島まで連れてこられたのだった。


「はい、これ持って」

 がくがくと四つん這いで震えているアイに、フリーダは一丁の銃を手渡した。長い銃身に大きな弾倉。フルオートタイプのライフルだ。ちなみに、フリーダの片手には当たり前のようにボトルが握られている。アイは見て見ぬふりをした。

「わ、私、銃を持つのは初めてなんですが」

「大丈夫大丈夫。安全装置もかけてあるし、中に入ってるのは訓練用の特殊弾だから」

 そんなことを言われても、怖いものは怖い。とは言え、ニミジスと戦うラプターにとって、銃は切っても切り離せない存在だ。慣れるしかないのだろう。

 おっかなびっくりライフルを手に取ると、ずしりとその重さを感じた。金属の冷たさが手のひらや指先から伝わってくる。無機質な、心をもたない冷たさだ。

「安全装置はここね。いつ接敵してもいいように、飛び立つ前に外しておくのよ」

 言われるままに安全装置を外す。これでもういつでも撃つことができるという実感は、アイの中ではまったくわかない。ただ、殺傷能力をもつ凶器を手にしているという恐怖は、振り払うことできなかった。

「照準はここ。この穴に標的を入れて引き金を引けば、運が良ければ当たるから」

「ざ、ざっくりしすぎじゃないですか?」

「そう言われてもねえ~」頬に手を当てるフリーダ。「現場に出れば嫌でも慣れるものだし、それに――」

 す、とフリーダの目に陰惨な光が宿った。

「――慣れなければ、死んじゃうだけだからね~」

「ひっ」

 アイは息を飲む。フリーダの言うことは脅しでもなんでもない。ニミジスとの戦いは死と隣り合わせなのだ。

「大丈夫よ、すぐ慣れるわ。さあ、じゃあ始めましょうか。アイ、あなたシュトルツは出せる?」

「は、はい」

 病室でのことを思い出す。背中に巫力を集中させ、大きな翼を展開させるイメージ。シュトルツが起動する音が聞こえ、そこから生えるように機会の大翼が広がった。不安もあったが、無事に成功したようだ。

 そこにフリーダの手が伸びた。

「あらあらあらあら、綺麗な翼ね~」

「ひぅっ!」

「うらやましいわ~。シュトルツにも個性が出るのよね~」

「んっ、はぅ……やめっ、やめてください!」

 アイは涙目でフリーダの手を振り払った。身体はびくんびくんしているが、今回はどうやらシュトルツを霧散させるには至らなかったようだ。

「あらいけず。それにしても感じやすいのね~、エロいのかしら」

「エロくありません!」

「うふふふ、怒らない怒らない」

 抱いていたラプターへの憧れにヒビが入る。崩壊する日も遠くないのではないかという思いを、アイはため息をつくことで振り払った。


 気を取り直し、フリーダに言われるまま、アイは浮き島の端に立った。とは言え、やっぱり怖いので後ずさってしまう。シュトルツに受ける風も強いのでなおさらだ。

「じゃあ飛んでみましょうか」

「は、はい」

 アイはシュトルツにイメージをこめた。鳥のように羽ばたき、空を飛ぶ。

「動いた!」

 果たしてシュトルツはアイのイメージ通り、力強く羽ばたいた。何度も羽ばたきを繰り返し、生じた風が浮き島の雑草を揺らす。

 だが、アイの身体はまったく浮かなかった。

「あなた、何してるの?」

 後方からの声。え、とアイが振り返ると、フリーダは見るからに呆れていた。

「埃が立つからやめてもらえる?」

「いや、でも……」

 反論しようとし、ふと思い至る。

「そもそも、どうやって飛ぶんですか?」

「…………」

 フリーダの顔に浮かぶ落胆の色が濃くなった。おもむろにインカムに話しかけるフリーダ。

「ねえリュゼ、私やっぱりそっちのがいい。変わってくれない?」

「そんなご無体な!」

 アイは慌ててフリーダにすがりついた。こんな早々に見捨てられてはたまらない。

「そう言わずに教えてくださいよぅ」

「え~、めんどくさいわ~」

 完全にやる気がなくなったらしく、フリーダは手にしていたボトルを口に運ぶ。だが、アイはその様子を見てハッとした。

「このあと、一杯おごりますから」

「いい? シュトルツは確かに翼の形をしているけれど、鳥のように羽ばたいて推進力を得る機能はないのよ」

 ものすごい切り替えの早さだった。驚くやら呆れるやらのアイを気にとめず、フリーダは説明を続ける。

「シュトルツの機能は基本的に三つ。持ち主に加護を纏わせること、持ち主の身体能力を底上げすること、そして巫力を推進力に変換させることよ」

 いつもより早口だ。とっとと終わらせたいだけなのでは、という疑念がよぎったが、アイは気のせいということにした。

「巫力を推進力に……。それが飛ぶということですか?」

 そうよ、とフリーダはうなずいた。

「でも、どうやってですか?」

「どうって、ん~……飛べ~って思ったら飛ぶわよ。気持ちの問題ね」

 アイが絶句したのは言うまでもない。恐ろしいのは、この目の前のブロンド女性は大真面目に言っているということだ。

 ともあれ、イメージすること自体はシュトルツを展開させるときと同じらしい。改めて浮き島の端に立ち、自分が飛んでいるところをイメージしてみる。

「う~ん、う~ん……」

 とは言え、当然アイは今まで空を飛んだことなどない。イメージのしようがなかった。

 唸るもののまったく飛ぶ気配がないアイの背後に、フリーダが歩み寄る。

「もう、めんどうくさいわね~」

 そんな声が聞こえた刹那、アイの身体は空にあった。だが、飛べたわけではない。

 フリーダに、背中を蹴飛ばされたのだ。

「ゑ?」

 腹の底を引っ張られるような感覚も一瞬だけ。

「い、いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁ」

 当然、アイの身体は自由落下を始めた。悲鳴の塔をつくりながら、アイは真っ逆様に落ちていく。

「しぬうううううううぅぅぅぅぅぅ」

 横風があるのか、大陸方向ではなく紫海の方へ流され始めた。だから何だというのか。紫海に落ちても生還は望めない。

「落ち着いて」

 落下するアイの隣に、フリーダが並んだ。その背には黒と黄の縦縞が入った翼を展開させている。自由落下するアイに合わせ、自らも降下しているらしい。

「イメージしなさい。大空を舞う自分の姿を」

「大空……」

 アイは思い浮かべる。だがそれは自分の姿ではなかった。幼き日に見た、憧れのラプターの姿。大空を駆け、ニミジスたちを落としていく戦女神。

(そうだ、私もあんな風になるんだ。大勢の人を守れるようなラプターに!)

 紫海が近づいてくる。だが、もうアイの心に恐怖はなかった。あるのはただ、大空への憧れのみ。強く握ったライフルが、その自覚へと拍車をかけた。

「飛ぶ! 私は飛べる!」

 自分に言い聞かせるように、アイは叫んだ。巫力がシュトルツに流れ込む。神秘の力が推進力に変換され、アイの身体は紫海の手前で緩やかな二次曲線を描いた。

「飛べた……飛べました!」

 それは初めての感覚だった。身体が重力から解放され、体重がなくなったかのような錯覚。シュトルツが風を切る感覚は、言葉に表せない感動を伴っていた。

 ゆるやかに上昇速度を落とし、空中に制止する。

 満面の笑みを浮かべるアイに、そのそばで同じく制止したフリーダはにっこりと微笑んだ。しかしアイはハッと我に返る。

「そう言えば、さっき突き落としましたね!? 死ぬかと思いましたよ!」

「あらあら興奮しちゃって。足が地に着いていないわよ?」

「上手いこと言ったつもりですか!」

 そんなことより、とフリーダは片目をつむった。

「お楽しみはこれからよ」

 え、とアイが戸惑うより早く、フリーダはインカムへと声をかける。

「リュゼ、こっちは準備できたわよ。始めてちょうだい」

『了解ですわ』

 インカムを通し、アイの耳にもリュゼの声が聞こえた。

 次の瞬間、アイの顔のすぐ横を、豆のような何かが風を切って通り過ぎていった。

「あら、運がいいのね。でもちゃんと避けないと、ペイント弾とは言え当たったら痛いわよ?」

 言うが早いか、フリーダは翼をはためかせてアイの視界から消えた。

 呆けるアイの側を、またも豆粒――ペイント弾が通り過ぎていく。ようやくアイは模擬戦が始まっているのだと悟った。

「い、いきなりすぎませんか!」

 叫んでみるものの、帰ってくる声はない。どうしていいかわからず、アイはがむしゃらに飛び回った。

『初飛行にしては、うまくシュトルツが制御できているみたいですわね。同調率が高いのかしら。アイさん、あなたエロいの?』

「エロくないですううう!」

 アイはそう叫ぶのがやっとだった。敵機模型の方角は、距離は、数は。混乱しているアイには、そんなことに気を回す余裕がない。それどころか、目を開けてすらいなかった。

 弾に当たりたくない。その一心で縦横無尽に空を駆ける。だが、敵機模型の命中補正精度は、パニクったアイの脳みそよりも優秀だったようだ。

「あびゅ!」

 とうとうペイント弾の一発がアイの額に命中した。赤色の塗料が飛び散り、アイの顔をB級ホラー映画のように染め上げる。思ったよりも衝撃は小さかった。

『そこまで』

 リュゼの声が聞こえ、アイはようやく目を開いた。

『まったくダメダメでしたわね』

 一切オブラートに包まれていないシンプルな評価が、アイの胸に重くのしかかる。

 こうしてアイの初訓練は、散々な結果に終わった。

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