入社の洗礼にはコーヒーの苦味を
~第一章~
「諸君も知っての通り、今現在この星は、ニミジスによって制空権を奪われている」
壇上から、女性の声が響いた。スーツを着こなし、銀色の髪を後ろで束ねている。年の頃はもう四十手前と言ったところだが、鋭い眼光や引き締まった身体は今も一線の者たちにひけをとらない。
「浮遊島までは侵攻してこないのが不幸中唯一の幸いだが、輸送船や旅客船、軍用機までもが撃墜され、我々は多大なる被害を被っている。その恐怖に震える人もいよう、ニミジスに怒りを抱く人もいよう。そのような人たちの盾となり、矛となるのが諸君である!」
鷹のような鋭い目が、合同会議室に集められた十名にも満たない少女たちに向けられた。全員が緊張感溢れる表情で壇上の女性を注視している。
「我々『天地』は軍隊ではない。単なる一企業に過ぎないが、その背に、その翼に負う責任は、どんな者たちよりも重い。だがそれ故に、胸に掲げる誇りは誰よりも輝いている! ここにいる諸君が、一日でも早くその誇りに見合うラプターとなることを期待し、訓辞と代えさせてもらう!」
その入社式はひどくシンプルなものだった。名前を呼ばれ、まるで演説のような支部長の訓示を聞くだけ。まだ学校の入学式の方がそれっぽいだろう。もっと大々的なものを想像していただけに、遠野アイは肩すかしを食らった気分になった。
今も別室への移動を命じられているが、どうせ大したことはないだろう。
『第二検翼室』というのが、アイが向かう部屋だった。社内の廊下は病院のそれによく似ていた。白を基調とした清潔感の漂う廊下を行くと、確かにその部屋はあった。
コンパクトミラーを取り出し、改めて自分に粗相がないかチェックする。肩まで伸びた藍色の髪を手櫛で整え、跳ねっ返りがないか確認。よし。
「失礼します」
ドアをノックする。入社試験の面接を思い出した。そう言えば、あのときも大したことは聞かれなかった。この業界は、思ったよりも変わったモノではないのかも知れない。
「入りなさい」
部屋の中から女性の声が響き、アイはもう一度「失礼します」と声をかけ、ドアを開いた。
つん、と何かの薬のような匂いが一瞬だけ鼻を刺す。
部屋の正面にはイスとデスクが置かれており、
「いらっしゃい。可愛らしい新入社員さんだね」
それに腰掛けた妙齢の女性が、アイを出迎えてくれた。
肩くらいまでの、ゆるくウェーブがかかった銀灰色の髪。片眼鏡に丈の長い白衣。ナース帽はかぶっていなかったが、部屋の様相も相まって、その女性は一見すると医者のように見えた。
「そんなところで突っ立ってないで、おかけなさいな」
やや笑い声が混ざった言葉に、アイはハッと我に返る。
「し、失礼します」
もう三度目になる同じセリフを吐き、アイは女医(仮)の前に置いてある丸イスに腰掛けた。
(向こうは何なんだろう……)
座りしな、部屋の左側に目を向ける。おそらく部屋の半分ほどはあるだろうそちら側は、カーテンで遮られてうかがうことはできなかった。
「初めまして、私はアデリナ・ヘルツォーゲンベルク。他の人たちからは先生って呼ばれてる。よろしくね」
「は、はい、よろしくお願いします、先生」
やはり医者で間違いないようだった。先生と呼ぶことに全く躊躇いはない。名前で呼ぶには恐れ多いし、苗字はすでに後半を忘れている。
「あ、わ、私は……」
自分も自己紹介しなくては。ぐるぐる回っている頭で何とかその思考にたどり着いたが、アデリナはそれを制止した。
「キミのことは知っているよ、遠野アイ君」
なぜ、と思ったのは一瞬だけ。アデリナが手に持っているものを見て、アイは即座に納得した。
「遠野アイ。生まれも育ちもこの国この地方。天地への入社動機は、昔ラプターに助けられたことへの憧れ。入社試験では一部を除き、筆記も技能も恐ろしいまでの平均値を叩き出し、試験管の驚愕と失笑を誘った。ついでに容姿も人並み……いや、部分的に平均以下かな」
アデリナの視線を受け、アイはさっと胸を隠した。アデリナが手にしているのは履歴書と、恐らくは入社試験の結果表だろう。
(試験の結果は事実だけど、そんな言い方しなくてもいいじゃない。人並み以上のモノを持ってるからって……!)
顔を赤くし、アイはアデリナの胸部にジト目を送る。その視線を受けてか、アデリナは履歴書等をデスクに置き、腕を組んだ。窮屈そうに持ち上げられ、さらに視覚的ボリュームを増した膨らみに、アイは完全に打ちひしがれた。
「フフフ、百面相とはこのことを言うのかね。面白いな、キミ」
私は面白くないです、とは口が裂けても言えない。だが、顔には出てしまっていた。
「不満そうな顔だね」
す、とアデリナの目が細くなる。片眼鏡が不気味に輝いた。
しまった、と思ってももう遅い。相手は初対面で、しかもそれなりに地位が高い人物だろう。ラプターかどうかは分からないが、少なくとも機嫌を損ねていい相手ではない。
「あ、その、私……」
社会は思ったより厳しいところでした。何もできないまま、私は帰されてしまいます。申し訳ありません、シスター。
などと、アイは心中で涙を滂沱と溢れさせたが、
「フフ、フフフ、本当に面白い」
アデリナは愉快そうに笑い、デスクのミルからコーヒーを二杯注いだ。
「もう、緊張は解けたかい?」
そう言いながら、カップの一つをアイに手渡すアデリナ。アイは目を白黒させながらそれを素直に受け取る。ふわりと漂ういい香りが鼻孔をくすぐった。
「あ、ブラックでよかった? 砂糖、入れた方がいいと思うけれど」
「え? あ、いえ、大丈夫、です」
「あらそう? まあいいけれど。ここに初めて来る新入社員は、みんなキミみたいな反応なんだ。ま、いきなり一人で行ってこい、だもの。それも仕方ないことだけれどね。――うん、美味い」
カップを傾け、アデリナは満足そうに頷く。アイも同じようにしてみたが、
(苦……)
無意識に砂糖とミルクを断ってしまったことを後悔した。コーヒーは今までも飲んだことがあるが、ここまで苦いものだっただろうか。
「あの、それで、私はどうしてここに呼ばれたのですか?」
二口目を飲む気になれず、アイは会話を進めることにした。アデリナもそれに応え、もう一口飲んでカップをデスクに置く。
「キミは、この世界について何を知ってる?」
「この世界、ですか? えっと……」
アイは視線を落とした。カップに注がれたコーヒーが視界に映る。ミルクも砂糖も入っていないそれは、吸い込まれるような黒色をしていた。そこに映る自分と目が合う。何とも言えない、難しい顔をしていた。
「私たちの住む大地は全て空にあり、島の間の行き来は航空機を使うしかない。でも、ニミジスと呼ばれる機械に空を奪われており、安全に行き来するためにラプターがいる。こんな感じでしょうか」
「いいだろう。なら、ニミジスとは、一体何だ?」
「え、それは……人を襲う機械、ですか? すいません、わかりません」
冷や汗が背中を伝った。そもそも、ニミジスについて深く考えたことはない。この世界にいるのが当たり前の、人間に対する驚異。それ以上は何も分からない。
だが、焦るアイとは対照的に、アデリナは薄く笑みを浮かべた。
「そう、何もわからないのさ」
「先生でも、ですか?」
「キミが私に何を期待しているのかは知らないけれど、私でも、だよ。せいぜい、発生し始めたのが四十年近く前ということ、大小様々で、武装しているものもいること、人間を襲うこと、これくらいだね。人間以外の生物は襲わないし、人間を襲う目的も、どこから発生しているのかも分からない」
「紫海から生まれているのでは、という話を聞いたことがありますが」
「悪魔の証明だよ。紫海の下には何があるのかわからないし、ニミジス発生の瞬間を見たものもいない。わからないことだらけさ」
ふぅ、とアデリナは短く息を吐き、腕時計にちらりと目を落とした。
コーヒーを一口飲み、なら、と口を開く。
「ラプターのことはどこまで知っている?」
「ラプター……」
アイの脳裏に一瞬、過去の光景がフラッシュバックした。
赤色に包まれる視界。
倒れ伏す人たち。
幼い自分の前で、大きな機械の翼を広げている一人の女性。
「希望の翼、です」
無意識に、そんなことを口にしていた。
「詩人だね」
「あ、いえ、忘れてください!」
我に返り、アイは顔を真っ赤にして手をぶんぶんと振る。
恥ずかしさを打ち消すように、続けて口を開いた。
「ニミジスと戦い、私たちを守ってくれる人。それがラプターです。……っ?」
羞恥で頭に血が昇ったからか、一瞬立ちくらみのようなものを感じた。座っているままなのに。
「そうだね、その認識でおおむね間違いはない」
コト、とアデリナがカップをデスクに置いた。
「キミが言ったように、ラプターには翼が生えている。その翼と手にした武器、強い勇気でもってニミジスを駆逐する、まさに猛禽。なら、貴女はラプターの翼がどこから生えているか知っているかい?」
立ち上がり、ヒールの音を響かせながら部屋の左側へと向かうアデリナ。そうして、カーテンを勢いよく開いた。
「何ですか、その機械……」
そこにはベッドが置かれていた。だが、アイが言ったのはベッドのことではない。その上にある、大きな機械に対してだった。顕微鏡で例えるなら、ベッドがステージで機械が対物レンズだあろうか。その対物レンズらしき機械の先には、円盤状の部品が取り付けられている。
疑問には答えず、アデリナはアイの手から、そっとカップを取り上げた。その行為に対し、アイは何の反応もしない。
いや、できなかった。
「あれ……私……」
先ほどと同じような立ちくらみ。だが、今回は強烈な眠気も同時に襲ってきた。
「ラプターは魔法使いじゃない。何もないところから、翼は生えてこない」
ぐらりとアイの体が傾いだ。そっとアデリナが支えてくれる。
「わ、たし……」
「契約書にはサインしたはずだが、内容、ちゃんと読んだかい? たまに辞退する子がいるんだよ。まあ、誰だって不安だもの。背中に穴を空けられるなんて」
完全に弛緩したアイの体を、アデリナは軽々と抱き上げた。そのまま部屋のベッドに寝かせてしまう。
うつぶせに寝かされたアイ。頭上から、何かの機械が稼動する音が聞こえた。
「砂糖、ちゃんと勧めたのに」
意識が落ちる刹那、アイの視界に映ったのは、アデリナの妖艶な笑みだった。
「コーヒー、苦かっただろう?」